妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
スマホの着信音に起こされたのは午前二時前だった。普段はバイブのみだが、マキから緊急連絡があるかもしれないので、一人暮らし中は音を鳴らしている。ちょうどウトウトしかけていたので、相手も確かめずに出た。
「もしもし、遅い時間にすいませえん、サクラですう」外かららしく、車の走る音や人のざわめきも聞こえる。「もしかしたら起こしちゃいましたかあ、本当にごめんなさあい」
言葉とは裏腹に彼女の声は明るい。酔ってんのか? と尋ねると「やっぱり分かりますかあ」と笑った。前回会った時にマキが実家へ戻ったことは伝えている。だからこんな時間にかけてきたのだろう。
「店は?」
「もう終わりましたあ」
「でも今、外だろ?」
「はい、みんなと新宿で飲んでてえ」
「そっか、で、酔っ払ったわけだ」
ベッドに横たわり、目を閉じながら若い女の子と喋るのは楽しかった。学生の時みたいだ。
「えっとお、そんなに飲んでないですう」
「嘘だよ、結構テンション高いぜ」
「いや、あのお、それはあ」
しどろもどろになった彼女の後ろから、女の子たちの歓声が聞こえる。
「あれ、お店の子たち?」
「あ、はい、そうなんですう」
「これからどこかで飲むの?」
「え、多分、はい」
学生気分のまま、朝までずっと喋っていてもいいんだけどな。そんな風に思っていると、ほろ酔いのサクラちゃんから想定外の言葉が出た。
「あのお、これからって出れませんよね?」
思わず目が開いた。部屋は暗いのに何故か眩しい。それって今から会おうってことなのか?
「え、これから?」
「はい。あ、でも、ごめんなさい。無理ならいいですう、大丈夫ですう」
これ以上迷っていると電話は切れてしまう。明日の予定は……実家の喫茶店に行くだけだ。よし、乗っとこう。
「いや、大丈夫だよ。今どこ?」
そう尋ねると「え、新宿ですけどいいんですかあ、ありがとうございますう」というサクラちゃんの声と、女の子たちの歓声が聞こえた。
ベッドから起き上がり、服を着替えるまで五分弱。スピードの原動力は下心。学生時代と同じだ。家を出たのが二時二十分。タクシーに乗り込んだのが二時半。微かに感じる肌寒さが、夏から秋に変わったことを教えてくれる。もう一度サクラちゃんから電話が入り、待っているという店の名前を告げられた。知らない名前だが気にならない。この際、どんな店だって構わない。
道が混んでいたので大ガードの近くで降り、歌舞伎町まで歩く。段々と近付いてくる喧噪。こんな時間に来るのは何年振りだろう。とっくに眠気は吹っ飛んでいる。スマホの地図を頼りにたどり着いたのは、ビルの四階にある和風の居酒屋。看板には五時まで営業と出ている。そうか、五時か。
今日、もしかしたらそういうことになってしまうかもしれない。さっきの女の子たちの歓声を思い出す。きっとサクラちゃんはお店の子たちに俺のことを話している。みんなが面白がって後押しをしてくれたので、彼女は勇気を出して電話をかけてみた。で、まんまと男が来ることになった――。
大体そんなところだな、とエレベーターの中で気を引き締めた。あまり調子に乗るなよ、と自分を戒める。愛想のない女店員に案内されたテーブル席で、サクラちゃんはスマホをいじっていた。俺に気付くと「ああ、本当にすいませんでしたあ」と立ち上がる。まだ何も頼んでいない。「飲んでればよかったのに」と言いながら生ビールを注文する。
乾杯をして煙草に火を点けた。暗めの店内にそこそこの料金、騒いでいるような連中はいない。お腹が空いているというサクラちゃんがメニューを眺めている間、俺は彼女を眺めていた。
白くて柔らかそうな腕、最近黒く染め直したという髪、そして仄かに香っているいつもの匂い。それらをたぐり寄せてぐしゃぐしゃに掻き乱す感覚と、つい三、四十分前のあのワクワクしていた感覚がうまく繋がらない。確かにさっき、俺の原動力は下心だったはずなのに。
いったいサクラちゃんに何を求めているんだろう。こうして目の前にいると尚更分からなくなる。そして分からないまま俺は飲み続けた。酔っ払っても答えは出ないが、答えが出ない不安感は和らぐ。今日の店の混み具合や、夏休み中の課題を仕上げるまでの苦労話。いつもよりも他愛のない話を彼女は続けた。心なしか身振り手振りが多い気もする。
きっと彼女は待っているはずだ。ただ、その待っているものを差し出す踏ん切りがなかなかつかない。いつものように焼酎をボトルで頼み、いつものように二人で空けた。愛想のない女店員が来てラストオーダーの時間だと告げる。席で会計を待っている間、俺たちは無言だった。店を出ると外はもう明るい。朝だ。
「わあ、眩しいですねぇ」
「ああ、久々にこんな時間まで飲んだ」
違う。こんな会話を彼女が求めていないことは分かっている。ここで手を握りどこかのラブホテルに入るのが模範解答なのかもしれない。実際この街にはそんなカップルが何組もいる。その中の一つになればいいだけだ。どこへ向かうともなく歩きながら、互いに本意ではない会話を続ける。
「さっきの刺身、あれ意外に美味しかったね」
「はい、本格的って感じでしたよねえ」
このまま、こんな感じで繰り返していても仕方ない。それは承知していたが、もう少し猶予が欲しかった。最近、猶予のないことが多すぎる。俺はこの子に、とても大きなものを求めているような気もするし、本当は何も求めていないような気もする。ただラブホテルに行きたい、という感じではない。
彼女の方はどうなんだろうか。案外ラブホテルに行きたいのかもしれない。ふと立ち止まってみる。振り返るサクラちゃんの顔。どうしたんですか? という顔。
「あのさ」
「ハイ」
「今度、近いうち、旅行とか行かない?」自分でもよく分からないまま口走っていた。
「え?」
「いや、もしよかったらさ」
「どこに、ですか?」
あとはもう、流れのままに喋るだけだ。我ながらよくこんな流暢に喋れるなと感心する。酒を飲んでいてよかったと思うのはこういう時だ。箱根なんてどう? という提案に「行ってみたあい!」と目を輝かせてくれた彼女。俺はそれを見て、安堵した。
この子をがっかりさせたくない――。
いい人ぶるつもりなんかない。単に俺自身ががっかりされたくないだけだ。
時間は五時過ぎ。タクシー代を渡そうとしたが、もう電車があるからと受け取らないので、JRの改札口まで送っていくことにした。手を握ろうかなと迷ったが、楽しそうに喋っている彼女を見ているとどうでもよくなる。駅を目指しながら、ずっと喋っていたのは箱根旅行の話。平日の方が都合いいんだよな、という俺に「学校サボっちゃいまあす」と彼女は微笑んだ。
あの夜から一週間。俺はまた新宿にいる。小田急線の改札前、時間は午前十時。平日ということもあって人は多くない。結局あれから二日後にまた会って日程を決めた。
九月半ば、季節は秋。秋といえば紅葉くらいしか思いつかない俺は、てっきり今がシーズンだと思い込んでいて、サクラちゃんに笑われた。「紅葉狩りとか、もう少し先になってからですよお」。別に紅葉を見たいわけではなく、のんびりした時間を過ごしたかった。一瞬、十一月に延期してもいいかなと思ったが、その頃、俺はもう父親だ。
一応、箱根関連のホームページやガイドブックはチェックしたが、具体的な計画がないまま今日になってしまった。サクラちゃんは「でも、行き当たりばったりの方が面白くないですかあ?」と言ってくれたが、正直なところ予定をたてるのは気が重かった。予定をたてる時は同行者のことを考える。その人がどうしたら喜んでくれるかを考える。でもそれは、「次」や「先」がなければ成り立たない。
待ち合わせの十時を五分ほど過ぎた。このまま来なかったら、と想像してみる。もしそうなったら家に戻るだけだ。そしてテレビでも眺めながら一日をやり過ごす。夜になれば「夜想」に行って酒を飲み、帰ってきてだらしなく寝て、起きればまた朝だ。それきり彼女に連絡をすることはないし、彼女からの連絡に対応することもない。
もしかしたら、その方がいいのかもしれない。どっちにせよ気持ちの奥底ではこれが最後だと決めていた。サクラちゃんに「次」や「先」はない。だから事前に予定がたてられなかった。
怖気づいている、というのとは違う。ただ一週間前、明け方の歌舞伎町で俺は気付いてしまった。彼女に求めているのは一緒にラブホテルに行くことではない。俺のことを好きでいてほしいだけだ。深夜二時過ぎに「会いたい」と、恥ずかしそうに電話をしてほしいだけだ。
「おはようございます! 遅れちゃいましたあ、本当ごめんなさあい」
これで最後だ、という俺の身勝手な考えなど知る由もないサクラちゃんが、バッグを抱えて走ってきた。
「おはよう。でっかいバッグだな」
「なんかあ、持ち物とかよく分かんなくてえ、あれもこれもって入れちゃってえ」
息を切らしながら喋る彼女は可愛かった。ぼんやりと見惚れながらロマンスカーの席に腰を下ろす。缶ビールで乾杯をしてから弁当を広げた。
「なんか旅行って感じしますねえ」
そう言ってはしゃぐサクラちゃんの隣で、俺も楽しくなってきた。これで最後だなんて考えているくせに勝手なもんだ。窓際の席に座り、外の景色を見ながらビールを飲んでいる横顔。肩と肩が触れ合っている。こんなに近い距離で触れ合うのは初めてだった。
Tシャツの上から羽織った薄手のピンクのカーディガン越しに、透けて見える白い肌。今夜、どうなるんだろう。出来ればこのままの状態で終わりにしたいが、もちろん下心もゼロではない。
缶ビールを飲み干した彼女の喉を見つめながら、俺は自分が欲情するのを認めた。すっと顔を近づけ頬にキスをする。冷たい感触が気持ちいい。何事もなかったようにシートにもたれかかると、彼女がこっちを見て微笑んだ。照れ臭さ、罪悪感、後悔、性欲。そういうものがぎゅっと混じり合って俺は目を閉じた。
一時間半ほどで到着してしまうと、「もっと乗ってたかったあ」とおどけ、ホームに降り立つと「やっぱり空気って違うんですかねえ」と大きく深呼吸をし、ゴミ箱を見つけると「私、捨ててきまあす」と走り出す。さっきのキスのせいか、サクラちゃんがいつもより可愛く見える。たしかに空気はうまいかもしれない、と伸びをしながら辺りを見回した。
さすが箱根だ。平日とはいっても、老人の団体客や外国人の観光客が多い。近くの観光協会に立ち寄り、宿を決めてガイドマップを貰った。そんな俺を見て「え、本当に何も決めてなかったんですかあ?」と彼女が驚く。
「だって行き当たりばったりでいいって」
「いや、全然オッケーですよお」
特にどこを見て回るということもなく、あてもなくふらふら歩いているうちに段々と日が落ちてきた。都内と較べると肌寒いような気もする。
紹介された宿には何種類かの温泉があった。サクラちゃんは「温泉なんて、中学の時の家族旅行以来ですよお」と無邪気に喜んでいる。別に温泉が好きなわけではないが、せっかくだからと俺も露天風呂に入った。外の風景を見ながら湯船に浸かるのは、やはり気持ちが良い。
平日だからか他の客はおらず、俺は人目を気にせず湯船で思い切り身体を伸ばした。じんわりと染み込んでくる。予想以上に快適だ。オッサンじみてるな、と思いながらも誘惑には勝てず何度も身体を伸ばしては唸り声をあげた。
部屋に戻るともう食事の用意がしてあり、サクラちゃんは広縁の古めかしいソファーで髪を乾かしていた。温泉どうだった? と声をかけると、立ち上がり「超気持ちよかったですう」と浴衣姿を披露してくれる。「浴衣まつり」以来の浴衣姿だと思ったが、口には出さなかった。今夜は東京のことなど忘れてしまおう。
(第18回 了)
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*『オトコは遅々として』は毎月07日にアップされます。
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