妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
やはり大人として扱ってもらうのが一番嬉しいようで、さっきからリッちゃんのテンションは高い。ドキドキとかワクワクとか色々な種類の感情が混じって、とにかく弾んでいる。楽しくてしょうがないという波動が俺にまで伝わってくるし、何となく互いの歯車が合いはじめてきた気もする。今日一番いきいきしている横顔を見ながら、産まれてくる子どもはやっぱり女の子の方が面白そうだと思った。
リッちゃんが「本当に五年生なの?」と尋ねてきた女性たちの相手をしている間、俺はトダの手元をずっと見ていた。濃すぎるカクテルならさりげなく止めなければならない。しかしというか、やはりというか、ブルーの髪にピアスをジャラジャラ付けているトダは常識人で、作っているのはノンアルコールのカクテルだった。わざと大袈裟な声で「ちょっと濃いんじゃないか?」と尋ねると、やっと分かったかという顔付きで「意外に飲みやすいから大丈夫だよ」と微笑んだ。
小気味よく振られたシェーカーから注がれる液体に見とれるリッちゃん。この綺麗な薄紫色のカクテルはきっと最高に美味しいはずだ。俺にも経験がある。中学生の頃飲んだ缶チューハイは最高に美味しかった。味云々じゃない。それを飲むという行為が美味しかったんだ。煙草だってそう。アキレス腱が痛くなるほど背伸びをするのは、どんな時だって楽しかった。
きっとリッちゃんも背伸びを楽しんでいる。このノンアルコールのカクテルで本当に酔ってしまいそうだ。乾杯をした後、恐る恐るグラスに口をつけたリッちゃんは満足そうに頷いた。何か言いたそうだが、ぴったりの言葉が見つからないのだろうか。
言葉が見つからないなんて、もう長い間そんな経験をしていない。多分たくさんの言葉を覚えたのではなく、知っている言葉で間に合わせているだけだ。そういえば最近、背伸びしてないしな――。
新しく何かを得ようとせずに、手持ちの駒でどうにか間に合わせようとしている。で、大概間に合ってしまう。ナマケモノだ。いつの間にか役立たずの男子中高生は、ナマケモノのオッサンになっちまった。
リッちゃんが膝を突付き、小声で「お腹すいちゃった」と訴えてくる。そうだった。うっかり忘れてしまいそうになるが、この子はまだ五年生なんだ。頼んだのはピザとパスタ。威勢よくオーダーを受けてから約二十分弱、リッちゃんに「すごく美味しいです」と何度も言われてトダは嬉しそうだ。
カウンターの二人組は、友達と合流してテーブル席へと移っていった。入れ替わりに入ってきたのは、四十代の男性二人組。一番奥の席に座り、煙草に火を点けている。ふと、今日は一本も吸っていないことに気付く。リッちゃんといるから、ということもあるが別に吸いたいと思う瞬間もなかった。今日一日、久しぶりに充実した時間を過ごしたような気がする。ということは、煙草を吸っている時はあまり充実していないのだろうか?
もしリッちゃんが遊びに来なかったら、何をすることもなく家でゴロゴロしていただけだった。ベランダに出て煙草を吸って、コケモモのことを思い出していたかもしれない。
先月、深夜に届いたメールに返信しそうになって以来、あいつのことがどこか気にかかっている。会いたい、というわけではない。会わなくなってから今までの間、どんな暮らしをしてきたかに興味がある。ただ、その感覚が「会いたい」に変化する可能性は高いだろう。だから意識して考えないようにしているし、次のメールがどんな内容でも返信しないと固く決意している。
「今日はどこに行ってきたの?」
「代々木公園と、上野動物園と、そしてここ」
トダに答えるリッちゃんの横顔を眺めながら、冷たいハイネケンを飲む。とてもいい週末だ。他の客に呼ばれたトダの後ろ姿を見ながら、リッちゃんが尋ねてくる。
「いつから友達なの?」
「大学の時だよ」
少し冷房を強めたのだろうか。頭に吹き付ける風が気持ちいい。昔からあんな感じだったの? と声を潜めて尋ねてくる。
「ん?」
「髪の毛の色とか」
たしか仲良くなったのは二年の頃で、その時は長髪だったはずだ。当時からよく髪型を変えていて、モヒカンやドレッドヘアーや金髪、たしかスキンヘッドの時もあった。リッちゃんが「見たい」と言うので、トダに写真を持っているかと尋ねると、すぐに戸棚から取り出してきた。客に見せると盛り上がるらしい。
その中には俺が映っている写真もあった。居酒屋の店内でジョッキを掲げておどけている自分。大学生とはいえ、全人類の中で一番役に立たない男子中高生の面影がまだ残っている顔。まだマキとも出会っていない頃だ。「二人とも若ーい」と言いながらリッちゃんは笑っている。
「そうかな?」
「うん、若いよ、すっごく」
「あまり変わんなくないか?」
「え? 全然違うよ、全然似てないし、別人別人」
たしかに外見は変わった。もう俺の顔に男子中高生の面影は残っていないだろう。しかし、だ。俺の内側にはまだ男子中高生が確実に存在している。さっきアメ横で歩きながら考えていたこと、今でもマンガとコーラとエロ動画で生きているんじゃないかという予想は、残念ながら当たっていると思う。
そんな俺にとって、自分の子どもが産まれてくるという現実は相当重い。許されるなら逃げ出したいし、時間の流れがあまりにも速すぎる。まだ何の準備も出来てないんだけどな。予定日まで二ヶ月ちょっと。それまでに出来ることなんて何もない。つまりお手上げだ。
奥で客と喋っているトダに、ジェスチャーでおかわりを頼む。もう四杯目。小学生の姪っ子を連れている叔父の身として、これ以上飲むのはあまり得策ではない。それはよく分かっていたが、もう少しアルコールを入れて頭を軽くしたかった。
私ってお酒強いのかなあ、とリッちゃんが嬉しそうに首をかしげる。三杯目の特製カクテルがそろそろ空になりそうだ。アルコール入りだと信じきっているからだろうか、心なしか頬の辺りが赤くなっているような気もする。酔っぱらったんじゃないの? とわざと深刻な顔をして訊いてみる。「ううん、大丈夫」と笑顔のリッちゃん。
「そうか?」
「なんか、私、お酒強いみたい」
そんな会話をしていると、トダが新しいカクテルを持ってきて「将来が思いやられますねえ、お嬢さん」とからかう。今から酒ばっかり飲んでるとアル中になっちまいますよ、と続けた俺に舌を出しながらリッちゃんはトイレに立った。
「いい子じゃないか」
「まあな」
「でも、お前もアレだな。立派にオッサンの顔だな」
「マジかよ」
「ああ、マジだ」
逆光を受けながら頷くブルーの髪のトダには妙な説得力があった。老いることはあまり歓迎すべき事態ではないが、リッちゃんの隣でオッサン面している自分はなぜか許せる。こうやってみんな年齢を重ね、オッサンになりジジイになり灰になるのだろう。ちょっと気になったのでトダに訊いてみた。
「父親っぽくはなかったか?」
「うーん、いや、オッサンだな、ただのオッサン」
戻ってくるリッちゃんを見ながら、トダの言葉をゆっくりと受け入れてみる。父親とオッサンの間に在るものは何だろう。責任感、みたいなものだろうか。もしそれが正解だとしたら、俺がただのオッサン面なのは納得できる。流れに任せて喫茶店を継ごうとしている末っ子に、責任感なんて求めないでほしい。
時間は八時半。リッちゃんとトダの歯車も合ってきたようで、気付けば「マスターさん」「お嬢さん」と呼び合っている。ただ九時には店を出ないとマキに怒られそうだ。その雰囲気を察したのか、トダが「時間大丈夫か?」と俺の顔を見た。いいタイミングだ。
「そうだな、もうそろそろ」
そんな俺の言葉に、案の定リッちゃんが不満の声をあげた。それを抑えるように「じゃあ、ちょっと気になることがあるから教えてくれないかな、お嬢さん」とトダ。再びいいタイミング。まだ不満顔のリッちゃんの正面に立ち「若い意見が必要なんだよ」と畳み掛けるトダに、俺も「協力してあげてよ」と援護射撃をする。本当は俺自身、もう少し飲みたいところだが仕方ない。隣に子どもがいる時くらいは大人にならなければ。
「この間、有名な大学の先生が来てさ」
胡散臭い一言だったがリッちゃんは興味を示した。俺も素直な気持ちでトダの話に乗っかろうと思い、カウンターに肘をつき楽な姿勢をとる。
「そんな有名な先生でもなかなか答えが出ない問題があるらしいんだけど、お嬢さん、チャレンジしてみない?」なかなかトダも役者だ。
「いいけど、難しいんでしょう?」
「いや、若い人ほど答えが出やすいかもしれないんだ」
いいぞ、その調子だ。「何? 何?」と、リッちゃんは身を乗り出している。こいつは昔からこんなに話が巧かったんだろうか。「よ、一流バーテンダー」とからかってやりたい気分だ。同級生の働いている姿を見るのも悪くないな。そう思いつつ俺はすっかりリラックスしていた。頭も軽くなっている。しかし次の瞬間、トダの言葉を聞いて危うく体勢を崩しそうになってしまった。
「単純な質問なんだよ、どうして人を殺しちゃいけないかって、それだけなんだ」
思わずトダの顔を見る。ちょっと待ってくれ、という感じだ。そんな俺の動揺には気付かず、リッちゃんは真剣な顔をして考えている。ちょっとその質問は早すぎないか? と呟いてみたが二人には聞こえなかったようだ。
トダがカウンターの下に置いてあったグラスを飲み干す。うまい具合に客からは死角になっていて見えない位置だ。「それ、水か?」と尋ねると、声を潜めて「超安い焼酎」と笑う。「特別メニューだ、飲むか?」というお誘いを丁重にお断りした瞬間、「あのね」とリッちゃんが口を開いた。真剣な横顔。カクテルグラスを持ちながら、懸命に考えたんだろう。
「あのね、次は大丈夫かもしれないからじゃないかな」
次? 大丈夫? どういうことだろうか。思わずトダと視線が合う。よく分からなかったので耳を傾けることにした。
「殺したいってさ、多分嫌いとかイヤとか、そういう気持ちが原因だと思うから、もしそうなったら次は大丈夫って思えばいいんじゃないかな」
「次って何?」そう尋ねたトダに、もどかしそうにリッちゃんが説明する。「だから、次に会った時はうまくいくかもしれないでしょ。仲良くっていうのはちょっと難しくても、フツーくらいにはなれて、別にイヤにはならないかもしれないかなって」
俺は納得できた。次か。いい考え方だ。
トダは納得しきれていない表情だったが、リッちゃんから「今度その偉い先生が来たら、そうやって教えてあげたら?」と言われ、「伝えとくよ」と大人の笑顔を見せた。
外の空気は少し湿っぽかった。ジメジメしてんね、という俺の問いかけには答えず「そんなに偉い先生でもさ、人のことイヤになったり、殺したくなるんだね」と神妙な声で話すリッちゃん。実はその偉い先生って俺なんだけどさ、とはさすがに言える雰囲気ではなく曖昧に相槌を打つ。
「私もね、あるよ」二、三歩先を歩きながらリッちゃんが照れくさそうに言う。
「ん?」
「私もあるの、その先生みたいに」
「殺したくなったことが?」
「うん」
「誰? 友達?」
一瞬の沈黙の後、リッちゃんは「ナイショ、やっぱり」と笑う。確かに笑っている声だったけれど、ちらりと見えた横顔はちっともうまく笑えていなかった。
「次は大丈夫って思ってないとね。次、次、次」
やっと俺に見せてもいい表情をつくれたのだろうか、クルッとこちらを振り返る。ただ、その表情は意外にも寂しそうだった。俺は勝手に最高の笑顔を予想していた。大人の処世術を思わせる、少しわざとらしい笑顔を。でも、違った。
駅ってこっちでいいんだっけ、と言いながらスタスタ歩いていく背の高い後ろ姿。来た時みたいに手をつなぎたいけれど、それは無理だろうな。角を曲がった途端、生ぬるい風が掌を通り抜けていく。マキに「これから帰るよ」と電話を入れると、やけに明るい声で「ハイ、お勤めご苦労様」と言われた。
(第13回 了)
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