東京全力少女
日本テレビ系列 水曜 22:00~
武井咲主演のドラマである。マンガが原作かと思いきや、伴一彦脚本のオリジナル。確かに細部まで、ドラマ向きによく考えてある。
香川で母親と暮らしている麗が、東京に父親がいることを知り、上京してきて騒動を起こす。父親は弁護士だが、女にだらしがなく、同じ伴一彦脚本のドラマ「パパはニュースキャスター」を思い起こさせる。ただ今回、娘は三人でなく一人で、父親の方でなくその娘が主人公である。
「パパはニュースキャスター」もそうだが、まずタイトルで成功している。放送時だけでなく何年も記憶に残り、ドラマの内容も思い出されるというのは、消費材であるテレビドラマではそうないことだ。鉄腕アトムのごとく拳骨を突き出し、空飛ぶ武井咲の「東京全力少女」の画像はインパクト十分である。同時に一瞬、サブリミナルのようにあの「東京電力」という社名も重なり、まだ記憶に新しい、あのときの危険な警報だの怒りだのが心で鳴って注意を惹く。
テレビというもの、テレビドラマというものを知り尽くした企画なのだと思う。何であれ徹底的に知る、というのは立派なことだ。たぶん、いくばくかは “ 愛 ” が必要だからだろう。マンガを原作とするのはお手軽だし、ときどきはマンガのキャラそのものにハマッている俳優さんが見つかって笑ってしまうが、笑ってしまうというだけにすぎない。役を作ってゆく作業は放棄されていて、マンガで示されているイメージの青写真をなぞるだけだ。演出家の絵コンテや指示も不要な気がする。
文学作品のドラマ化は、想像と解釈の余地があるだけマンガよりは自由度が高い。けれどもオリジナル脚本でピタッと決まったものに比べると、ドラマとしてのインパクトはやはり薄い。たいていは、ある俳優の役に対する解釈が印象に残る、というぐらいだ。それでもマンガ発のドラマでは、マンガのキャラに調子を合わせているだけで、俳優の評価は下がりもしないが上がらないことを考えれば、まだいい。
オリジナルならではのドラマの作り方として、最初にキャスティングありき、というのがある。まず誰を主役に、誰々あたりを使いたい、というふうに。これだと最初にスケジュールをおさえるわけだし、自分の役ではない、と断られる心配は少なくともない。主役が決まってから、その人に合った役にするのだから、演じやすい役になる。あるいは、こういった面を売り出していこうという俳優もしくは事務所側の希望に沿い、また新たな魅力を引き出してやることにも直結しやすい。
今回、武井咲は猪突猛進のコメディエンヌという新たな面を見せてくれているようだ。それ自体、楽しみではある。俳優の知られざる面は、テレビというやたら拘束時間の長い業界で、日々一緒に「暮らして」いれば、自然と知れる。そういった「インサイダー」情報もまた、ドラマの中のちょっとした遊びに用いられることで、視聴者にはそれそのものが伝わらなくとも、画面にどことなく親密な雰囲気や余裕が生まれる。それがマンガとも映画とも文学作品とも違う、「お茶の間」に流れ込んでくるテレビドラマの空気というものだ。
山際恭子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■