妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
妊娠六ヶ月目(二十週〇日~二十三週六日目)
イノウエから電話があった。同窓会をやるから都合のいい日を教えろという。同窓会? と聞き返すとヤジマーとトダが来るだけだと笑った。
「俺の結婚と、お前のジュニア誕生を祝ってくれるらしいぞ」
大学時代、「余り者」だった俺たちに共通点は少ない。結婚や出産などのライフイベントがある分、卒業後の方が共通点は多いような気がする。イノウエはサークルが一緒だった連中と今でも会うと言っていたが、俺が大学時代のつながりで会うのはイノウエたちだけだ。半年に一度は顔を揃えて飲む。確かに「同窓会」といえば「同窓会」かもしれない。
トダは学生時代からマイペースな奴だ。以前は小料理屋、今は店の内装を変えてバーをやっている。最後に会った時の髪は銀色、耳を覆い隠すほど大量のピアスをしていた。
ヤジマー、本名ヤジマは俺と同じ年に結婚をして子どもが一人いる。相手は大学の時に同じクラスだったミホコという女で、俺は一度寝たことがある。別に付き合ってはいないが、一度寝た女の結婚式に出るのは変な気分だった。もちろんヤジマーは知らない。たしか子どもは二歳になるはずだ。もうあいつは父親になりきれたのだろうか。それともまだなのだろうか。当日、是非訊いてみたい。
マキは随分お腹が目立つようになってきた。少し前から安定期に入ったらしく、一時期よりも辛くなさそうだ。たまにお腹に向かって話しかけている。もう男の子がいいか、女の子がいいかなんて訊ける時期を過ぎたことは理解できた。
「あなたはオトコノコでちゅかあ、オンナノコでちゅかあ」
壁にもたれて話しかけているマキを見ながらトーストを食べる。ヨガの先生から毎日お腹の子どもと話す時間を取るように言われたそうで、ここ最近ずっとこんな調子だ。今日はこれから実家の喫茶店、そして夕方から「同窓会」。
「今日は遅くなる。大学の時の連中と飲んでくるからさ」
「あらあ、聞きまちたかあ。オトウサンはお酒を飲んでくるそうでちゅよお」
近頃はお腹の中で動くのが分かると言う。勧められて俺も触ったが何も感じなかった。外からでも分かるようになるのはもう少し先らしい。マキが立ち上がりテーブルに近付いてくる。
「はあい、オトウサンからもごあいさちゅして下ちゃいねえ」
だってまだ分かんないんだろ、と言う俺の手を強引に自分のお腹にあてる。あなたのためじゃないのよ、お腹の子どものために触るのよ。そんな感じでマキは俺の手をぐっと掴んだ。反射的に手を引っ込めそうになってしまう。引っ込めそうになったのがバレてなければいいな、と思いながらお腹を触った。
「オトウサンでちゅよお、はい、ごあいさちゅ、ちまちょうねえ」
言葉とは裏腹な真剣な表情で、マキはじっと俺を見ている。何か話しかけなければいけないらしい。本当は照れくさいし話しかけたりはしたくなかったが、手を引っ込めそうになった負い目もあり、思い切って話しかけてみた。
「オハヨウ」
「あらオハヨウでちゅってえ、はい、ごあいさちゅちまちょうねえ」
俺の言った「オハヨウ」には他人が喋ったような距離感があった。マキのお腹から手を離し、もう一度「オハヨウ」と呟いてみる。
「どうしたのよ」
マキが怪訝な顔をしている。いや別に、と残りのトーストを口に入れた。リビングの窓の外から見える景色は曇りだ。牛乳でトーストを流し込む。
「おかちなオトウサンでちゅねえ」
苦笑いをしながら考えていたのは、この間トミタさんが教えてくれた「答え」だった。
「手間ひまかけて完成させたり育てたりしたもんをダメにされるとよ、虚しくって腹立たしくって寂しくって悲しくってゲロ吐きそうになっちまうんだよ」
娘を持っているトミタさんの言葉には説得力があった。ずっしり重たかった。自分と関わりのある人間が、死んだり殺されたりした時に感じるダメージについては、俺の中で整理整頓されてきている。
――親兄弟や親戚や友達が死んだり殺されたりすると悲しい。
当然過ぎて馬鹿みたいだが、そこと向き合わなければならないほど、今の俺は鈍くなっている。認めたくないが仕方ない。
背中を向けてヨガのポーズをとっているマキに視線を投げる。そう、マキが殺されると俺は虚しくって腹立たしくって寂しくって悲しくってゲロ吐きそうになっちまうんだ。最後は気が狂うだろう。
新聞を広げる。「十七歳少年、家族殺害」という大きな見出し。テレビを点けると、どのワイドショーもこのニュースを取り上げている。昨日、「夜想」から帰って来てすぐに寝てしまったので、こんな事件があったなんて知らなかった。
こうやって実際に殺してるヤツもいるんだよな。ちゃんと記事を読もうかと思ったが、頭が痛くなりそうだったのでやめた。ヨガをしながらマキが「いやな事件よねえ」と言う。うん、と返事をしながら考える。妊娠する前と今、この手の事件に対しての感覚は変わるものなのか。本人には訊けないので煙草を持ってベランダに出る。変わらないんだろう、と予想をして曇り空に煙を吐きかける。きっとマキにとって「十七歳少年、家族殺害」とお腹の子はまったく関係のない話だ。結びつけている俺の方がおかしいんだ。
全身の力を抜きながら空を見上げる。一雨きそうだな、と呟いてオッサンになったなと実感する。学生の頃は「一雨きそうだな」なんて決して呟かなかった。
まだ夜が明けきらない午前四時前に、高校二年生の長男は寝室で寝ていた両親を包丁で刺し殺し、その後中学三年生の弟も同じ手口で殺した。両親を殺したことを弟に告げたところ、警察に出頭するように勧められたために殺したらしい。成績が下がり気味だった長男は、毎日繰り返される両親の注意や小言に不満を持っていた。友人たちにも何度となく、両親への苛立ちを打ち明けていたという。
やりきれないが、ありえない話ではない。昔からこの手の事件はある。少し前なら気にもかけなかったはずだ。けれど今は違う。新聞をじっと見つめていると母親が声をかけてきた。
「どうしたのよあんた、ぼけっとして」
「十七歳少年、家族殺害」という見出しに目をやって顔をしかめる。
「いやあねえ、こんな事件は。あんた、まさか変なこと考えてるんじゃないでしょうね」
バカか、と笑って新聞をたたむ。小雨が降ってきた。アイスコーヒーを口に含み煙草を一本取り出す。母親が目の前に座りマキの様子を尋ねてくる。たまにはうちに来たらいいじゃないか、と言うと「マキさんが気を遣うでしょ」と笑った。父親はカウンターの向こう側で雑誌を読んでいる。客の数はまだ二、三組。こういう光景をのどかと呼ぶのだろう。
「今、マキさんはブラジャーしてるの?」一瞬何を尋ねられたか分からなかった。「ブラジャーよブラジャー。下着のブラジャー。あのね妊娠中はおっぱいの辺りの血の流れが盛んになってるから、あんまりブラジャーで締め付けちゃダメなのよ」
「やっぱり近いうちに来いよ。で、本人に直接アドバイスしてやってくれない?」
「私があれこれ言うのもおかしいでしょ」
母親は妙に頑なだ。だったら近いうちにマキを連れて来ようかなと思った。今まで何度か来たことがある。父親と母親、そしてマキがこの喫茶店にいる光景は悪くなかった。
初めて来たのは結婚前だった。無口な父親とおしゃべりな母親をとてもいい夫婦だとマキは言った。御年賀の時期だったので兄貴と姉貴もいて、俺は「末っ子」と大きく顔に書かれているようで恥ずかしかった。帰り道に「あまり緊張しなかったわ」と微笑んでいたが、あれは本音だったと思う。俺の家族に気難し屋はいない。
逆に俺が横浜にあるマキの家に行った時は大変だった。身長が百八十センチ以上あるマキの父親が酔っ払ってしまい、俺に泣きながら土下座して娘をよろしく頼むと叫び続け、その挙句吐いてしまったのだ。体育会系気質の厳格な人だと聞かされていたので俺はずっと緊張しっぱなしだった。土下座しながら畳の上で嘔吐しているオヤジさんの背中をさすりながらもまだ緊張していた。今でも会うとやはり緊張する。
最後に会ったのは去年の暮れだった。芋焼酎をストレートで飲んでいるオヤジさんにマキの母親が「飲みすぎないでよ。また吐いちゃうわよ」と言って、マキも「そうよお父さん、あの時はびっくりしちゃったわよ」と笑っていたが俺は笑えなかった。憮然としたまま芋焼酎を飲んでいる横顔を見ていると、到底笑う気分にはなれなかった。何か見てはいけないもの、見ない方がよかったものに遭遇してしまったようで胸が少し痛んだ。
「そうそうあんたちょっと時間ある?」
母親が勢いこんで尋ねてくる。二階の住居の模様替えを手伝ってほしいらしい。
「ほら、もう年寄りだから高い所がダメなのよ」
母親は今年六十歳、父親は六十四歳だ。
今回の「同窓会」の場所は池袋。時間に遅れてきたのはトダだった。銀色だった髪は明るいブルーに変わっている。服装は下半身がショーツにレギンスとほぼランニングウェア、羽織っているのは蛍光色が挿し色で入ったパーカー。もちろん四人の中では一番若く見える。イノウエとヤジマーはスーツ姿で、俺はいつも通りのジーンズとシャツだ。個室タイプの居酒屋は平日にもかかわらず混んでいて、予約しといて正解だっただろ、とイノウエが胸を張った。
乾杯の音頭はヤジマーがとった。結婚と出産、両方経験しているヤジマーは「めでたいかどうかは人それぞれですが」と古典的なことを言った。こいつは明るくてお喋りで好奇心が旺盛だ。「ヤジウマー」と呼んでいた時期もある。中堅食品メーカーの営業マンで、ここ一番の接待には必ず呼ばれる強力な戦力らしい。
いつものように取っ掛かりの話題は仕事から。特に重要な内容ではないが、各々のコンディションを把握する為の欠かせない儀式だ。ビールから焼酎に替える頃にそれは終わり、ようやくバカ話が始まりだす。イノウエの結婚相手が五歳年下、しかも職場結婚だと聞いて一気にみんなのテンションが上がった。
「入社当初から目をつけてたんだろ」「何ヶ月でモノにしたんだよ」「その前に手を出していた女とは揉めてないのか」「閉店後のデパートの店内でやったことあるだろ」「いいやとぼけんな絶対にあるはずだ」「大丈夫だ誰にも言わないから白状しろ」……。
そんな集中砲火を浴びてイノウエは嬉しそうだ。ふと俺が「お前また客に手を出したんだってな」とトダにカマをかけると笑いながら頭を掻いた。三十七歳だけど抜群に綺麗なんだ、と力説する青い髪のトダにも集中砲火が浴びせられる。やっぱりバカ話のテーマは女だ。二本目のボトルが空きそうになった頃、俺も気分が良くなってきた。妊娠中ってさ何ヶ月目まで女房とやってた? とトダがヤジマーに尋ねている。
「腹が目立ってきてからはやんなかったぞ」
そういえば俺も最近はしてないなと煙を吐き出す。いつものように真っ先に顔を赤くしたイノウエがスマホを持って立ち上がった。フィアンセには終電で帰るって嘘ついとけよ、とトダが笑う。何気なく視線を移動させると浮かない顔のヤジマー。トダはそういう表情を見逃さない。何か悩みごとか? とストレートに尋ねても、うーんと唸っている。こいつが悩んでいる姿なんて見た記憶がない。
「子どものことか? ちゃんとイクメンやってんだろ?」
トダがもう一押ししてもヤジマーは唸ったままだ。意外と手強い。三十秒が過ぎる頃、トダが俺の太腿を足で突付く。選手交代だ。
「ヤジマーんとこはそろそろ幼稚園じゃないのか?」
違う角度から攻めてみる。なかなかいいぞ、とトダが頷いているが敵もさるもの、目を閉じて唸ったままだ。店に流れる有線は、昔のヒット曲を琴の音色で演奏している。
「ミホちゃんは教育ママなのか?」
トダの援護射撃を聞きながらふと思う。こいつもミホコと寝たことがあるんじゃないか? もしそうだとしたら、と膨らみかけた想像を抑える。こんな時にさえ集中できない自分が悲しい。結局女房の名前が出てあっけなくヤジマーは陥落した。
煙草に火を点けながらボソボソと話しはじめる。要約すれば子どもの教育方針が夫婦で食い違い、度々言い争っているらしい。ミホコは出来れば幼稚園から、遅くても中学校から大学附属の私立に入れたがっていて、ヤジマーは高校まで公立でいいと思っている。
「本当、色々憂鬱でさ。こういうの『パタニティー・ブルー』って呼ぶらしいんだけど」
「お前、昔からつまんない駄洒落好きだよな」
「馬鹿、本当にある言葉なんだよ。『マタニティー・ブルー』の男性版。よく育児雑誌に出てるんだ」
危うい足取りで赤い顔のイノウエが戻ってきた。それを見ながら「結婚前はこんなことでもめるとは思わなかったんだぜ」と呟くヤジマー。話の流れが分からないイノウエが、ベタッと座るなり「どんな子に育てたいんだよ」と訊いてきた。どうやら質問をされているのは俺のようだ。改めて考えてみるが全く浮かばない。今度は俺がうーんと唸る番だ。そんな状態のまま二、三分。結局何も出てこなかったが、やはり想像の中で俺の子どもは女の子だった。
唐揚げを突付きながらトダが「ああいうのはイヤだよな」と顔をしかめる。
「ほら昨日の事件みたいにさ、親を殺すような子どもは勘弁だな」
心なしかヤジマーの顔が更に暗くなった気がする。極論そうだろうけどさ、と赤ら顔のイノウエが割る用のウーロン茶をそのまま飲んだ。フィアンセから飲みすぎないように注意でもされたんだろう。今なら大丈夫かな、と出来るだけ軽い口調で尋ねてみる。
「あのさ、何で人を殺しちゃいけないんだろうな」
(第08回 了)
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*『オトコは遅々として』は毎月07日にアップされます。
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