No.137『没後100年 富岡鉄斎』展
於・京都国立近代美術館
会期=2024/04/02~05/26
入館料=1,200円[一般]
カタログ=2,800円
京都に行く用事があり、宿泊したホテルから歩いて行ける京都国立近代美術館で没後100年記念の富岡鉄斎展を見て来た。鉄斎作品は宝塚の清荒神清澄寺鉄斎美術館でいつでも優品を見ることができるが、公設美術館では久しぶりの展覧会である。
富岡鉄斎は天保七年(一八三六年)京都生まれの南画家である。大正十三年(一九二四年)に当時としては長寿の八十九歲で亡くなった。例によって南画は中国発祥だが、江戸後期の日本で大流行して独自の発展を遂げた。基本は山水画に漢詩の賛を付けた絵画様式である。賛の内容は中国漢詩の場合もあるし、日本の文人や画家自身が作った漢詩の場合もある。もちろん絵の内容に合った漢詩を書くのである。
江戸を代表する南画家に与謝蕪村(一七一六~八四年)、池大雅(一七二三~七六年)、浦上玉堂(一七四五~一八二〇年)、田能村竹田(一七七七~一八三五年)らがいる。蕪村は俳人としても知られる。南画家はほかの絵師たちと同様に若い頃に動植物・人物・風景の写生をして絵画技法を磨く。が、南画自体は架空の風物である。画家の心中にしかない理想郷を描くのである。そのため南画は文人画とも呼ばれる。中国漢籍に精通している学者(儒者)がそこから得た高い精神性を表現する絵だからである。『日本外史』を書いて幕末尊皇思想に多大な影響を与えた思想家・頼山陽も南画作品を書き残している。
鉄斎は「俺は知つての通り元が儒生で、画をかくといふのが変体ぢや」「私の画を見て下さるなら、第一に画賛から読んで貰い度い。私は意味のないものは描いてゐないつもりぢや」と言った。いずれもよく知られた鉄斎語録である。鉄斎は自分は儒者で、南画を描くのは学者本来の仕事ではないと考えていた。絵を見るなら画賛から読んで欲しいというのは南画は学者の知見や精神の表現だということである。
ただ鉄斎の言う学者は現代とは微妙に意味が異なる。鉄斎の学者は文字通り〝学ぶ者〟のことである。現代の学者はそれぞれの専門分野を研究し、その自我意識の発露として新説を発表したりする。しかし専門儒者を除いて江戸の知識人たちは儒学を基礎学問として学んでいた。儒学の知識をベースに異なる分野でその能力を発揮していったのだった。
江戸までの日本は圧倒的な中国文化の影響下にあった。四書五経は紀元前六世紀頃に成立した書であり、漢詩集を代表する唐詩選も八世紀頃の漢詩を集めたアンソロジーである。文章を書き残すこと自体が大変だった時代から伝わったので、これらの書には選りすぐった重要な事柄と美しい詩文しか収録されていない。また中国の史実であっても人間世界の愛情や友愛、諍いはさほど変わらない。中国古典は欧米の『旧約』『新約聖書』になぞらえることができる書物だった。
日本の知識人たちは儒学を学ぶことで倫理や道徳、愛憎を始めとする人間世界の様々な機微を学んだ。それを基盤に政治経済、国学、医学などの道へと進んでいった。江戸後期には蘭学が盛んになり杉田玄白らの蘭方医が活躍するが、元をたどれば彼らも儒者である。儒者のネットワークが様々なジャンルで江戸の学問を発展させたと言っていい。
鉄斎は「南画の根本は学問にあるのぢや、そして人格を磨かなけりや画いた絵は三文の価値もない」とも言った。鉄斎が自分は儒者で絵は余技だという意味のことを言ったのは学問(学ぶこと)の重要性を強調するためである。実際鉄斎は生涯に渡って膨大な漢籍を蒐集して読み耽り、自邸に魁星閣という大きな書庫まで作った。鉄斎は儒学を講義できるほどの知見を蓄えていたがそれは南画を描くためだった。常に学ぶ者でなければ優れた南画を描けないというのが鉄斎の一貫した姿勢であり、決して素人画家を自認していたわけではない。当たり前だが彼は優れたプロの画家だった。
『扶桑神境図』
大正十三年(一九二四年) 八十九歲(九十歲落款) 紙本着色 一幅 縦一四四・五×横三九・三センチ 清荒神清澄寺 鉄斎美術館蔵
鉄斎は大正十四年十二月三十一日に八十九歲(数え年)で死去したが、『扶桑神境図』は翌年正月に床に掛けるために描かれた最晩年の作品である。色鮮やかで余白の少ない鉄斎画の秀作だ。ただ鉄斎は絵を見るなら賛から読んで欲しいと言ったがこれが難物である。なかなか読めない。清荒神清澄寺第三十七世法主の坂本光浄氏によって鉄斎の賛を読み解き活字化した「鉄斎研究」が創刊され現在まで続いているが、その入手も難しい。
今回の展覧会は鉄斎没後100年記念で新しい発見などはないが、図録に主な作品の賛文が掲載されていて大変有難い。『扶桑神境図』賛文は「九十行年栄啓期。太平多楽幸男児。揮毫万象皆周易。八卦変爻為我師。 乙丑新年一月 九十叟 鉄斎。」九十歲の長寿を自祝し天地万物の変化を師としているといった意味である。正確に読めなくても漢字は字面を眺めているとなんとなく意味が伝わって来るから便利である。
鉄斎はまた最後の南画家と呼ばれる。明治維新で実質的に漢詩が滅んだのだから半ば当然だ。漢詩が滅んだのは日本が文化規範を中国から欧米に大転換したからである。御維新以後、外国からの最新文学の移入は漢詩ではなく欧米翻訳詩から始まった自由詩が担うことになった。儒学も漢詩も時代遅れになったわけで、南画を描こうにもその素養が失われてしまったのである。ただ鉄斎が最後の南画家と呼ばれるのは必ずしも生き残った天然記念物という意味ではない。
だいぶ前にテレビで時代劇を見ていた時に甥っ子に「叔父さん、明治維新の後に江戸の人たちはどこに行っちゃったの?」と聞かれたことがある。質問の意味がわからなかったので問いただすと、甥っ子は維新の文明開化を境にチョンマゲ着物姿の江戸の人々が消えてしまったと思い込んでいたのだった。「伊藤博文も板垣退助も江戸の人だよ。天保時代生まれの人は大正時代頃まで生きていたんだ」と言うと「ああそっか」と恥ずかしそうに笑ったが、ちょっと面白い誤解だった。
日本は古墳時代から中国文化の影響下にあったので、文化規範を欧米に転換した明治維新は一五〇〇年に一度の文化的大変革だった。その衝撃は太平洋戦争敗戦よりも甚大だろう。しかし何歳で明治維新を体験したのかで衝撃の度合いは違ってくる。
夏目漱石は明治維新一年前の慶応三年生まれだが、その精神の三分の一くらいは江戸の人だった。小説家として知られるが漢詩を好んで書いた。帝国大学進学前に二松学舎で本格的に漢学を学んでもいる。当初は漢学者になろうとしたがそれでは飯が食えないから英文学に転向したのだった。
漱石の帝国大学の恩師、マードックは『日本歴史』を書いた。その中で維新後の日本の発展は驚異的だと述べている。それに対して漱石は「維新の革命と同時に生まれた余から見ると、明治の歴史は即ち余の歴史である。余自身の歴史が天然自然に何の苦もなく今日迄発展して来たと同様に、明治の歴史も亦尋常正当に四十何年を重ねて今日迄進んで来たとしか思はれない」と書いている。しかし鉄斎は明治元年に三十三歲である。どっぷり江戸の人だった。
村瀬太乙など幕末に生まれ明治・大正時代まで活動した南画家はいくらでもいる。ただそのほとんどが後ろ向きだった。時代遅れの儒者として細々と南画を描いた。しかし鉄斎は違った。同時代の若い日本画家や洋画家と積極的に交流し彼なりに新しい画題や技法を取り入れた。鉄斎の精神は幕末に出来上がっていたが明治現代に対して向日的に開かれていた。
『富士山図』右隻
明治三十一年(一八九八年) 六十三歲 紙本着色 縦一五三×横三五・五センチ 清荒神清澄寺 鉄斎美術館蔵
『富士山図』は鉄斎代表作の一つで、六曲一双の巨大な屏風の右隻である。右隻には遠景の富士山、左隻には火口付近のクローズアップが描かれている。
江戸の画家はまず粉本(絵のお手本)を模写して基本的筆法などを学んだ。そこから江戸の画家は実物を見ないで絵を描いたという俗説が生まれたわけだが、多くの画家がいわゆる写生を行っている。鉄斎も同様だが明治になって汽車などが開通するようになるとほぼ日本全国を写生旅行している。九州から北海道まで旅している。
『富士山図』は写生に基づいている。鉄斎が捉えた実景だと言ってよい。賛には鉄斎が敬愛する先人、池大雅と高芙蓉、韓大年が連れ立って富士山、立山、白山の三霊峰に登ったという逸話が書かれている。明治の写実を取り入れた南画である。
『酔李白像』
明治時代 六十代 紙本淡彩 一幅 縦一三七・二×横六〇・六センチ 布施美術館蔵
自在さも鉄斎画の特徴であり魅力である。南画は基本風景画だが鉄斎は数多くの人物画も描き残している。江戸期まで人物画はほぼ土佐派の独占だったが日本画と洋画という新たな区分が生まれた時代に即して、鉄斎は南画の技法を元に様々な画題を描くようになった。鉄斎が最後の南画家と呼ばれるのは江戸期までの絵画を一人で集約したような絵を描き残したからである。
『酔李白像』の賛は「臣是酒中僊 鉄斎帯酔而墨戯。」「僊」は仙人のことなので「臣」つまり李白は酒中の仙人で、鉄斎は酔ってこの絵を描いたことになる。酒席などで求められるまま筆を揮った席画だ。鉄斎は書家としても知られるが決して流麗で上手い書ではない。しかし書から「これで良い」という強い確信が伝わって来る。それが南画の本質だ。
田能村竹田は細密画のような几帳面な南画を描いた。しかし大雅堂(池大雅)や与謝蕪村、浦上玉堂らの南画は上手い下手を越えている。そこが南画の魅力でありまた鑑賞が難しい点である。
江戸時代の絵で最も理解するのが難しいのは南画だと思う。伊藤若冲や曾我蕭白、長沢蘆雪、円山応挙らの絵はとりあえず感覚で理解できる。スッと良い絵かそうでないかわかる。しかし南画はそうはいかない。なぜこの絵が名品と言われているのか、なぜ国宝にまで指定されているのか絵の前で考え込むことになる。人それぞれ理解の糸口が必要だろうが僕の場合は漱石だった。
漱石は近代的自我意識の権化のように言われるが、遺作となった『明暗』執筆中は午前中に連載一回分を書き午後は日課として漢詩を書いた。漱石の漢詩はほとんど評価されず無視されているが小説(『明暗』)と密接に関係している。また漱石は基本的には儒者しか描かない南画を数多く描き残した。漱石の南画もまた趣味で片付けられているわけだが「私は生涯に一枚でいいから人が見て有難い心持のする絵を描いて見たい山水でも動物でも花鳥でも構はない只崇高で有難い気持のする奴をかいて死にたいと思ひます」とまで書き残した漱石の南画が趣味であるはずがない。
古往今来 我 独り新たなり
今来古往 衆を隣と為す
横ざまに鼻孔を吹いて 郷友に逢い
豎に眉頭を払いて 老親を失う
合浦 珠還りて 誰か主客
鴻門 玦挙げて 孰か君臣
分明なり 一一 他に似たる処
却って是れ 空前絶後の人
(『[無題]』大正五年[一九一六年]十月十七日 原文漢詩)
『明暗』執筆中の漢詩である。「古往今来 我 独り新たなり」「空前絶後の人」という文言を読めば漱石が何を表現しているのか直感的に理解できるだろう。また江戸期までの漢詩で「我 独り新た」や「空前絶後」という文言を使うことはなかった。漢詩が身近なものでなくなったので漱石漢詩の受容はおろそかになっているが、明治時代でしかあり得ない斬新な漢詩を書いている。漱石は自分一人が新しい人であり空前絶後の人だと詠っている。漱石という人はたまさか近代小説の基礎となる小説を書いたわけではない。明治の新たな小説を書こうとして書いた。
碧水 碧山 何ぞ我有らん
蓋天 蓋地 是れ無心
依稀たる暮色 月は草を離れ
錯落たる秋声 風は林に在り
眼耳 双つながら忘れて 身も亦た失い
空中に独り唱う 白雲吟
(『[無題]』大正五年[一九一六年]十一月二十日夜 原文漢詩)
漱石は十二月九日に亡くなったので漢詩の遺作である。自然界にはわたくしというものがない、自分もまた無心の境地に至って独り白雲の吟を唱うのだという大意である。
漱石が晩年の文学的境地(セオリー)を則天去私という漢文で表現したことはよく知られている。「天に則って私を去る」である。この則天去私は漱石晩年の午前中に『明暗』一回分を書き、午後は漢詩を書くという執筆姿勢に正確に対応している。
詩と小説を両方手がけた者は、詩が直感的断言だということを理解している。それに対して小説は現世のもつれた愛憎を描く俗な書き物だ。漱石は「倫理的にして始めて芸術的なり。真に芸術的なるものは必ず倫理的なり」とあくまで文学に対して道学者的だった。が、『明暗』は津田夫婦を中心とする愛憎劇である。だからといって作者が小説と同じ審級にいるとは言えない。漱石は作品より高い審級にいて登場人物たちの言動を冷ややかに眺め描いている。午前中に俗な『明暗』を書き、午後に漢詩を書くことで上位審級から作品世界を統御していた。
漱石の則天去私は明確な文体構造である。最も難しいのは作品世界から私性を取り除いて天から、ある意味神のような視点から作品世界(現世)を眺めることだ。漱石の漢詩と南画制作は則天去私の境位を得るためのエクササイズだったと言うことができる。
ただ実際に漱石の南画をごらんになった方はおわかりだと思うが、あの文豪漱石が描いた絵だという以外あまり魅力がない。漱石は則天去私文体を模索中の『明暗』執筆中に満四十九歲の若さで亡くなったので仕方がないかもしれない。しかし技術が未熟だったから魅力が生じなかったわけではない。南画は本質的に画家の技量を問わない。また不思議なことに優れた南画家の作品は気力体力が衰えるはずの晩年の方が魅力を増す。洋画や普通の日本画ではまず起きないことである。絵師の精神性、あるいは思想的確信が南画を魅力的にする。
たとえば浦上玉堂の絵はいっけん乱雑に見える。殴り書きしたような山が多い。しかし縦長の軸の紙を突き破るように上へ上へと盛り上がってゆく線が彼の頭が高いとも言える精神性を表している。大雅堂は点描でしばしば木の葉を描いた。真作の大雅堂作品の点の打ち方には確信がある。漱石が長生して則天去私文体を我が物としていたら彼の南画は魅力を放っただろう。鉄斎の「南画の根本は学問にある」という言葉は南画と呼ばれる絵画表現の真髄を衝いている。
『雲龍図』右隻
明治四十四年(一九一一年) 七十六歲 紙本淡彩 一幅 縦一三八・五×横五一・二センチ 鳩居堂蔵
『雲龍図』は今も書道用品などを扱う京都の鳩居堂が鉄斎のために墨を作り、それを使って描かれた作品である。賛は「曲江祭龍。/維年月日。京兆尹兼史大夫韓愈。謹以香果奠。敢昭告于東方青龍之神。天作旱災。嘉穀特枯(将稿)。今於甲乙之日。依(準)古法作神之像。斉戒祀祷。神受其(其享)祐之。時降以甘雨。以恵玆人。急急如律令。/明治辛亥大暑節。鳩居堂為余製書画用墨以見恵。試写此図。検査可否云。鉄斎外史。」である。盛唐の詩人・韓愈作の雨乞いの詩『曲江祭龍文』が書かれている。
パッと見るとフォービズム絵画のように荒っぽい作品だ。しかし絵も書も迷いがない。雨風を巻き起こす青龍を見事に描いている。鉄斎は七十代で化けたと言われる。晩年の七十代、八十代が全盛期なのだ。筆遣いは荒くなっていったが、その分、鉄斎の高い精神性が手に取るように見る者に伝わるようになったからである。
現代には江戸的な文脈での南画家はいない。いなくなってしまった。漢籍の知識が圧倒的に足りない。しかし熊谷守一や永田耕衣、田島隆夫といった作家たちが漢文や俳句、短歌などを賛とした絵を描いている。絵が上手いわけではない。絵から感じ取れる精神性が高く評価されている。南画の伝統は今も形を変えて続いてる。
鶴山裕司
(2024 / 04 /25 17枚)
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