妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
家に到着すると、妊婦用パジャマに着替えたマキは寝るところだった。
「リッちゃん、動物園行ったんだって?」
「うん」俺は歯ブラシを口に突っ込んだまま、二人の会話を眺めている。
「もっと大人っぽい場所がよかったんじゃないの?」
「ううん、すっごい楽しかった」
携帯のカメラで撮ったシロフクロウを、はしゃぎながらマキに見せているリッちゃん。その子どもらしい姿を眺めつつ、歯磨きが終わった口にハイネケンを流し込む。やっぱり、あともう少しアルコールを入れたかった。
目の前ではしゃいでいるのは、さっきまでとは違う表情のリッちゃんだ。さっきあの子は「次は大丈夫かもって思えばいい」と言った。俺は今までそんな風に考えたことはない。
コケモモには酷いことをしてしまったけれど、次のマキは大丈夫かもしれない――。
身勝手は百も承知だが、そんな風に考えれば少なくとも現状から逃げたいとは思わないだろう。
少しだけ気持ちが軽くなった俺は、もう一本ハイネケンを取り出してマキに睨まれた。まあ今日は一仕事終えたんだから、という心の声は届かず、「オトウサンは一日中、飲んでばかりでちゅよ」とお腹の子に報告されてしまった。
結局合計三本飲んでからリッちゃんの次に風呂に入り、ベッドに横たわるともう十二時。てっきり寝ているかと思ったが、マキはまだ起きていた。
「煙草、我慢できたの?」
「まあな」
「トダさんの店って、今バーなんでしょ?」
「ああ」
「まさかあの子にお酒飲ませたんじゃないでしょうね」
トダがノンアルコールカクテルを作ってくれたことを話すと、マキは「さすがバーテンさんね」と感心していた。
「じゃあリッちゃん、自分はお酒を飲んだと思ってるのね」
「多分な」
「なんだか羨ましいわね」
羨ましい、か。俺がそうだったように、マキも背伸びをして大人の世界を覗き見ていた時期があるのかもしれない。
「あの子、今頃興奮して眠れないんじゃない?」
「さっき見たら結構眠そうな顔してたぜ」
「あれくらいの歳の女の子は複雑なのよ」
「複雑?」
「いろんな顔をするってこと」
そう、たしかに複雑だ。そしてそれは二十六歳のマキも変わらない。
「お姉ちゃんね、あんまうまくいってないんだって」
一瞬何の話か分からなかった。それを察したマキが言い添える。お姉ちゃん、はマキの姉、つまりリッちゃんの母親のことで、うまくいっていないというのは夫婦仲のことだった。旦那に女がいて、その関係がもう三年にもなるらしい。
「離婚、するのか?」
「うん。一応話し合ってるらしいわよ」
「そっか」
「あの子が高校出るまでは、どうにか避けたかったらしいんだけどね」
リッちゃんが高校を卒業するまで八年弱。関係の冷えきった男女が一緒に暮らすには、少々長すぎる時間だろう。
他に好きな女がいる亭主と、それを知ってしまった女房。そんな二人が一緒に暮らさなければいけなくなったとしたら、どちらの方がより辛いのか。マキに訊いてみたかったが不謹慎な気がして止めた。確実なのは、亭主よりも女房よりも子どもの方が辛いということだ。
「リッちゃんは分かってんのか? 状況」
「まあ確認したわけじゃないけど、気付いてるみたいよ」
「そっか」
近い将来、両親が離婚をするという現実。それよりも現時点で何らかの亀裂が生じているという現実を、小学五年生の女の子が受け入れるにはどれくらいの時間が必要なのか。いや、必要なのは時間ではないかもしれない。
トダの店からの帰り道、リッちゃんは照れくさそうに誰かを殺したくなった経験があると告白した。それが誰なのかあの子は言わなかったが、もしかしたらそれは父親の愛人や、ストレートに父親自身のことではなかったのか。
飲み込もうと思ってもなかなか飲み込めず、何度も失敗して吐いてしまう自分。それでも飲み込まなければいけない現実は目の前から消えてくれない。うまく飲み込めるようになるまで、あの子は「次」にすがることでしか失敗した自分を許せないだろう。
大人の処世術を身につけたような立ち振る舞いを覚え、人を殺してはいけない理由を「次はうまくいくかもしれないから」と答えた少女の闇。思わず手を引っ込めてしまいそうなほど冷たいその闇に触れてしまったようで、俺は横たわったまま目を見開き天井を見上げた。今すぐにでも起き上がって大声で叫びたい。そんな感じだ。
「明日、駅まであの子を送ってってくれる?」
「ああ、分かった」
隣の客間でリッちゃんは眠っている。いや、もしかしたらマキの言うように、今日の出来事に興奮してしまいなかなか寝付けていないかもしれない。
明日もどこか楽しい場所に連れて行ってやろう。そう強く思った。どこがいいかな……。アルコールの効果だろうか、幾つかの候補地を浮かべているうちに少しずつ眠くなってきた。そのうち瞼が思い通りに動かなくなる。そんな眠気に俺は敢えて逆らったりしなかった。
妊娠八ヶ月目(二十八週〇日~三十一週六日目)
妙な無言電話はその後二度かかってきたが、月が変わってからは一度もない。
あれはコケモモから、と俺は結論づけている。先月の二十六日、あいつからメールは届かなかった。それが何よりの証拠だ。偶然にしては出来過ぎている。
メールが来ないのは六年目にして初めてだったし、もしあの電話がコケモモからだとしたら六年振りということになる。あいつは俺に何かを伝えたいのだろう。さっぱり見当はつかないが、手放しで喜べるような報せではないような気がする。それが原因ではないだろうが、何年ぶりかに風邪をひいてしまった。
身体の変調に気付いたのは、昨日の朝に目が覚めてすぐ。熱は三十八度とあまり高い方ではなかったが、喉がやられてしまいまともな声が出ない。バイトも休んだ。こんなガラガラ声に電話営業は無理だ。
連絡を入れて欠勤を詫びると「あらあら、頑張って早くよくなんなさいね」と事務の婆さんに励まされた。どうもすいませんでした、と謝りながら受話器を置くともうやることがない。ベッドに戻ればいいのかもしれないが、まだ寝ているマキに風邪をうつしてしまいそうで気が引ける。普段どおりなら、あと一時間ほど眠っているはずだ。
タオルにくるんだ保冷剤を頭に巻いて、リビングのソファーに横たわる。冷蔵庫には朝食の用意がしてあるはずだが食欲はない。最近、朝食はマキが前の晩に用意してくれるようになった。パン屋の仕事は先週から休んでいる。もっと続けたかったんじゃないのか? と尋ねると、「オカアサンが危ないからもうやめろって、いい加減うるさかったから」と口をとがらせた。このオカアサンは実の母親の方だろう。
言われてみれば、また少しお腹が大きくなったような気がする。この間、寝室でお腹にクリームを塗っていた姿を思い出す。妊娠線の予防だと言っていた。ニンシンセン、がどういうものなのかはよく分からなかったが、何となく訊きづらく母親に尋ねてみた。「私もあんたを産む前までは出来なかったんだけどね」とお腹をさすりながら教えてくれた。
週のうち三、四日はバイトに行き、一日は実家の喫茶店に顔を出す。そんな生活を始めてからもう三ヶ月。時間が経つのはやはり早い。
外に出た日は帰りが遅くなる。理由は酒だ。「夜想」で飲んだり、誰かに誘われるがまま更に一、二軒寄り、気持ちよくなって家に帰ると大抵午前様。当然、マキは寝ている。別に次の朝、文句や嫌味を言われるわけでもない。一緒に朝飯を食べ、俺はバイトへ出かけてしまう。
土、日はなるべく家にいるようにしているが、特に何か計画をたてて遊びに行くわけでもない。ダラダラとテレビやビデオを見ているだけだ。元々積極的に出かける二人ではなかったので、無理をして遊びに行く必要はないのかもしれないが、俺としてはやはり心苦しい。
この風邪をいい機会に、ではないが、どこかに二人で出掛けてみようかと持ちかけたら喜んでくれるだろうか。そんなことを考えながら、ソファーの上でぼんやりテレビを眺めているとマキが起きてきた。こんなところで何してんのよ、と訊かれたので素直に風邪をひいたみたいだと伝えると「ベッドで寝てなきゃダメじゃない」と呆れ顔になった。
「ほら、うつしちゃまずいからさ」
何の気なしにそう言うと、マキは一瞬困ったような表情を作った。いや、「困ったような」というのは俺の勘違いかもしれない。驚いたような、またそれを隠したがるような、とにかく複雑な表情だった。しかしそれ以上考えても仕方がない。もう起きるからベッドで大丈夫よ、という声を聞きながら俺はだるい身体をソファーから降ろす。
枕元には風邪薬とペットボトルの水。昼にはおじやを作ってくれた。何度かうとうとしかけたが、結局ちゃんとは眠れないまま夕方になり実家にも電話を入れた。風邪をひいたので今週は顔を出せない、と言うと「あんた、マキさんにうつすんじゃないよ、大事な時期なんだから」と母親に注意をされた。ハイハイと面倒くさそうに返事をして切ろうとすると、父親に電話を替わるという。思わず「え?」と聞き返してしまった。なんか頼みごとはどうなったか聞きたいんだって、と言って保留音に切り替わる。
――父親からの頼みごと。
そう言われても、まったく心当たりがない。しばらくして電話口に出た父親に「何?」と訊くと「メニュー、まだか?」と言われた。そこでようやく思い出した。店のメニューを新しく作り直してくれと、一ヶ月ほど前に頼まれていたんだった。ほんの立ち話だったので、すっかり忘れていた。
「見れば分かるように、うちは年寄りの客も多いから、とりあえず見やすいやつな」
一ヶ月前と同じ注文を出す父親に「次、ちゃんと持っていくよ」と答えて電話を切る。カバンの中を探すと入れっぱなしになっていた現行のメニューが出てきた。どうせ夜まで眠れないだろうからとマキにノートパソコンを貸してもらい、メニュー作成に取り掛かる。パソコン作業なんて会社を辞めて以来だ。
ブレンド四〇〇円
アメリカン四〇〇円
スペシャル五〇〇円
アイス五〇〇円
こんなにじっくりと店のメニューを見るのは初めてかもしれない。ブレンドとスペシャルの違いがよく分からないし、アイスコーヒーが五百円は少し高いような気がする。
「アイスコーヒー五百円って高いよな?」
テレビを見ているマキに訊いてみる。
「そっかなあ、シアトル系のってそれくらいするのもあるんじゃない?」
「バカ、うちの店とそういうのを較べてどうすんだよ」
俺は普段コーヒーを飲まない。喫茶店はおろか、ファーストフード店もほとんど利用しない。飲むとしても缶コーヒー。自動販売機かコンビニで間に合ってしまう。
トースト三五〇円
ホットケーキ四五〇円
ハムトースト五〇〇円
ハムサンド六〇〇円
ブレンド付は二〇〇円増
なんだか食事のメニューも高すぎるような気がして、またマキに確認すると「コンビニなんかと較べちゃダメなのよ」と笑われた。仰るとおりだ。無意識にコンビニの価格と比較していた。常連客の老人たちや、近所の短大生はいつもこれだけ払ってるんだな。
思えば学生時代も喫茶店を利用することはなかった。そういう俺みたいなタイプは、老人になっても喫茶店を使わないような気がする。
(第14回 了)
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*『オトコは遅々として』は毎月07日にアップされます。
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