妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
調子はどう? /最近、年取ったなと思うことが多いよ/もしかしたら、もう結婚してたりする? /子どももいたりする? /お互い長生きしないとね/じゃあね
目で追うごとに、文章がコケモモの声で再生された。片言めいたイントネーションが懐かしい。
無言電話のことや、先月メールを送らなかったことには一切触れていない文章。そして結婚と子どもについての予想外にストレートな質問。やはり、俺に対して何か伝えたいことがあるのだろうか。まさかヨリを戻したいなんて考えていないだろうな……。
コケモモのことを考えながら戻った部屋には、サイズの合わないジャージを着た義父の姿。そんなミスマッチに最初は落ち着かなかったが、やっぱり酒は便利だ。何となく間が持つ。そのうちコケモモのことは薄まり、義父と一緒の空間にも慣れてきた。
出前の寿司が届いたのは午後五時直前。マキは二、三貫つまむと、「ちょっと横になるわ」と寝室に行ってしまった。ここ一ヶ月辺り、夕食をあまり食べなくなっている。気付いた当初は食欲がないのかと心配したがそうではなく、あまり体重が増えすぎるのも良くないらしい。
残された男二人は、焼酎をウーロン茶や麦茶で割って飲み始める。互いにずっと無言のまま、リビングで点けっぱなしのテレビを眺めていたが、俺が氷を取り換えると「すまないな」と言われた。いえいえ全然、とよく分からない返事をしてからまた沈黙。テレビの中では、若い女性タレントが人気のスイーツを紹介している。
「相撲にしましょうか」
「うん、そうしよう」
また沈黙。ただ、それで構わない。俺は相撲、というかスポーツ全般に興味がない。こういう時に義父の寡黙さは有難い。
「あ、柿ピーも持ってきますね」
「ああ、うん」
また沈黙。そんな切れ切れの攻防が変わり始めたのは、更に一時間ほど過ぎて焼酎のボトルが空いた頃。ニュースをぼんやり眺めていると、不意に「今回は、迷惑かけるな」と言われた。よく分からずに「いいえ」と答えながら義父の顔を見ると赤味が差していて、彼が泥酔した日のことを思い出してしまった。
「いやほら、色々と不便になるだろう、色々とさ」
その言葉で「迷惑」とはマキが家を留守にすることだと分かった。一人暮らしの経験もあるので大丈夫だと答えると、炊事や洗濯は得意かと尋ねられた。少し表情が和らいでいる。
「まあまあ平均点ですかね」
「そうか、私は苦手だったな」
何秒間か目を閉じてから、彼は若い時分の話をゆっくりとしたペースで話し始めた。
長野から大学入学の為に上京して、結婚するまで十年近く一人暮らしをしていたこと。ヤカンでお湯を沸かしていることを忘れて寝てしまいボヤを出したこと。学生時代は銭湯通いのうえ貧乏だったので、何日も風呂に入らないままだったこと――。
俺はいちいち笑うことも出来ず、かといって無反応なのもおかしいので、微笑みを浮かべたまま相槌を打っていた。そのせいで、頬の辺りが少し痛い。それにしても、こんなに喋る人だとは思わなかった。気付けば話は、結婚をしてマキの姉が産まれた頃に進んでいる。
「イマ風に言うとあれは『できちゃった結婚』だな」
苦笑しながら告白する義父。大手旅行代理店に入社して五年目。仕事も新婚生活も順調だった時期を「バラ色とまではいかないが、いい時期だった」と振り返り、それはその後も五、六年続いたと言った。それから五、六年といえばマキが産まれる頃だ。そんな俺の計算を察したかのように、彼は「そう」と頷いた。こういう状態が「ほろ酔い」なのだろうか。グラスに残っていた焼酎を一息に飲み干してから、声を潜めて「つまらなくなっちまってな」と彼は言った。
「つまらなくなっちまってな……。ちょうど仕事に慣れてきた。慣れると必死さがなくなるもんだね……。家のことも同じ。女房や娘がいる生活にも慣れてきた。必死じゃなくなってきた……。人間、必死にやらないとつまらなくなる。それは分かってた。けど、まあ、私は鈍いのかもしれないな。で、そんな時期に二人目の子、な? あの子がお腹の中にいるって聞かされて、うん、はっきりと分かったんだな……。こりゃまずいぞ、って」
グラスを口に運びながら十分近くもかけて彼はそう話した。まるで独り言みたいだ。話している時よりも沈黙のほうが多い。言葉を選ぶ、というより話すこと自体を迷っているように見える。
静かにその場を離れ、新しい焼酎のボトルを開けた。そっとウーロン茶割りを差し出すと、彼は大きく「うん」と頷き三分の一ほど飲んだ。俺はただ次の言葉を待っている。そして一分。出てきた言葉は重かった。
「逃げようかと思ったんだ」
サイズが合わないグレーのジャージを着た彼は、苦々しげにそう言った。
「あれは、どれくらいかな、マキが産まれて三、四ヶ月かな。逃げちまおう、ってな。うん、今思うとよく分からんよ、理由は、ちゃんとは言えん。女房と上の子が出かけてて、こんな風にテレビを見ながら酒を飲んでて……、なんとなく寝ているマキの顔を見てたら、逃げちまおうってなったんだ。しかも、すぐにさ。すごいもんだろ? すぐにだよ、すぐ。服を着替えて財布だけ持って、そのまま家を出たんだ」
今度は一気に話しきった。堰を切ったように、とはまさにこういう状態だろう。俺は直視出来ずに俯いたまま、腹にぐっと力を入れていた。
「駅まで行って、いつもの定期で電車に乗って、三十分くらいしてから降りたよ。普段降りたことのない駅でな」
俺は腹に力を込めたまま、まるで自分が体験した記憶のように、その映像を思い浮かべる。
「降りてはみたんだけどさ、なんだか知らん駅でさ、家には三、四ヶ月の赤ん坊を置き去りにしてさ」まるで歌でも歌うように、彼は喋り続ける。「俺はさ、想像してたよ。あの子は、マキは、死ぬかもしれないって」
置き去りにされた赤ん坊のマキと、置き去りにした義父。両方の立場を想像して、密かに歯を食いしばる。
「それってかなり怖いですよね?」
そう訊きたかったが我慢した。話を途中で止めたくはない。
「で、すぐ、反対側のホームの電車に乗ってな、家に戻ったよ。駅からはとにかく走った」
俯いたままの俺の耳に、グラスをドンと置く音と、柿ピーをかじる音が聞こえている。重い話だ。柿ピーでもかじらなきゃ話せない話だ。
「いやあ、全速力で走ったよ。早く家に帰らなきゃ、あの子が死んじまうぞって。おっかしいよな、自分で勝手に出ていったくせにさ。でも、本気でそんな予感がしてたんだ」
呂律も怪しくなっている。でも俺は止めなかった。途中で止めると二度と聞くことができなくなる。そんな気がした。だからじっと耳を澄まし続ける。
「ドアの鍵を開けて、部屋に飛び込んで、まだ女房は帰ってきてなくて、マキは、すやすや眠ってたよ。すやすやね」
馬鹿みたいだが安心した。当然その赤ん坊はマキなんだから死んでいるはずはないのに安心した。また柿ピーをかじる音。うーん、と唸った後「よかったよ」と彼は呟いた。
「よかったよ、あの時家に戻ってさ。よかったよかった、あの子を殺さなくて本当によかった」
そっと顔を上げる。彼は椅子にもたれかかり目を閉じたまま喋っていた。
「あの時、私は三十前だったけど、もし、もしだよ、あの子が死んじゃってたらな、それまでの三十年がパーだ」
パー、と俺が繰り返し呟いたのを受けて、「そうだ」と頷く義父。
「そう、パーだ。パーになるんだ」
「……」
「もし死んじゃってたら、私はマキを殺すために三十年、ずーっと生きてきたってことになる。そのためだけさ。他の出来事なんてないも同然だ。な? そんな人生はパーだよ。パーなんだ」
次の朝、まだ雨は小降りだったがマキと義父は横浜へと出発した。まだ早い時間に三人で駐車場まで歩くのは変な感じがした。「週に一回は顔出してくれるんでしょ?」というマキを、あまり無理言うなという感じで義父が見る。昨日の酔いはもうすっかり抜けて、俺に緊張を強いるいつもの雰囲気が戻っていた。
「御両親は元気なんだね?」
車に乗り込む寸前に突然尋ねられた。はい、と答えると「よろしく伝えてくれな」と肩を叩かれる。お義母さんにもよろしくお伝え下さい、と窓越しに伝えて頭を下げると、ゆっくりと車が動き出した。おどけて大きく手を振るマキに手を振り返す。いつもの笑顔だった。昨日の話を思い出して背筋が伸びる。もし義父が人生をパーにしてもいいと開き直っていたら、あいつは今、この世にいなかったかもしれない。
雨の中、車が見えなくなるまで俺は手を振り続けた。家に帰ると、スマホに着信が一件とメールが一件。メールは今しがた手を振り合ったばかりのマキだった。
じゃあね/ちゃんとテーブルの上、片付けとくんだよ/一人暮らし生活の初仕事だね
確かにテーブルの上は昨日のまま、食べ残しの寿司や柿ピー、焼酎のボトルやグラスが載ったままだ。着信はサクラちゃんから。とりあえず今日から少しの間、一人暮らしになる。まだその実感は湧かない。
妊娠九ヶ月目(三十二週〇日~三十五週六日目)
マキがいない生活に馴染むのは、自分でも驚くほど早かった。
思ったよりも不便を感じないまま日々が過ぎていく。
洗濯と掃除は面倒くさいが、食事は外食で済ませればいい。ただ、どうしても一日三食は摂れず、朝と夕方だけになってしまう。そのせいか少し体重が落ちた。昨日もサクラちゃんから「ちょっと痩せたんじゃないですかあ」と心配されたばかりだ。眉をひそめた表情が可愛らしかったのを思い出す。
あれから彼女とは三回会った。同伴出勤ではない。店が休みの日に飲みに行ったり、出勤前に食事だけしたり、といった具合だ。下心がまったくないわけではないが、少なくとも今までは健全に付き合ってきたつもりだし、その距離感に俺は満足している。
仕事の方は、電話営業のシフトを減らして喫茶店の方に時間を割き始めた。最近は行く度に父親から色々と教えてもらっている。
俺としてはメニューの改正やランチメニューの作成、またクーポン券制度の導入など新しいことを試したいが、そこはやんわりとストップをかけられた。まずは基本が出来てからよ、という母親の意見はもっともだ。
「夜想」にも相変わらずのペースで顔を出している。この間は久しぶりにトミタさんと会って遅くまで飲んだ。
「どうだ大学出、一人暮らしの気分は?」
いつも通り元気なトミタさんに、「ちょっとだけ羽を伸ばしてますよ」と言うと「悪いことしてんだろ」と首を絞められた。サクラちゃんのことを喋りたかったが、ぐっと堪える。
「まあ言いたくないなら言わなくてもいいけど、女房には気付かれないようにしろよ」
「いや、何もないですよ」シラをきる。
「馬鹿野郎、バレバレだよ」そう言って笑われた。
「え?」
「顔に書いてあんだよ、その顔に」
あまりにも確信に満ちた口ぶりだったので、少し不安になってしまった。
「俺にだってバレちまうくらいだから、お前は隠しごとが下手なんだな」
「何言ってんですか、カマかけても無駄ですよ」
思わずむきになった俺の膝をポンポンと叩き、トミタさんは「ま、それならそれでいいけどよ」と煙草を揉み消した。
ふと鏡で自分の顔を見てみる。彼が言うように、サクラちゃんとのことが表情に滲み出てしまっているのだろうか。自分では分からない。そして、もしそうだとしたらマキは勘付いているのだろうか。それも分からない。
分からないけど、時間は過ぎていく。先週末もマキの実家に顔を出してきた。色々と滲み出ているかもしれない顔なので不安はあるし、向こうの両親の前でリラックスはできない。だから一緒に食事をしなくてもいいように、昼過ぎに行って夕方前には帰る。マキも察しているらしく、特に引き止めたりはしない。その辺りに気が回るくらいだから、やはり俺の顔から何かを読み取っているのだろうか? 本当に分からない。
まあ、いいや。
結局そんな風に諦める、いや、開き直るしかない。一人暮らしになってから、俺はどこか雑になっている。
(第17回 了)
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*『オトコは遅々として』は毎月07日にアップされます。
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