日本文学の古典中の古典、小説文学の不動の古典は紫式部の『源氏物語』。現在に至るまで欧米人による各種英訳が出版されているが、世界初の英訳は明治15年(1882年)刊の日本人・末松謙澄の手によるもの。欧米文化が怒濤のように流入していた時代に末松はどのような翻訳を行ったのか。気鋭の英文学者・星隆弘が、末松版『源氏物語』英訳の戻し訳によって当時の文化状況と日本文学と英語文化の差異に迫る!
by 金魚屋編集部
はじめに
『源氏物語』には数種類の英訳が存在する。古くは一九二一年から一九三三年にかけて分冊刊行されたアーサー・ウェイリー版が定番として世界的に知られるが、その後もエドワード・サイデンステッカー版、ロイヤル・タイラー版など訳し直しが重ねられ、最新訳であるデニス・ウォッシュバーン版の出たのが二〇一五年――そのいずれもが千年前に書かれた全五四帖の完訳であり、英語圏の読者のみならず、本邦読者にも親しまれている。しかし、ウェイリー版が最古ではない。それより四十年も先駆けて世界初の英訳を刊行したのは、英国留学中の二十代半ばの日本人青年、末松謙澄だった。
末松謙澄は一般的には政治家としての顔が知られているだろう。東京日日新聞社に出入りしていた十九歳の時分に伊藤博文に見出され、彼の庇護を受けて外交官として英国へ渡った。二年間在英公使館に勤めたのち依願免官し、ケンブリッジ大学に入学して法学士号を取得。帰国後は官職に復帰し、伊藤の女婿ともなり、やがて議員に転身、伊藤内閣において逓信大臣、内務大臣を歴任した。彼はまた明治演劇史上の人物でもある。『演劇改良意見』を著して演劇改良会を主導し、西欧演劇を手本に歌舞伎の改良を図り、天覧歌舞伎の実現に尽力した。そして文芸方面でも水際立っていた。ケンブリッジ在学中に義経=チンギス・ハーン説を唱える英語論文を発表すると、これをのちに内田弥八が『義経復興記』として漢訳し、ベストセラーとなった。謙澄自身が二宮孤松とともにバーサ・クレイの『ドラ・ソーン』を邦訳した『谷間の姫百合』も大評判となり、明治の新時代を生きる女性たちの愛読書となった。シェリーらの英詩の漢訳でも先駆的な仕事を遺している。そして『源氏物語』の英訳。一八八八年には『西国立志伝』の中村正直らとともに文学博士号を授与されているが、これは『源氏物語』英訳の功績によるものだという。
ならば『末松版源氏物語』は金字塔的翻訳作品としてさぞかし高く評価されているのだろう、と思われそうなものだが、事実はそうではない。末松謙澄の業績として触れられることはあっても、『源氏物語』の翻訳としては忘れ去られてしまっていると言ってもいいだろう。英訳を再び邦訳する戻し訳もどうやらまだ存在しない。川勝麻里氏の研究書『明治から昭和における『源氏物語』の受容――近代日本の文化創造と古典』に、謙澄の序文のみ戻し訳が収録されているが。
末松版が翻訳として評価の芳しくないのには明確な理由がある。まず全五四帖のうち十七帖までしか訳されていない。川勝氏は初版本に付された「刊行の辞」にある第一分冊という文言から十八帖以降も訳出する企図があったのだろうと推定しており、それが何らかの理由で頓挫してしまったのかもしれない。もし全五四帖を完訳していたら、評価が一変していたか。そうとも言えない。なぜなら、謙澄の取った翻訳手法は、原文を随所削除・要約したり、原文にはない文章を書き加えたりする大胆なもので、リテリングに近い。原文に忠実であることを至上命題とする現代の翻訳観から見れば、たとえ完訳を達成していても、末松版が高い評価を維持して現代にまで読み継がれていたとは想像し難い。
そのような翻訳をあえて戻し訳するのだから、これは面白いに決まっている。翻訳は、それがどれだけ原文に忠実な出来であっても、訳者によって抽出された要素によってのみ構成され、抽出されなかった要素が必ず残されている。原文と翻訳の二言語間が時間と言語の性格において隔たっていればいるほど、その抽出と残余が特徴づけられる。通常、原語を解さない翻訳の読者はその抽出物しか享受できない。しかし、戻し訳の読者なら、抽出と残余の翻訳プロセスそのものを賞翫できる。ましてや謙澄の翻訳手法においては、彼が抽出したものを跡づけていくことで、彼にそのような翻訳手法を選ばせたところのもの――明治国際社会における日本と日本文化に対する内外圧――を探求する楽しみもある。
幸い『源氏物語』には、与謝野晶子や谷崎潤一郎をはじめとした現代語訳が数多くあるし、原文内容へのアクセスは容易だ。明治の若き俊英が『源氏物語』のなにを西洋世界に突きつけようとしたのか。そのスリリングな挑戦を味わえるようにしたい。
この戻し訳は、『源氏物語』原文と照合しながら、飽くまで末松謙澄の訳文を底本として訳し下すことを主目的とする。彼が付した脚注もすべて訳出する。また、謙澄は原文の歌については二行連句または隔行で脚韻を踏む交互韻の四行詩という西洋詩の韻律に従って英訳している。これについては、西洋詩の翻訳技法としての五七調の平仮名韻文訳を試みている。歌をみだりに散文化しなかったのは、日本には英国のそれとも比肩しうるような詩歌の文化があることを示したかったのではないか。謙澄の意を汲みつつ、『海潮音』のようなことをやってみたかった戻し訳者の執着でもある。
『源氏物語』「桐*1の間」
末松謙澄英訳 星隆弘戻し訳
今やその御名を知る人ぞなきある帝の御代のことです、宮仕えする女御更衣*2の中に、高貴な生まれではないけれど、御寵愛の望潮時を得た果報者がありました。そのために、めいめい「我こそは」と思い定めていた目上の者たちからは目の敵にして蔑まれ、同輩目下の者たちからはそれにも増して恨みを買っておりました。
そのような境遇ですから、いつも大いに恐れをなして心休まる時ぞなく、ついに体を壊してしまったのもそれが禍いしたのでしょう、しばしば御所を退いては里の母君の元に身を寄せるほかないのでした。
大納言*3であった父君はとうに亡くなっておりました。母君は雅やかなお方で、宮仕えにふさわしい作法というものを一から仕込んでくれましたので、その点では父母共に息災なお陰をこうむって時めく誰彼の人後に落ちることはなくとも、宮中の誼となると恃むべき後ろ盾をなくしたことに気後れを覚えることが度々ありました。
しかしながら、かような身の上であればこそ憐れに思う帝の御寵愛はますます情け深くなり、後の世を戒める故事の材にもなろうかという入れ込み様でした。中国には御執心のあまり天下の動乱や災いの種ともなる例が一度ならずあったといいます、此度のことでも人が眉を顰めて噂し、楊貴妃*4を引き合いに出して案じ始めるのも無理からぬことでした。
やがて、二人の恋の一途さに神明の御加護が降ったか、女は宝石のように輝く御子を授かりました。帝は右大臣(律令国家の長官職です)の娘の弘徽殿女御*5との間に第一皇子をもうけておりました。歳の順においても先立つばかりでなく、母方の親類との関係にも大いに差し響くとあっては、第一皇子が皇太子となるに違いないというのが大方の意見の一致するところでした。それは帝もよく承知しておりましたので、生まれたての御子を目に掛けるのも、世の親が秘蔵っ子を慈しむようなものです。そうはいっても、もっともながら、第一皇子の母君は胸騒ぎを覚えるのでした、立ち回りかたを誤れば我が子が弟宮に取って代わられるやもしれぬ。なるほど、この女御こそ一等初めに入内されたお方であり、兄宮の他にも姉宮をもうけておりました。故に、帝もないがしろにしてはおかれず、この方にたしなめられることにばかりは頭が上がらないのでした。
女御の恋敵の話に戻りましょう。きわめて繊細な性質であったのは先にも触れた通りです、そして周りはいわば化けの皮を剥がしてやろうと目を光らせる者ばかり。宮中の私室は桐壺と呼ばれていました(桐の間という意味です)。辺りに桐が植えられていたためです。帝がその部屋に通うにはいくつかの部屋の前を素通りせざるをえないのですが、その度毎に各部屋の女官らは苛立ちを覚えるのでした。そしてまた、女の方から帝の側へ参上する段になると、御殿への通り道のあちらこちらで、往々にしてはしたない悪戯が待ち受けているのです。連れ立つ侍女の着物の裾を汚す、他に抜け道のない渡り廊下の戸を閉して通せんぼする、という具合にあの手この手を講じては、一丸となって嫌がらせをするのです。
そのことがついに帝の耳に入り、御殿からは目と鼻の先にある後涼殿の一室を特別に割り当てて下さいました。その部屋に元々住んでいた女官は移し替えとなり、新たな恨みの火種となったのでした。
御子が三歳を迎え、袴着*6の儀が執り行われました。その華やかさは第一皇子のときの祝儀に些かも見劣りのしないものでした。じつに、宮中にある限りの財物を費やして盛大に祝われたのです。するとやはり世間からはそれを咎める声が上がりました。その年の夏、桐壺の更衣は病を患い、里下りを願い出ました。しかし帝は、具合のよくないことはいつものことと思い、なんとか口説いて引き留めようとなさいます。更衣の病は日に日に重くなり、もはや見る影もないほどにぐったりとやつれておしまいになりました。帝が甘い語らいと優しい心遣いで可愛がろうとも返事もろくにできません。瞼の垂れた虚な目をして、しおれ果てる花の最期のひとときのようで、あまりの衰弱ぶりに母君みずから帝の前に罷り出て、涙ながらに里に連れ帰る許しを乞うのでした。療治の手立てを様々尽くしても効き目がないのにうろたえて、帝はとうとう里下りの輦車*7も手配しましたが、なおも桐壺に足を運んで見舞っては泣き言を漏らすのでした。「ふたりで誓ったではないか、生の最果てに至る道行きであっても先に行ったり遅れたりせず一緒に行こうと。なのにいま私ひとりを置いていこうというのかい?」悲しみと思いやりのこもった目で見上げて、絶え絶えのか細い声で、更衣は答えました、
くらきよみじのはなむけに わびしとかこつきみがため
いかまほしけれはかなげに みをやつすらむわがさだめ
「こうなることとわかっておりましたら――」
さらに何か言いたげでありましたが、言をつなぐ力は残っておりませんでした。帝は胸がつぶれる悲しみにほだされ、更衣の里下りに同行しようとも、はたまたこのまま最期のときまで留めおきたいとも、心惑いました。
結局、その日の晩に親元で病魔払いの祈祷を上げる手筈となっているというので、急ぎ御所を発ち、更衣は里に下りました。若宮はそのまま宮中に留め置かれましたが、このような折にも、なるべく人の目を盗んで出て行ければ嫉妬深い女官どもに勘づかれまいと案じた、母心を汲んでのことでした。帝におかれてはその夜は暗澹たる思いに打ち沈んでおられました。次から次へと使いを出して見舞わせますが、その帰りを待つのでさえ辛抱たまらずという様です。夜半となり、嘆き咽ぶ声が響き渡りました。空しく駆け戻ってきた使いが悲しい知らせをありのままに告げました。このときより帝の御心は暗く閉ざされ、御殿に引き籠もってしまわれました。
帝は母を亡くした御子を側に置いて離したくないと願われましたが、前例のないことでしたので、御子は祖母の元に送られて喪中を過ごすことに取り決められました。御子はまだ物心がつく前ですから、悲しみ喘ぐ帝と侍従らの顔を目を丸くして見回しておいででした。別れには心を痛める棘がつきものですが、このような形の別れの棘の鋭さたるやいかばかりか。
やがて葬儀の日を迎えました。更衣の母君は娘とともに荼毘*8に付してくだされとばかりに泣き喚き、野辺送りの侍女らに付き添われて車に乗り込みました。葬列が愛宕(おたぎ)の墓所に着き、厳かに葬儀が執り行われました。独りうらぶれた母は何を思っておりましたでしょう。目の前には娘が生前の姿をありありと残して横たわっております――まだ生きておいでのように。娘が亡くなった事実を呑み込むためにもその亡骸が灰になるのを見届けねばなりませんでした。葬儀の最中に御所からの使いが参られ、故人に三位の位を叙されました。厳かな静寂を縫って勅状が読み上げられました。帝は生前の間に更衣から女御へと格上げしてやることさえできなかったと悔やまれ、往生の前にせめて一段でも高い位を授けたいと望まれたのでした。この施しにふたたび苦い顔をする者もありました。しかし思いを巡らせば、賞賛の的であった亡き人の麗しさや雅な振舞いが偲ばれてきて、懐かしくも思われるのでした。息災なればこそ帝の度を越した御寵愛のために多くの敵を作りましたが、いまとなっては敵意は憐れみとなりました。そうならざるは弘徽殿におわす方のみでありましょう。「ゆきしひとこそゆかしきひとぞ」とはこのようなときを詠ったものなのでしょう。
鎮魂の習わしを型通りに執り行いながら幾日が経ちました。帝は物思いに耽るばかりで絶えて人付き合いをなさらずに日を送っておりました。気が紛れるのは御子の祖母の元へ使いをを出してどんな様子だったかと探るときぐらいです。時は秋口、吹き抜ける夕風も肌寒くなりました。兄宮を見るにつけ弟宮のことを思い出さずにはおれないのも遣る瀬なく、いよいよ以て思い煩うある夕べのことです、帝は靭負の命婦*9を様子見に遣りました。夕月の昇るとともに命婦が発ち、帝も濡縁に立って眼前の夕景色をじっと眺めておりました。そのような折にはいつも心を許す幾人かを伴っていたものですが、そのうちの一人はきまってかの恋しきお方なのでした。しかしもういない。あのお方の奏でる心を震わすような楽の音が、胸を打つ節回しの歌が、暗く物憂い夢現に遊ぶ耳元に遠く聞こえてくるのでした。
【註】
*1 キリと呼称する美しい樹木。学名はPaulownia Imperialis。
*2 ともに宮廷女官の官職名。
*3 宮廷官職名。
*4 唐王朝の皇帝が寵愛したことで知られる傾国の美女。その色香に溺れて統治をおろそかにした結果謀反が起こり、王朝動乱の因となったという。
*5 弘徽殿と称される宮中の一室に住まう女御の意。
*6袴着は幼年期から少年期へと移る男子が袴を着せられる儀式を指す。一般的には五歳の年の行事だが、公家ではより早い時期に行うのが通例。
*7 人の手で牽く車。宮中では格別に高貴な人物にしか使用を許されなかった。
*8 火葬は当時一般的だった。
*9 靭負という名の宮廷女官。命婦は官職名。
(第01回 了)
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