『アナザー Another』2012年(日)監督:古澤健
監督:古澤健
脚本:田中幸子 、古澤健
キャスト:
山崎賢人
橋本愛
袴田吉彦
加藤あい
秋月三佳
岡野真也
上映時間:109分
「究極の学園ホラー」と謳われた本作は奇抜な物語設定を一つの呼び物にしている。だが本作は往々にして観客を失望させる結果になるか、満足できない作品として消化されることの方が多かったように思える。実際に筆者も本作が(笹谷かな魅力的要素はあれど)大変に魅力的な作品とは思わないし、構造上に明らかな欠陥があると考えている。
しかしここで筆者は本作が駄作であることを罵り、徹底して本作を批判するつもりはない。なぜなら罵倒は感情の吐露であって作品の思索ではないからだ。そうした個人的ストレスの発散よりも「なぜ本作は駄作となったのか?」という問題を考えることの方がよっぽど価値があると筆者は考えている。又、それこそが映画批評の意義ではないだろうか。そのため本稿では『アナザー Another』がなぜ魅力的ではないのか、という問題と笹谷かなる隠れた魅力についても考えていきたい。
■何が本作を駄作にしたか?■
本作の鑑賞時に失望を体感させる最大の要因は、大人気となった原作との差異だけにあるわけでもなく、若手の俳優の演技にあるわけでもないだろう。筆者は本作が魅力的ではない根本的な原因の一つが脚本の構造の破綻にあると考えている。
本作のプロットは田舎町に転校してきた中学3年の榊原が気胸の発作を起こして臨死体験をするところから始まる。彼が生と死の狭間で見たのは、川辺に浮かぶボート(この場面は終盤で現実世界でも登場する)と眼帯をした一人の少女(橋本愛)、死んだ母親。そして彼は夢の中で見た同じ少女を病院内で見つけるが、彼女は何故か霊安室に入っていく。
不可思議に思っていると転校先のクラスには、その少女がいた。榊原は彼女のことが気になり、眼帯をした少女のことを同級生に尋ねると「そこの席はずっと空席だ」と言われ、彼女が自分にしか見えていないことに気付かされる。そして榊原は彼女を幽霊だと思い、話しかけるが彼女は会話を拒絶し、同級生からは「話しかけない方がいい」と不可思議な忠告を受けてしまう。そこで彼は「いない者」を知ることになる。「いない者」とは、榊原が転校した学校に伝わるルールであり、毎年3年3組は「いない者」を決め、その者は学校内で一年間存在しない者として振る舞わなければならない、というもの(今年は眼帯をした見崎鳴(橋本愛)が「いない者」になっていた)。また学校内の人は誰ひとりとして「いない者」を「いる者」として扱ってはいけない。そのため「いない者」に話しかけたり、存在しているかのように振る舞ったりしてはいけない。もしルールを破ったらクラス内の誰かが事故死という形で一人ずつ死ぬという「現象」が生じることになる。実際に榊原が彼女に話しかけたことでクラスの一人が死に、その後も担任教師や生徒が次々と死んでいくことになる。
ここまでの展開を見て明らかに不可思議なのは、導入部の展開ではないだろうか。まず彼が臨死体験で見た光景は、実のところ、物語の最後までほとんど意味をなしていない。クライマックスの場面で夢の中に映ったボートが描かれるが、物語上どこにも関連性を見出していない。ましてや霊安室に入る見崎鳴(橋本愛)の描写が意味不明である。なぜなら、その後、彼女は幽霊ではなく、ただの女子中学生であることが明かされるからだ。もし彼女が幽霊であるなら、亡霊のように霊安室に入っていく描写は伏線となるが、本作の展開においては全く意味をなしていないし、観客を混乱させるだけの描写ではないかと思われる。
また転校時にクラスの人間が一人ずつ自己紹介させられるシーンで、先生が「一人ずつ自己紹介しよう」と声がかかるとカットが割れて、次のシーンとなり、「あの女の子は誰だろう」と榊原は気にしている描写が入る展開も不自然だ。
一人ずつ自己紹介をしたのなら、見崎鳴だけ「いない者」であるが故に自己紹介を省かされたに違いない。そうなれば「なぜ彼女だけ自己紹介を省かされたのだろう」というシーンが入っても可笑しくはないはずだ。しかし本作はその場面を描かないばかりか、榊原は、この時点で何も気付いておらず、彼が同級生に見崎鳴のことを尋ねることによって、ようやく彼女が無視されていることに気付くのだから不自然ではあるまいか。それらの場面はどう考えても辻褄が合わず、プロットの構造として破綻していることは間違いない。さらに致命的なのは、橋本愛がなぜ皆から存在を消されているのかを明かすのに、30分、いやそれ以上の時間を有している点ではないだろうか。
そもそも本作は原作の映画化であることを宣伝時にアピールし、予告編でも「いない者」の存在を明らかにしているわけだから「いない者」や話の展開をすでに知っている観客の方が多いはずである。数分の枠で説明可能な基礎的なミステリーを早々と明かさないことは、観客を退屈にさせてしまうだけであることは誰の目にも明らかだ。それにも関わらず「誰でも知っている謎の答え」に30分以上有す本作の構成は明らかに効果的ではないし、謎を醍醐味にするミステリー映画としては完全に破綻した構造を有していると言わざるをえない。しかも「いない者」という存在が明かされた後の展開は、「現象」による残虐な暴力描写が続くわけだが、この恐怖表現がいかにも陳腐なのである。では本作の恐怖表現の何が凡庸なのかを考えていくとしよう。
■サスペンス性の欠如■
『アナザー Another』のスプラッター描写は、しばしば『ファイナル・デスティネーション』Final Destination(00)と比較されてきた。そもそも『ファイナル・デスティネーション』は予知夢によって事故の大参事から逃れることができた高校生たちに、死神の超自然的な力が及び、次々と身の回りの道具によって殺されていく様を緊迫感たっぷりに描いたアメリカのホラー映画である。
たしかに『アナザー Another』も『ファイナル・デスティネーション』も超自然的な力によって、事故死させられる(結果的に被害者は残虐な死に方をする)という点で同一と言えるだろう。だが両者の恐怖演出には、明らかな差異が見られる。それはサスペンス性の有無ではないかと筆者は考えている。
そもそも『ファイナル・デスティネーション』は、ネジや釘、ナイフや日常生活の器具をクロース・アップし、静かで不穏なサウンドで一切先の読めない展開を緊張感たっぷりに演出する古典的なサスペンス手法を醍醐味にしていた作品である。被害者が死ぬことはほとんど観客も了承済みだが、そこに至るまでの緊迫感が巧妙であった。
しかし本作『アナザー Another』は、スプーンが眼に刺さるといった展開も唐突に起こるだけで、緊張感を構成しようとする演出が一切見受けられず、ただのグロテスクな描写、あるいは記号的な描写となっていたように思える。また「現象」の最初の犠牲者である女子の死に様シークエンスでもガス缶の爆発によってガラスが飛散するまでの過程が説明的で、不穏さや緊迫感を漂わせるような表現演出が疎かであったことは否めない。そして首が切断されるシーンでは、切断される瞬間を被害者の全身が映るフルサイズで映すだけであり、あまりに唐突であることも相俟って、緊迫感を生み出すまでに至ってはいなかった。サスペンス性のない残虐描写の前では、観客が「ピアノ線でもあるまいし、ワイヤーだけで首が切れるか?」という失笑を抱いてしまうのも仕方ないと言えるだろう。
いくらR15指定回避のために残虐描写を極力抑えたからといっても被害者が死ぬまでの緊迫感を構築することは、監督の手腕次第で演出可能だったはずである。この緊迫性の希薄さは、明らかに作り手側の演出力の無さを露呈させたものと結論づける他ない。
だが本作は『ファイナル・デスティネーション』とは異なり、スプラッター描写とは別の恐怖表現の可能性を有している。それは「学園ホラー的な恐怖」とも言うべき恐怖表現である。では本作は「学園ホラー的な恐怖」をどのように扱ったのだろうか。
■学園ホラー的な恐怖とは?■
そもそも学園ホラー的な恐怖とは、「コミュニケーション力や適応力、社会的責任が未熟な子供たちが、学校という閉じられた子供社会の中で繰り広げる無数の暴力や孤独、哀しみから表出される恐怖」だと思われる。例えば、悪質なイジメや陰口、非論理的で幼稚な考えによって導き出された結論…云々。それらは本作でも垣間見える。
友人の死を受け入れられずに人形を代替物としたクラスの異様な「死者の弔い方」。または現象を止めるために生み出された「殺人行為」。クラス内で蠢く「疑心暗鬼」。そして「いない者」のルール。未熟な思考しか持たない子供たちが学校という社会の中で生み出したいくつもの現象は、彼らが必死に止めようとする「現象」よりも理屈上では恐ろしい。
しかし本作はそうした学園ホラー的な恐怖を「現象の理由づけ」ないしは「スプラッター描写のきっかけ」として描いているにすぎず、劇的な表現としては演出してはいなかった。さらに榊原と見崎鳴が発見した「現象を止める方法」を録音したカセットテープが合宿先で同級生によって暴露されるシークエンスも惜しい。この合宿所では「クラス内にいる死者を殺せば現象は止まる」という噂が流れ始めて、同級生達は先ほどまで仲良くしていた友人を死者だと思い込み、同級生を殺そうとするわけだが、生徒同士が殺し合いをするまでには発展しておらず、焦点が当てられるのは「死者は誰か?」というミステリーにすぎなかった。そこでも友が友でなくなるという学園ホラー的な恐怖は、恐怖表現として演出されず、謎解きのきっかけでしか機能していなかったように思われる。
これまでも見てきたように、本作『アナザー Another』はミステリーとしての脚本構成として明らかに破綻しているし、恐怖表現もサスペンス性に乏しく、描写の域を出てはいなかった。また学園ホラー的な恐怖を表現しきれていないという絶望的な評価を与えなければいけない作品であったように思う。
だが本作をささやかに分析する作業は、映画が脚本構造や視覚的・聴覚的な表現性によって魅力を発揮し、それらを怠れば、どんなに魅力的で奇抜な設定や俳優陣をそろえても駄作へと転落してしまうことを明らかにしてくれたという意味で価値があったように思える。ただ「駄作」の一言で片づけられる作品でも、そこには理想的な表現性と構造を示してくれる反面教師の役割があることを忘れてはいけない。
また本作にも勿論評価すべき点があることも最後に述べておこう。すなわち橋本愛の瞬間的な魅力である。それは「可愛い」という印象ではなく、今の彼女にしかできないパフォーマンスをフィルムに定着させたという意味でのパフォーマンスの美学ではなかろうか。古澤監督が言うように、アイドル映画としての輝きを見せていたという点では本作は絶大なる魅力を放っていたと言えるかもしれない。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■