日本文学の古典中の古典、小説文学の不動の古典は紫式部の『源氏物語』。現在に至るまで欧米人による各種英訳が出版されているが、世界初の英訳は明治15年(1882年)刊の日本人・末松謙澄の手によるもの。欧米文化が怒濤のように流入していた時代に末松はどのような翻訳を行ったのか。気鋭の英文学者・星隆弘が、末松版『源氏物語』英訳の戻し訳によって当時の文化状況と日本文学と英語文化の差異に迫る!
by 金魚屋編集部
[三]
まだ御休みになられていないか、と命婦は戻るなり察しました。帝は命婦の帰りを待つ傍ら、今が花盛りの壺前栽――殿舎の前庭に設えられた花壇のことです――の花見に興じておられるようでした。気の置けない四五人の女官を従えて話をしておられます。帝はこの頃好んで長恨歌*1の話をなさいます。この詩を画題に亭子院が揮毫した絵よりも御目を愉しませるものはなく、御心を充たす語り種とても、やはりこの詩を題にして女歌人の伊勢と、同じく歌人の貫之を召し寄せて詠ませた大和歌よりほかはございません。この日の晩もまたそのような語らいのうちに御過ごしになっておられたのでした。
命婦はわき目も振らずに御前に進み出て、目にした全てを細大漏らさず奏し上げ、桐壺の母君の返書を差し上げました。優渥な御見舞いに際して畏れ多いこと、真忝くお返しする言葉もないことが認められておりました。命婦は帝の親身な思い遣りに甘えてのことと切り出して母君からの返歌を詠み添えました、
よるべなきみとなりはてて かれくちたるはぎのえだかげに
かのこはやわきみをよせて ゆめにみるらむははのおもかげ
帝は胸の昂りを抑えようにも抑えられません。懐かしい思い出が、初めてまみえたその日からの思い出が、とめどなく溢れてくるのです。何につけても愛おしかった日々がいまや遠い昔とは。帝は命婦に、「大納言が夢見ていた娘の立身は、私とて、叶えてやりたいと何度となく思った。が、何と空しい言葉か」そう言って、口ごもりました。
稍あって、再び口を開くと、「だがあの子は、生きておれば、やがて栄える巡り合わせもあるというもの。祖母ならそれまで長生きしたいとお祈りせねばな」
それから例の贈り物が献上されました。これがかの恋人より手渡された形見分けであったなら。そして、ささやくように詠ったことには、
みたまとなりしせんにんよ わがことづけのつかいとならば
ねたみのよのやみはらいゆけ かのものいこいしてんのまほらば
美しき楊貴妃の姿絵は、描き手がいかに巧みであろうと、絵は絵に如かず。生ける者の生気は宿りません。その目鼻立ちは内裏の庭に生いし蓮や柳になぞらえて賞されもしましょう、しかし纏える品はとどのつまり唐風ですから、かの恋人をなぞらえようと絵を見るのは御門違いとも、またそれゆえに、いっそうかけがえのない人とも思われるのでした。なぞらえぬとて、二人が翼を比べ合わせ、枝を連ねて木理を通す恋を契ったことを疑う由にはなりますまい。恋の果てには、風さやぎ、虫は啼き、ただ気が塞ぐばかりでも。
そのときです、弘徽殿のほうから楽の音が聞こえて来ました。そこにおわすお方は、帝の側を離れて久しいのですが、この夜更けまで憚りもなしに奏楽に興じておられたのです。
その音のなんと苦々しく響いたことか。
つきかげうせてやみよとなりぬ みやれどもみえぬてんのまほらば
さやけきかげよのどけきしじまよ みすてたもうなよもなきよもぎど
そう心に詠んだ帝は灯火のかかげ尽くすまで御休みになることはありませんでした。右近衛府*2の宿直の声が響きました。暁七つ半になっておりました。人目を憚って閨に入りましたが、心地よい微睡が御目を訪うはずもありませんでした。それが常となっておりました。
かつては朝起き抜けに「障子の白々明けも覚えず」と寝過ごした時刻を数えたものですが、今もまた朝の勤めは疎かになりました。食も細りました。午の御膳でも並べた御馳走に目もくれません。その御様子にみな心を痛めました。「二人の恋の道行きも神明の御業であろうさ」そして口々に、「あのお方のこととなると道理が引っ込んで、御分別を失くしてしまう。国家安寧も二の次よ」と、神妙になって海の向こうの王朝の蒙った例などを引き合いに出すのでした。
桐壺の御子が再び参内したのは幾月が過ぎたのちのことでした。翌くる年の春には第一皇子を皇嗣とする立太子礼が執り行われました。帝の御心を立てるのであれば、弟宮が兄宮に取って代わっていたことでしょう。しかしそれは無理からぬことでした、何故といえば――なにより後ろ盾と恃める身内を持たなかったためであり、加えて、そのようなやり方は世間が許すものではなかったのです、そんな身勝手が罷り通れば禍殃の原になりましょう。かくして帝は本音を秘して、おくびにも出しませんでした。帝の示した慎みによって事は円く収まり、第一皇子の母君も胸を撫で下ろしたのでした。
【註】
*1有名な唐詩。白楽天の作。前掲の註で触れた楊貴妃の物語を詠ったもので、死後に仙女となった楊貴妃を皇帝に遣わされた道士が探し求める。平安京の人口に膾炙した詩歌といえば、現代中国語で白楽天と発するこの詩人の諸作であり、ゆえに頻繁に引用されていた。
*2宮廷の衛所は左右の二手に分かれていた。
(第03回 了)
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