妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
着いたのは約束の五分前。ジーンズにTシャツというラフな格好でサクラちゃんは待っていた。顔は覚えていなかったが、何となく雰囲気で分かる。
「ごめん、かなり待った?」
「いえ、大丈夫ですう」
近くの居酒屋に入って乾杯をするまではぎこちなかったが、酒が入ればすぐに解れる。サクラちゃんは甘ったるい声でよく喋った。春に高校を卒業して名古屋から上京してきた服飾の専門学生、現在は女友達と二人で暮らしている。
「え、じゃあこの間って東京に来てまだ二ヶ月くらいだったの?」
「そうですよお。それ、この間も驚いてました」
「そうだっけ?」当然覚えていない。「どう? 東京、慣れた?」
「全然ですう」
「学校、忙しいの?」
「もう課題が超大変でえ」
「じゃ、遊びに行ったりとかは……」
「ないです、ないですう」
彼女は着ぐるみ人形のように身振り手振りをつけて喋るので、たとえ声がなくても喜怒哀楽が伝わる。常時一所懸命な感じがするのは小柄だからだろうか。
「もっと満喫したいんですよお、東京を」もっと、と両手を広げる。
「東京タワーとか?」
「ああ、行きたいかもしんない」祈るように胸の前で手を組む。
「マジで?」
「今度連れてって下さいよお」身を乗り出し、甘えた表情をつくる。
そんな姿を見ていると自分も同年代のような錯覚に陥り、自然と口数が増え口調も熱っぽくなる。そしてまだ未成年の彼女は酒がめっぽう強かった。
「ボトルにしましょうよお、そっちのが超お得じゃないですかあ」
正直なところ、そんなに顔立ちが端整というわけではない。今みたいなTシャツにジーンズだと色気もほぼ感じない。なんとなく粘り強く連絡をくれていたのも納得がいく。
流暢な標準語を喋るサクラちゃんに「訛ってみてよ」と頼んでみる。皿に残った唐揚げを指さし「これ、さらえちゃやあ」と恥ずかしそうに俺の目を見た。きっと難問だ。まったく分からなかったが、ぎこちなく訛っている感じが面白くて笑ってしまった。さらえる、とは「皿の残りを食べる」ことだと教えてくれた後、「だからイヤだったんですよお」と頬っぺたをふくらます。そんなやり取りにすっかりリラックスした俺は数分後、ビールのジョッキを片手に実家の喫茶店「ピース」の改革案を熱く語り始めていた。
昨日考えていたプランを一つ一つ真剣に受け止め「ええ、すごおい」「超グッドアイデアですよお」とジェスチャー付きで反応を示してくれるサクラちゃんに、俺はどんどん乗せられていった。そして気付けば店に行く時間だ。本当はもう少しここで楽しみたかったが、ワガママはみっともない。
「よし、そろそろ『浴衣まつり』に行こうか」
そう促すと「ええ、もうそんな時間ですかあ」とがっかりしてくれた。
サクラちゃんが浴衣に着替えている間、ずっと店内を見回していた。場違いな感じもするミラーボール、「場内指名二〇〇〇円」の貼り紙、小さなステージとカラオケセット。この間、トダたちと来た時とは違うような気がするが、たいした根拠なんてない。
雑居ビルの地下にある狭い店。ここを知っていたのはヤジマーだったっけな。頼りない記憶を探りながら、俺はサクラちゃん相手に熱く語った少し前の自分を振り返っていた。向かいのテーブルでは、上機嫌のサラリーマン二人が、浴衣姿の女の子に囲まれている。見ているこっちが恥ずかしくなるくらいに楽しそうだ。多分、この間の俺たちもあんな感じだったんだろうな。
さっき居酒屋で熱く語った理由は分かっている。自分が持っている将来のプラン。それを親に伝えられなかったからだ。話す相手は誰でもよかった。マキでも、リッちゃんでも、トミタさんでも。
お待たせしましたあ、と浴衣姿のサクラちゃんが隣に座る。「どうですかあ? 変じゃないですかあ?」と何度も訊いてくるのが微笑ましい。この照明の下で顔を見ていると、この間の記憶がぼんやりと蘇ってきた。あの時、俺はどんな話をしてたんだっけな、まあ考えても無駄だな。
「いらっしゃいませ」
髪の毛をツンツンに立てたボーイがドリンクを運んでくる。美味しくなさそうなジン・トニック。サクラちゃんと乾杯をしながら、デュークの店で美味しいやつを飲ませてやりたいなと思った。
「すっごく意外だったんですよお」
「何が?」
「喫茶店の話」
「俺、喫茶店似合わないかな」
「いや、そうじゃなくてえ、ほら、前は赤ちゃんの話をしてたじゃないですかぁ」
そんな話をしてたのか、という驚きを隠しつつ「うん」と頷く。
「だから今日も赤ちゃんの話をしてくれるのかなあって思って」
「赤ちゃんの話?」
「うん、今これくらい大きくなったとかあ、そういう話」
まだ産まれてないことを告げるとサクラちゃんは「ええ? あれ?」と慌てていた。結局居酒屋のようには盛り上がらず、俺は二時間で店を出た。帰り際、「コーヒーのチケットっていうのはどうですか? 十枚の値段で十一枚とか」とアイデアを出してくれた。
「お、それ使えるかもしれないなあ」
素直にそう言うと「やったあ」とガッツポーズで喜んでいた。
外に出ると熱帯夜らしく、いやな湿気に身体が包まれる。不快指数急上昇だ。でも、サクラちゃんの顔や声を思い出しながら歩き続けるのは決して不快ではなかった。
それなりに混んだ電車に乗り、寄り道もせず真っ直ぐ帰ると、もうマキは寝ていた。俺はシャワーを浴び、歯磨きをしながら「ピース」の改革案やサクラちゃんのことを考えていた。たしかにチケットはいいかもしれない、今度またアイデアを出してもらおうかな。そんなことを考えながらベッドに入ったので、マキから「ねえ」と話しかけられた時は大きな声が出そうになった。
「あれ? まだ起きてたのか」どうにか平静を装う。
「起きちゃったのよ」
「ああ、わりい」今日はエアコンがよく効いている。
「メニュー、渡した?」
「ああ」
何気ない会話。そして沈黙。俺の方から「あれでオーケーだってさ」と話しかけたけど返答がない。もう寝たのかなと思い目を閉じて数秒、マキが口を開いた。
「あのさ、ちょっと実家に帰ろうと思うんだけど、いいかな?」
唐突な話だ。俺の言葉を待っているようだったが、どう返せばいいのか分からない。暗闇の中、時間が過ぎていく。
「里帰り出産……って聞いたことある?」
そう言われて、やっと話が見えた。今通っている病院の先生から、実家の近くの病院を紹介してもらえたという。
「やっぱりそっちの方が色々と安心だもんな」
「うん、でも大丈夫? 一人だと不便じゃない?」
「平気だよ、俺のことは心配するな」
マキは「分かった、ありがとう」と言い、俺の手を握った。「ピース」のこと、サクラちゃんのこと、そして里帰り出産。今日はこれ以上考えられない。そう思い再び目を閉じたが、結局一時間以上眠れなかった。
数日後、里帰り出産をする娘を迎えに、マキの父親が横浜から車でやって来た。この家に来るのは二度目だ。彼は百八十センチ以上ある体育会系タイプ。実際、ラグビーをやっていたらしい。別に苦手というわけではないが、会う度に緊張を強いられる。だから、これまであまり話をしたことがない。
とりあえず二点、気にかかっていることがある。まず今日は二十六日。先月なかったコケモモからのメールは来るのだろうか。もうひとつは空模様。二、三日前からずっと天候が悪い。関東地方に台風が近づいているらしく、マキも昨日の晩、無理しないようにと電話をかけていた。
「オヤジさん、なんて言ってた?」
「大丈夫だ、ってもうその一点張りよ」
らしいな、と思った。あの人は槍が降っても来るだろう。結局今朝になっても天気は回復せず、それどころか夜には一番台風が接近するという天気予報まで出た。そろそろ近所の駐車場に着く、という連絡が来たのは昼の一時過ぎ。俺は傘を持って迎えに出た。雨はまだ激しくなかったが、さすがに風が強い。大きなコインパーキングの入口でしばらく待っていると、マキの父親の車が入ってきた。
「どうも、お久しぶりです」
不自然なほどハキハキした俺の挨拶に、無言で頷く姿。やっぱり威圧感がある。
「こんな天気の中、どうもすいません」
傘をさしながら頭を下げると、低く小さい声で「いや、うん」と呟く。父親なんだから当たり前だ、という感じに聞こえたのは単なる俺の被害妄想だろう。
「蕎麦でも食べていきませんか?」
「ああ」
蕎麦よりも食べたいものがあれば、と訊きたかったがやめておいた。あまり気を遣いすぎるのもおかしい。近所の蕎麦屋は天気のせいもあり他に客はいなかった。二人とも天ぷら蕎麦を頼む。
テレビの音はとても小さい。静かな中で向かい合うと更に緊張する。特に会話もないまま、雨粒で滲んだ窓の外の景色を眺める。彼も同じ方向を眺めているのが視線の端で確認できた。もう少し続きそうなこの沈黙をどうしよう。天ぷら蕎麦は案外時間がかかる。
ふと彼が席を立つ。トイレかな、と思ったが違った。入り口に置いてある新聞立てから一部を手に取り、ゆっくりと戻ってくる。大きな歩幅、堂々とした態度。それが似合う人だから、酔って嘔吐したことをマキにからかわれている姿は見ていられなかった。
ガタガタと入り口のドアが風で音を立て、窓に打ち付ける雨粒の勢いが強くなった。ひどい降りですね、と話しかけようとした瞬間「ハイ、お待たせしました、すいませんねえ」と天ぷら蕎麦が来た。手を合わせてから食べ始めた姿に倣う。正直なところ、味はよく分からない。新聞を読みながらだったが、彼は食べるのがとても早く、自然とそのスピードにつられていた。
俺が食べ終わる頃、彼はまた無言で席を立ち、レジで支払いを済ませた。慌てて立ち上がり後を追う。僕が払いますから、なんて当然言えるわけもなく「ごちそうさまでした」と頭を下げる。一瞬、彼が何か言ったような気がしたが勘違いかもしれない。とにかく雨風の音が凄まじかった。
蕎麦屋から五分もかからないのに、玄関に入った時は二人ともびしょ濡れ。マキが持ってきたバスタオルでは間に合わなかったので着替えることにした。もちろんそれは義父も同じで、彼が着るのは俺の服。ばつが悪そうな様子だったが、それはお互い様だ。
お貸ししたのは、着古して少しくたびれているグレーのジャージ。しかも彼には小さすぎて、今にも背中が見えそうだ。あまりこの人のこういう姿は見たくない。台所のテーブルに座り、麦茶を飲んでいる背中はとても寂しく見える。おい、とその義父がマキを呼んだ。
「何?」
「お前、用意は出来てんのか」親子の会話にぼんやりと耳を傾ける。
「うん、出来てるは出来てるけど……」
「けど?」
「え? もう行くつもりなの?」
「ん?」
「だって、この天気よ」台風は予報より早く接近しているらしい。
「だってって言っても」
「私いやよ、こんな雨が強くっちゃ危ないじゃない」
「うん……」
「いいわよ、そんなに焦んなくても、どうせ明日ヒマなんでしょ」
なんでああいう言い方になるんだ。いくら実の娘とはいっても物には言い方があるだろう。ソファーにもたれてひやひやしている俺にマキが囁く。
「多分、今日は無理だと思うから、ビールでも飲みながら相手してやってくれない?」
当然異論などない。時間はまだ四時前だったが、別にいいだろう。酒も飲まずに時間をつぶすのは無理だ。俺は「天気も天気ですし、少し落ち着くまで休んでいって下さい」と、テーブルの上に缶ビールを置く。国産モノを買っておいてよかった。俺のジャージを着せられたうえ、出てきたビールがハイネケンでは落ち着かないだろう。焼酎なら数本買い置きがあるし、ウイスキーも開けていないのが一本ある。一瞬、遠慮しかけた素振りがあったが俺は勢いで押し切った。その様子を見ていたマキがいいタイミングで声をかける。
「お父さん、お寿司でいいわよね?」
「ええ? いいよ、そんなに」
「だって、柿ピーくらいしかないもん」たしかにそうだ。
「いや、でも寿司って」
「宅配よ、宅配」
「何もこんな天気で……」
「こんな天気だからよ。いいの、向こうだって仕事なんだから」
そう言って出前用のお品書きを見ているマキ。こういう時の行動力や決断力はお見事だ。俺以上にそれを分かっているはずの義父は、勝手にしろという感じで肩をすくめた。
さて、俺も俺で気合いを入れなければ。長時間、彼と向き合うのはパワーが要る。一度顔を洗おうと洗面所へ行く。ふとスマホを見るとメールが来ていた。コケモモからだ。
(第16回 了)
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