妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
マキに男の子がいいか女の子がいいか訊きそびれたまま数日経ち、失業保険の最後の支給日が来た。今まで家も車も買っていないので、しばらくは何不自由なくやっていける。無論、働かなくていい理由にはならないのでバイトを探し始めた。実家の喫茶店を継ぐのはまだ早い。というか、あれは最終手段だ。
二十九歳の男が、時間帯も時給も勤務地も職種も何ひとつこだわらずにバイトを探すと、受け入れてくれるところは意外に多い。実のところ多すぎてなかなか絞り込めず、面接どころか連絡もしないまま数日が無駄に過ぎていた。やっぱり俺は呑気だ。引く手あまたで困っちゃうよ、と言うと「夜想」のマスターは軽く笑った。
「奥さんの前で同じこと言ってみなよ。怒られるんじゃないの」
まあな、と言いながらビールを飲み、履歴書の続きを書き始める。さすがに実家の喫茶店で書きたくはない。
「まさか亭主が飲み屋でそれ書いてるなんて思ってないんだろ?」
聞こえないふりで「トミタさん最近来てる?」と尋ねてみた。
「ああ来てるよ。ただ十一時過ぎだからな、あの人が来るのは」
早い時間に来たら連絡をくれと頼み、履歴書をしまって新しいビールを頼む。それでラストのつもりだったが、知った顔が立て続けにやって来てしまい、結局家に帰ると十時を過ぎていた。
リビングでテレビを見ながらヨガをやっていたマキは、俺の方を振り向かず「食べるなら冷蔵庫に入ってるからね」と言った。肉じゃがをレンジで温めながら、コンタクトを外して眼鏡をかける。最近またコンタクトを使うようになった。毎日ヒゲも剃っている。目的地が実家であれ、近所の飲み屋であれ、外出すればそれなりに気を張らなければならない。
ペットボトルのウーロン茶をコップに注いだら、ピピピとレンジが切れた。肉じゃがを持って椅子に腰掛ける。ヨガをしているマキの向こうにあるテレビでは、高校生くらいの連中が議論をしている。画面の右上には「矛盾だらけの大人に一言!」と黄色いテロップ。ショートカットの女の子のアップに切り替わった。
「そりゃ現実問題従わなきゃいけないのは分かってるけど、私がキレて学校やめて家出たら親も困るわけじゃん。だから結局私が我慢してるから丸く収まってんじゃないの?」
ショートカットは声が低くて早口だ。見なきゃよかったと後悔するよりも腹が立って気持ち悪くなる。
じゃがいもの内側が冷たかったので、もう一度レンジに戻す。ヨガをしているマキの後ろ姿は別人みたいだ。本当に別人だったら、と想像し始めるとコケモモに似た女優の顔が浮かんできた。あいつとの結婚生活なんて想像したこともない。レンジがまたピピピと切れた。画面の中ではショートカットの演説が続いている。
「てか、親とか教師とかもそうだけど言ってる内容自体がもう全然古いっていうか現実とズレてるし、ただ歳が上ってだけで正しいとは限らないでしょ? 私が色々主張しても都合悪くなると最後は親だ子どもだって話にしちゃうしさ、おかしいんだよね」
トミタさんの娘もこんな感じだったのかな。もしそうだとしたら多分俺も「反則」を使うだろうな。いくら自分の子どもでも我慢には限度がある。このショートカットの親も可哀相だ。おかしいのよ、という声が耳にこびりついている。自分の子どもがこんなんじゃやりきれねえな、と溜息をつくとマキがこっちを見た。
「その番組見てんのか?」
「別に」
気分が悪いから消すように頼む。俺はデタラメが好きだ。ショートカットの演説はデタラメじゃなかった。正解だけど不快。おかしいのよ、という上ずった声がまだ耳元にある。
マキがどう思ったのか知りたかったが、鬱陶しい話になりそうだったのでやめた。男の子がいいか女の子がいいかを訊くタイミングでもない。しなくてはいけない大切な話を、俺たちは何ひとつしていないんじゃないか。そう考えて気分が暗くなる。温め直したはずなのに、じゃがいもの中はまだ冷たかった。
おかしいのよおかしいのよおかしいのよ、とショートカットの上ずった声がまだ反復している。煙草を吸って落ち着きたかったが、失敗しそうだからベランダには行かず寝ることにした。無言で寝室に移動する。ただベッドに入ってもなかなか寝付けない。おかしいのよ、という声は少しずつ消えかけていたが、自分の子どもがあんな風に育ったらどうするんだろうと考え始めてしまった。
「まだ起きてるの?」マキが寝室に入ってくる。「さっきのテレビ気にしてるんでしょ?」
俺は目を閉じたまま何も答えなかったが、マキは喋り続けた。
「気にしないのが一番だって。別に若い子に限らず色んなタイプがいるんだからさ、いちいち気にしてたら病気になっちゃうわよ」
でも、という言葉は呑み込んだ。続ける言葉が見当たらない。
「私もね、なるべく嫌なことには関わらないようにしてるのよ。特に赤ちゃんが出来てからはね」薄目を開けると、マキは鏡台の前で化粧水をつけていた。「外を歩いている時もね、いくら近道だとしても人ごみは避けてるし、バスや電車でも混んでいたら一本待つのよ。今はお腹が目立つようになってきたからマシだけど、前までは優先席に座ってると変な目で見られてたんだもん」
理解しているつもりだったが、大変なんだなと改めて思い知る。
「出来るだけね、そういう状況っていうか、場所っていうか……」
マキは言葉を探している。ストレスになりそうなことだろ? と目を閉じたまま助け舟を出すと「そうそう」と笑った。
「ストレスになりそうだと思ったら、自分からは近付かないようにしてるのよ。最終的にこの子を無事に産めればいいんだからさ」
あのテレビを見て不愉快になったことはバレている。だが、お腹の子の将来と重ねたことまで気付いているだろうか。ただ生意気だったから不愉快になった訳ではない。
電気消すよ、とマキが立ち上がる。目をしっかりと開いたのは、灯りが消える瞬間を見たかったからだ。闇が現れて、マキが隣に入ってくる。頬にキスをして手を握ったら気持ちが落ち着いてきて、そのうちすぐに眠ってしまった。
ようやくバイトが決まった。勤務先は自転車で二十分の場所にある工務店。業務内容は屋根の修理やリフォームの電話営業で時給は千二百円。契約が取れたら歩合が貰えるらしい。履歴書以外に必要なものを尋ねると、受話器の向こうの婆さんは「すぐ働くなら免許証と印鑑もね」と笑った。きっちりした雰囲気ではなさそうで安心する。出来るだけ何気なく、マキへの報告も済ませた。
「明日から仕事行くからさ」
「あ、そう。頑張ってね」
そう言ったきり何も訊いてこないので、俺の方から「工務店の電話営業なんだ」と打ち明けた。結婚する前からそうだ。何か訊かれるだろうというタイミングをすかされることが多い。マキからすれば、こっちのタイミングこそ変なのかもしれないが……。
面接は三分で終わり、俺はすぐに働き始めた。マンションの一室でリストを見ながら電話をかけ続ける。単純といえば単純な仕事だった。
「もしもし、お忙しい時間帯にすいません、以前にもお電話をさしあげましたメイワホームと申します、この時期各種リフォームの御相談会を随時開いておりまして……」
大体ここまでにガチャンと切られて、すぐ次の番号へかける。その繰り返しだ。朝十一時から夕方六時の間なら何時間働いてもよくて、俺の他には六、七人。初老の男と俺以外は、全員中年のおばちゃんだ。電話で話した婆さんは事務職で、多分正社員は彼女だけ。たまに作業着姿の男が立ち寄り婆さんから書類を受け取っている。
週に三、四日働き、実家には週一で顔を出すことにした。電話営業のバイトを始めた、と告げると母親は「今時、電話がある家なんて少ないんじゃないの?」と不思議がっていた。
仕事を始めて半月が経ったある日の帰り道、「夜想」のマスターからトミタさんが来ていると電話が入った。自転車で帰る途中だったのでそのまま店に向かう。いいタイミングだ。ここ何日かは御無沙汰だったし、昨日の昼間にはコケモモからメールが届いた。
調子はどう? /この時期は一日中眠くて困るね/また禁煙したいけど、なかなかうまくいかないんだ/じゃあね
あいつは今何をしているんだろう、と考えてしまったのは、俺自身が想定外の電話営業なんてしているからだ。
口笛を吹きながら「夜想」を目指してペダルを漕ぐ。五月のこの時期、自転車に乗って風を感じるのは気持ちがいい。もう少し経って梅雨に入ったら通勤はどうしようか、雨の日はバスの方がいいかな。そんなことを考えながらひたすら進んでいく。渋滞している車を横目で見ながらスイスイ走っている時が一番快適だ。逆に最悪なのは学生やオバサンの集団が横に広がって歩いている時。今日は大丈夫。スイスイ走ったまま店に辿り着けた。
トミタさんはいつものように焼酎のロックを飲んでいる。ドアを開けて「自転車、停めても大丈夫?」と訊いた俺に、マイカーで登場かと笑いかけた。結構出来上がっているらしく普段以上に饒舌だ。
「おい大学出、結婚してから何回浮気かましたんだよ? プロじゃねえぞ、素人さんだよ素人さん」
そう言って笑っているトミタさんはこの間とまるで別人で、後から来た専門学生の女の子二人組にビールをおごり、昔の映画の話を面白おかしく披露しながら、近いうちに寿司を御馳走する約束を取り付けた。見ているだけで元気になりそうだ。女の子たちの相手が一段落したトミタさんは、マスターから水を貰った。
「さあ、これで酔い醒ましてから帰るとするかな。おい大学出、ぼんやりした顔しやがって。悩みごとはねえのか、悩みごとは」
少し迷ったが、酔いが回っていたので思い切って尋ねてみた。ただ店の雰囲気を壊さないよう声のボリュームはぐっと抑える。
「あの、なんで人を殺しちゃいけないんですかねえ?」
「うーん」
唐突な質問に動じることなく、トミタさんは唸りながら天井を見上げた。マスターはサラリーマン風の客と競馬の話に興じているし、専門学生の女の子二人組は大きな声で笑っているし、顔見知りでフリーターのハセガワ君は俯いてスマホをいじっている。天井を見上げたまま氷をガリガリ噛んでいるトミタさんを見ながら、やっぱり訊かなきゃよかったと後悔し始めた時、そのままの体勢で喋り始めた。もちろんボリュームは控えめだ。
「おい大学出、お前時間かけて何か作ったことあるか?」
「えっと……、子どもの頃プラモデルなら作ってました」
小学校高学年から中学を卒業するくらいまでの話だ。当時人気のあったアニメのロボットではなく、実在する戦車や戦闘機のプラモデルが好きだった。トミタさんの視線が天井から俺に移る。
「あれは最初にパーツを切り離しちゃダメなんだよな。色を塗ってからの方がうまくいくんだよ」
そう、トミタさんの言うとおりだ。ドライヤーを使いながら塗料を乾かしたり、細い筆を買いに行くため電車に乗ったりしたことを段々と思い出す。それを告げると、案外本格的にやってたんじゃねえかと美大出のトミタさんは嬉しそうな顔をした。
「じゃあ完成すんのに結構かかっただろ?」
たしか大きなスケールの物だと三週間以上かかったはずだ。名前は忘れたが、アメリカの戦艦だった。
「だったらよ、その時間かけて作った戦艦をだな、悪気があってもなくても誰かが踏んづけて壊しちまったらお前どう思う?」
その戦艦ではないが、小さな戦闘機を兄貴に踏み潰されたことがある。もちろんわざとではなかったが、腹が立つよりもがっかりした。戦闘機は決して元に戻らない。そんな真実を前に力がどっと抜け、妙に虚しくなり、言葉が出なくなる。「悪かった悪かった、弁償するからさ」と謝っていた兄貴も、最後は気味悪がっていた。
「そういうさ、虚しさとか怒りとかってのは感じない方がいいとお前思わねえか?」
ぼんやりとトミタさんの言いたいことが分かってきた。
「なあ大学出、プラモデルだけじゃねえよ。料理でも洋服でも絵でも彫刻でも何でもだよ、手間ひまかけて完成させたり育てたりしたもんをダメにされるとよ、腹立たしくって寂しくって悲しくってゲロ吐きそうになっちまうんだよ」
深刻な顔でトミタさんは喋っている。娘さんのことを思い出しているのかもしれない。
「何でもそうなんだよ、何でもだぞ。人だって同じだからな」俺の残りのビールをぐっと飲み干してから、更に言葉を続ける。「みんな誰かに育ててもらったり仲良くしてもらったり、まあ一人じゃ生きてねえわけだろ。そりゃ誰かが死んだら、必ず誰かは虚しくなったり、腹立たしくなったり、寂しくなったり、悲しくなったりするんだよ。な? 放っといてもいつかは死ぬのに、わざわざ殺して、そのタイミングを早めるってのはよくねえよ。趣味が悪い」
トミタさんの出してくれた「答え」は、前に聞いた娘さんの話と相俟ってずっしり重く胃に落ちていった。やっぱりビール飲んでから帰るぞ、とマスターに伝えたトミタさんは俺をじっと見ている。
「おい大学出、お前なんでそんなこと考えてんだよ」
注いでくれたビールが歯と喉と胃に響いた。昔、女に中絶させたんです、とは言えない。専門学生の女の子二人組が「じゃあそろそろ帰りまあす」と席を立った。今度本当に連れてって下さいねえ、とトミタさんに手を振って帰って行く。ちゃんとした寿司食わしてやるからなあ、と大声を出した後に、「おい大学出」とトーンを落とす。
「おい大学出、いきなり父親にゃなれねえぞ」
そうですよね、と思わず出かかった言葉を呑み込む。そんな風に軽々しく同意できるような話ではない。ぎゅっと口を真一文字に結んだ俺に、トミタさんはゆっくりと続けた。
「な? いきなりってのは無理だからな」
(第07回 了)
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