時間の本質を解明するための大学院に進学するかどうか迷っていたアンナの部屋に、突然少年が現れる。またあの日時計の不思議な作用だ。少年はアンナにあるミッションを果たすよう伝えに来たと言い、アンナは再び異世界に旅立つ・・・。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもあるラモーナ・ツァラヌによる連作短編小説!
by 金魚屋編集部
「たどり着くべき場所にたどり着いたんだ。これが運命ってものじゃないかしら」
大学院の初日だった。午前中に山根研究室で行われたオリエンテーションに参加して帰宅したアンナはその日の出来事をゆっくり振り返った。
長い間、「運命」とは外から否応なく個人に押し付けられる生き方だと思っていた。しかし短かったがオリエンテーションの時間は充実していた。アンナは期待に胸を膨らませた。運命とは必要な条件が揃った時に自分で選ぶものなんだわ、と強く思った。
山根研究室で行われたオリエンテーションではまずカリキュラムの説明があった。その後、アンナと同じようにこれから時間の研究の取り組む院生たちが順番に自己紹介した。様々な専攻とバックグラウンドを持った六人のメンバーだった。その中に日本語がペラペラの留学生がいた。キャサリンというイギリスの大学で古代文明の研究を専攻していた女の子だった。アンナと同じように緊張で顔がこわばっていた。
カリキュラムの説明の後、みんなで山根研の隣にある実験室に移動した。コンピューターなどの機器はもちろん、たくさんの資料や本がズラリと並ぶ書棚がある部屋だ。
「実験室は朝から夕方まで開いています。ゼミがない日でもいつでも本を借りに来ていいですし、コンピューターなどをご自分の研究に使ってもいいです。この場所を自由に使ってください」
山根教授が機器や資料の使い方を一通り説明してくださった。
実験室横の小部屋は院生たちのためのロッカー室だった。ロッカーの扉を開けると実験室の利用時に着る白衣がハンガーに掛かっていた。アンナは白衣を手に取った。胸のところに「TORIGOE A.」と自分の名前が濃紺で刺繍されていた。アンナは白衣に触れた。白さが目に染みた。新しい毎日が始まろうとしていた。今まで入る勇気がなかった世界の扉が開き、たくさんの発見と刺激が待っているのだ。
仲良くなったキャサリンと一緒に食堂でお昼ご飯を食べた。話してみると明るい性格の子ですぐに打ちとけられた。キャサリンはエジプトやメソポタミアでどんな機械で時間を計っていたのかを話してくれた。刺激的だった。アンナはキャサリンと夢中でおしゃべりした。
家で物思いに耽っているともう夕方だった。アンナはハッとした。「そうだ、おじいさんとおばあさんに合格報告しなきゃ!」
大学院に応募するよう背中を押してくれたのはおじいさんとおばあさんだった。明日から本格的にゼミが始まってしまう。その前に彼らにお礼を言い、できれば研究テーマのインスピレーションになった時間の樹をもう一度見ておきたかった。
アンナは日時計を手に取った。おじいさんたちの所へ行く方法は蓮が教えてくれた。アンナは玄関でスニーカーを履くと窓から差し込む夕方の光に日時計をかざした。軽くリングを回すと部屋がグルリと回った。アンナはすぐに時間の渦の中に巻き込まれた。
さあさあと、風が草を揺らしている音がした。
アンナは目を開けた。ふわふわとした雲が浮かぶ青空が見えた。太陽は東の空を半分くらいまで昇っていた。さっきまで夕方だったのにここはまだ午前中のようだ。
身体を起こすと露が残っている草が手に触れた。空気が澄んだ広々とした草原の中にいた。「ここはどこだろう」アンナは目をこらした。
草原の向こうに街が見えた。赤い屋根の建物がぎっしりと軒を連ねる街。真ん中に細い塔が立っていてそのとんがった屋根も赤い。街の手前には城塞のような頑丈で大きな建物がそびえている。建物の間には緑が多く、街の周辺の丘も緑に覆われているので赤い屋根がいっそう鮮やかに見えた。ドイツのポストカードに出てきそうな絵のような街だった。
アンナは目の前に広がる緑の絨毯のような草原を見た。うねるような緑の谷のてっぺんにポツンと一軒の家があった。家の前の庭で作業している人の姿が目に入った。おばあさんだ! アンナは立ち上がると駆け出した。ちょっとズレたがちゃんと目的地に着いていた。
近づくとアンナに気づいたおばあさんが顔を上げて手を振ってくれた。風がハーブの甘い香りを運んできた。庭はラベンダーやカモミール、ミントやヴァーベナに、エルダーフラワーの草やリンデンの木でいっぱいだった。おばあさんは香りの良い草花に囲まれてニコニコ笑っていた。おばあさんの足元に蝶々を追って草の中で飛び跳ねる猫がいた。蓮が遊んでいた猫かもしれない。
「こんにちは!」
「あらアンナちゃん、今日は丘の上から来たの?」
「書斎に行こうとしたんですが、外に着いちゃったんです。日時計の操作にまだ慣れてなくって」
「いいのよ、どこから来てくれても」
おばあさんは事もなげに言った。
前に訪ねたとき、おじいさんとおばあさんの家には街中にあるビルの最上階から入った。今回は外から見ると丘の上の一軒家だ。時間の樹が浮かぶあの高い天井の部屋もこの家のどこかにあると考えると、やはり普通の家ではないとアンナは思った。この家の謎も、自分が時間の旅ができるようになったことに関係があるかもしれない。
アンナはおばあさんが手に持っている籠を見た。カモミールの花でいっぱいだった。
「ハーブを育てているんですか?」
「ええ、ハーブティー用のものもあるし、薬草もあるのよ。街の人にもおすそ分けしてるの。私たちが健やかに過ごせるよう、植物は力を貸してくれているからね。さあ、お家に入って。今日は賑やかになるわ。アンナちゃん以外にもお客さまがいるのよ」
そう言うとおばあさんは意味あり気にウインクした。
アンナは丘の向こうの街について聞きたかった。が、おばあさんが言った「お客さん」が気になった。もしかしたら蓮君かしら。蓮と話したかった。しばらく会っていないので話したいことがたくさんあった。アンナはドキドキしながら家に入った。
玄関のすぐ脇に開け放たれたドアがあり、おじいさんが座っているのが見えた。書斎のようだ。
「アンナちゃんがいらしたわよ」
おじいさんに声をかけると、おばあさんはそそくさとキッチンの方に歩いていった。
「お邪魔します」
「おお、元気だったかい」
「おかげさまで元気です。おじいさんとおばあさんのおかげで無事大学院に入学できました。そのお礼が言いたくって。迷っていた時に励ましてくださってありがとうございます」
「それはよかった」おじいさんが大きな笑顔を見せた。
「さあさあ、こっちにいらっしゃい。作り立てのエルダーフラワージュースよ。おいしいわよ」
奥のキッチンテーブルの前に立ったおばあさんが手招きした。
アンナはおじいさんといっしょにテープルの前に座った。いただきます、と言って一口飲んだ。花の香りが甘酸っぱい味わいとなって、気持ちが爽やかになる飲み物だった。ふと見るとコップが四つ置かれている。口を開きかけると「上の棚の資料、全部整理しましたよ」と男の人の声がした。視線を向けると二階に続く階段に男の人が立っていた。アンナは驚いた。各務輝によく似ていた。
「ああ御苦労様、助かったよ」
「大変だったでしょ。ジュースを召し上がって」
「ありがとうございます」
コップに口をつけながらアンナに軽く会釈した男の人の目が大きく見開かれた。間違いない、各務さんだ!
「おいしいジュースですね、ごちそうさま。僕はそろそろ戻らなくちゃ」
ひと息にジュースを飲み干すと各務は腕時計を見た。
「あらそうなの、残念ね」
「また何かあったら呼んでください」
「うん、御苦労だったね」
おじいさんにうなずくと各務は右手の指で軽く腕時計に触れた。パッと彼の姿が青い光に包まれキラキラ光る塵になって消えた。あっという間だった。アンナはあっけにとられた。
「今の、各務さんですよね。彼はどうしてここにいるんですか」
アンナはようやくのことで言葉を絞り出した。
「よくここに来て色々手伝ってくれるんだよ」
眼鏡の奥からアンナを見つめたが、おじいさんは少し驚いた顔だった。「それをちょっと見せてくれる?」アンナが首から下げた日時計を指さした。
アンナが手渡した日時計をおじいさんはためつすがめつ眺めた。日時計をひっくり返すと目の前にかざし目を細めてじっと見た。日差し穴の一時のところに一筋の光が小さく点灯しているのがアンナにも見えた。
「そうかそうか、君たちはあれから会ってないんだね」
何がなんだかわからなかった。
「各務さん、私を見てすぐ帰っちゃいましたよね。もしかして、私に怒っているんでしょうか」
「何か怒らせるようなことをしたの?」
アンナはドキリとした。とはいえまったく思いあたる節がない。
「ははは、冗談だよ」楽しそうに笑うとおじいさんは「まあ、あの人は色々抱えこんでいるからね。そのうち自分から話すだろう」と付け加えた。
「そうですか・・・・・・」
ここに来れば不思議なことが起こる。それは覚悟していた。それにしても各務が現れたのはあまりにも意外だった。「各務さんはどうしてここに出入りしているんですか?」アンナは訊かずにいられなかった。
「ああ、彼も立派な時間の護衛士だからね」
おじいさんは当たり前のように言った。アンナは話についていけなかった。
「時間の護衛士ってなんですか?」
おじいさんはそれには答えなかった。手元の日時計を見ると「ああ今、ちょうど二時だ。そうかそうか、そういうことか」小さく呟くと椅子から立ち上がった。
「ついておいで」
アンナは各務が降りて来た階段を昇るおじいさんの後を追った。
二階は広々とした書庫だった。書棚には本だけでなく古そうな巻物も収められていた。おじいさんは背の高い書棚に梯子を掛けると慣れた様子で上に昇り、一本の巻物を手に取って戻ってきた。書庫の入り口近くに置かれた机の上に巻物を広げた。
アンナはおじいさんと並んで巻物を見た。以前見たことのある図が描いてあった。無数の線が交差する白い輪の輪郭。時間の樹に違いない。ただ以前見た絵とは赤いシールの位置が違っているような気がした。訊ねようとするとおじいさんが口を開いた。
「今度、時間の護衛士たちが集まるんだ。この山のふもとに」
おじいさんは巻物の赤い点を指さした。アンナはじっと赤い点を見つめたが山など見えない。どうやらおじいさんにはアンナには見えない山が見えているようだ。森に囲まれた建物で大勢の時間の護衛士が会議をしているところを想像した。
「アンナちゃんも、その集まりに加わる時節になったようだ。日時計がそう言ってる」
アンナはハッとした。ここではこれ以上訊いてもムダだ。それは直感でわかった。ならば行って確かめるしかない。集まりに加われば彼らが何者なのかわかるだろう。それにきっと、また各務に会える。
「おーい、おばあさん!」
おじいさんが階下に向かって叫んだ。おばあさんが昇ってくると「アンナちゃんはこれから時間の護衛士たちの集まり出かけるんだよ」と言った。
「あらそうなの、行ってらっしゃい。気をつけてね」
おばあさんが微笑みながらサラリと言った。落ち着いた声だった。その声でアンナの緊張がほぐれた。
おじいさんが日時計を図の上にそっと置いた。
アンナは覚悟を決めた。日時計に手を伸ばすとの日差し穴を赤いシールに向けてゆっくり回した。
「行ってきます」
そう言った瞬間、本棚に囲まれた部屋がグルンと回って溶け出した。
(前編 了)
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