日本文学の古典中の古典、小説文学の不動の古典は紫式部の『源氏物語』。現在に至るまで欧米人による各種英訳が出版されているが、世界初の英訳は明治15年(1882年)刊の日本人・末松謙澄の手によるもの。欧米文化が怒濤のように流入していた時代に末松はどのような翻訳を行ったのか。気鋭の英文学者・星隆弘が、末松版『源氏物語』英訳の戻し訳によって当時の文化状況と日本文学と英語文化の差異に迫る!
by 金魚屋編集部
[二]
命婦が訪問先に参りますと、車が門口に入るなり、悲しみに呑み込まれるような心地がしました。
その家の主は長らく女やもめでありながら、ひとり娘の気に入るようにと、いつも家宅を小綺麗にしつらえておいででした。しかし今では、娘に先立たれた母の独り住まい。庭草が蓬々と背を伸ばし、風の吹き荒れるがままに薙ぎ倒されるのを、尚もさやかにつやめく月が、分け隔てのない澄まし顔で見下ろしております。命婦が訪いを入れると、南向きの表座敷に通されました。女主人のほうでも使者のほうでもなかなか切り出す言葉が見つかりません。ようやく口を開いたのは女主人のほうでした。
「長く生きすぎました、貴女のような勅使様の御見舞いを蒙ると、いっそうそのように思います」
そう言ったきり口をつぐんでしまい、込み上げてくるものを抑えられないようでした。
「内侍の典侍がこちらから戻られて」と命婦が言を接ぎました。「奏上された御言葉ですが、こちらで面と向かってみると、身につまされてたまらなかったと。それが真であったと、今思い知りました」
そして束の間のためらいののち、帝の思し召しを伝えるのでした。
「上様より承った通り申します、幻のうちをさまよう日々を送り、夢を見ているだけのようにも思われていたのが、今ではいくらか落ち着きもして、夢だ夢だと思い込む心も萎えてしまった。返す返すも、この胸の内を誰がわかってくれようか。どうか母君には参内し、話し相手となってくれまいか。宮中に御子のお姿がないのも気が揉めてならない、ただちに意を決してほしいとも仰せです。かく承りましたことを、上様は言い淀んでおられました。人目に女々しく映るのを気に病んでか、努めて直言を憚っておられました。その御様子がいたわしくてならず、とくと御心を斟酌する間も惜しんで、こちらへ飛んで参ったのです」
そう言って、帝より預かった親書を差し出しました。女主人は書を開くも、字が霞んで追えず、手燭で照らしてようやく「この明かりなら読まれよう」と読み始めますと、口づてに聞いたことと大方同じ旨が書かれておりました。『時が経てば悲しみも和らぐのではなかったか、時が経つほどに亡き人の面影ばかりが鮮やかに眼に浮かぶ。どうにも仕方のないことだが。坊やは変わりないか。あの子のことも頭を離れない。ともに育てようと手を取り合った在りし日が偲ばれる。あの子が亡き母の形見であることをゆめゆめ忘れてくれるな』
かい摘めばこのような内容に、歌が添えてありました、
どうとどよめくかぜのねに みやぎの*1そよぎてつゆにあらわれ
かのこやすらうはぎのねに ははのかげなきをみるとぞあわれ
女主人は親書をそっと傍に置いて言いました、「この身もこの世もうとましいのでございます、こんな倦んじ顔を下げてどうして参内できましょうか。畏れ多い御召出しにも応じぬ不束者で面目もありませんが、私は行かれません。ところで若宮については、なにが呼び水になったのやら、戻りたがっておりまして。血は争えませんね。この段よろしく御奏上なさいませ。若宮の御生まれを思えば、御幼少のみぎりをここでこうして徒に過ごしていて良いはずがありませんもの」
女主人はその場で手短に返信をしたため、命婦に預けました。孫と愛でる御子はこの間も深い寝息を立てておいでです。
「このまま御目覚めまで見届けて、若宮の御様子も一伍一什奏し上げたいのは山々ですが、今か今かと待ち侘びておられることでしょうから」
そう言うと、使者一行は帰り支度を始めました。
「亡き娘を偲んで泣き暮らす母親には気にかけていただけるのが慰めなのです。またいつか、ときどきでも、お仕事を離れてゆっくりできるときに、友としてお立ち寄りください。かつては貴女がおいでになるのは嬉しい知らせと迎えたものですが、今宵は嘆きの使いとなられて。つくづくこの生は甲斐のないものでございます。夫は娘が生まれたその日からずっと宮仕えさせることを夢見て、今際の際まできっと成し遂げてくれるようにと繰り返しておりました。後ろ盾と恃める人もない身ひとつで同じく側仕えする娘たちと肩を並べる、それがどれほど難儀であるかは心得ておりました。が、父親の願いを無下にもできず、娘が入内するのを見送ったのです。そこで上様は父母が夢にも思わなかったほど娘を可愛がってくださいました。妬み深い輩のどんなにむごい仕打ちにも泣き言一つ言わずに耐え忍んでおりましたのもその御優しさに報いるため。しかし妬み嫉みが弥増せば、虐めも弥増し、ついにこの世を去ってしまったのは、つまるところ、心労が祟ったのです。そのように思い返せば、この上もなく御優しい御心が不幸の源であったようにも思われます。あれ、こんなことはみな子を思って見境を失くした母親の由無し言でございます」
「上様もそのように御考えです」と命婦が返しました。「心ほだされてままならぬ愛しさを口にされるとき、それもこれも長続きはせぬ恋路とさだめられていた故かもしれないとよく仰っておられました。臣下の誰ひとりとて蔑ろにすまいとしてきたが、桐壺のことにかけてばかりは、恨みの種をまくことになり、それがみな仇となって、恋しい人はもういない。悲しみに打ち沈んでこう仰っては、前世からの縁に思いを馳せておられました」
夜はすっかり更け、命婦は再び立って帰り支度をします。月は西に落ちかかり、涼しい風が草葉をそよがせ、おびただしい虫の音*2が悲しげに啼いていました。出発するにもまだなにやら気兼ねして、使者は歌を口ずさみました、
あきのよながのすずむしの よもすがらなくねにまごうまで
うたものがたりのくらきねを うたいつぎたしよのあけるまで
なおも立ち去りがたくしているのを見て、女主人は折り返しの歌を継ぎます、
やぶはらになくすずむしを くもま*3よりくだりておとないし
ひとのそそぎしつゆにぬれ よかぜよあわれためいきとなし
宮仕えの礼装と美しく飾り立てられた簪一式が女主人から命婦へ手渡されましたが、それはもともと桐壺のものでした。いつか入用になるときのためにと娘が置いていったものですが、今となってはこの日の贈り物に供するのがなによりふさわしいという、母君の御心遣いです。
【註】
*1 宮城は萩の名所で知られる野原の地名。萩は学名をLespedezaという低木で、秋に小さく可憐な花を咲かせる。和歌では鹿と結びつき、牡鹿と牝鹿で恋人同士、子鹿がその子供の比喩に用いられるのが常套。
*2 日本ではじつに数多くの虫、つまり昆虫類が、とりわけ秋の夜に草むらで啼き声を響かせている。これも頻りに和歌の材にのぼるものである。
*3 和歌では、宮廷関係者は「雲の上の存在」として表される。
(第02回 了)
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