妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
妊娠五ヶ月目(十六週〇日~十九週六日目)
いつの間にかマキがマタニティー・ヨガを習い始めた。腰痛や肩こりに効果があり、瞑想やお腹の子との対話の方法も教えてくれるそうだ。
仕事のシフトを変更したので、時間がかなり自由になったらしい。週五日の出勤は変わらないが、勤務時間は昼の三時から八時までの五時間だけだ。水曜日と日曜日が休日なのは今までどおりだが、出勤日でも昼食を一緒に食べるようになった。
今まではマキが仕事に出かけてから再び寝床に戻り、昼過ぎまで二度寝を貪ってようやく外出、という生活パターンだったが、これからはそうもいかない。自分が貪る分には快適だが、他人、しかも失業中の夫の二度寝は別物だ。そこからは怠惰しか感じない。
二度寝を禁じられた俺に出来ることは、テレビを見るくらいだ。レコードを聴きながら読書でもいいが、それはそれで怠惰な印象を与える気がする。まるで求職活動をサボっているみたいじゃないか――。
ベランダで煙草を吸いながら考えた結果、朝食後にすぐ実家の喫茶店へ行くのがベスト、という答えを導き出した。行く、というより逃げているのかもしれない。自分の家から逃避だなんて、あまり笑えない。
身重の妻と一緒にいる時間を優先した方がいい、と頭では分かっている。ただ、いざ実践してみると落ち着かない。マキが部屋でヨガを始めたりすると、何だか責められているようで居心地が悪い。一緒にヨガの教室に行かないかと誘われたが、恥ずかしいからと断った。もちろん嘘ではないが断った理由は恥ずかしさだけではない。マキが母親としての自覚を持っていく姿に、俺はどこかでストレスを感じているのかもしれない。
ストレス。いやな響きだ。計画性ゼロ、危機感ゼロ、反省ゼロで生きてきた末っ子はストレスに対して敏感だ。俺は父親どころか大人にさえなってないのかもしれない。ヨガ教室から貰ってきた小冊子を傍らに置き、深呼吸を繰り返しているマキの横顔を見ているとそんな暗い推測が湧き上がってくる。
それに較べて実家の喫茶店は気楽でいい。母親に捕まりさえしなければ、有線のクラシックをBGMに新聞や雑誌を読みながら夕方までゆっくり過ごせる。とにかく疲れない。そして何よりありがたいのが、求職活動の成果を尋ねてこないことだ。結局この子は店を継ぐんだから、と思っているのかもしれない。
そういえばマキからも尋ねられたことはない。結局喫茶店を継ぐんでしょ、と思っているような気もする。俺もお腹の子について質問をすることはないので、結果的に会話の内容は結婚前と変わらない。一番多いのはテレビ、インターネット、雑誌で拾った話題だ。もしかしたら「変わらない」ということに、マキはストレスを感じているのだろうか。分からない。案外何も感じていないのかもしれない。
有線のクラシックを聴きながら新聞や雑誌を目で追っていても、頭の中ではこんなことをとりとめもなく考えている。そして合間合間にあの疑問は浮かんでくる。
――なぜ人を殺してはいけないか?
しかしその疑問は場所を選ぶ。実家の喫茶店だとなかなか真剣には考えづらい。学生の頃、苦手な授業を聞いているとこんな感じになった。集中どころか、興味さえも持てなくなってしまう。そして気付けばウトウト。この眠たさにも覚えがある。高校の休み時間、冷房の効いた図書館で机に突っ伏していた時と同じだ。
そしてだらしない時間にも終わりの時は来る。近くの小学校が下校のアナウンスと音楽を流すのが合図だ。それ以上落ち着いていると、夕食を食べていけと母親のしつこい勧誘にあうので帰り支度を始め、五時になる前には店を出る。
出た後は大抵どこかで軽く飲んでから帰る。新しい店に入るのもたまになら楽しいが、週の半分ともなるとそれも億劫だ。結局以前から知っている店に顔を出し、知っている連中と話をしながら、知っている酒を飲む。一番気兼ねがないのは先月、高円寺からの帰りに寄ろうとした隣の駅にあるバー「夜想」だ。マスターとはもう五、六年の付き合いになる。
初めは他の店の客同士として知り合った。言葉を交わすようになってから半年後、彼は自分の店を持った。所謂飲み仲間の中では一番付き合いが深い男だ。夜想、という店名は当時マスターが付き合っていた女が命名した。幻想文学が三度の飯より好きなんだ、というマスターの言葉を覚えている。
前は暗い照明でクラシックを流し、酒もワインとカクテルがメインだった。しかしその女と別れてから二年経ち、良くも悪くも店内は大衆酒場の様相を呈している。照明は明るく音楽はかかっていない。その代わりにと置かれたのは映りの悪い小さなテレビ。酒も瓶ビールと焼酎の割り物がメインになった。店名を「野草」に変えちまおうかなあ、とマスターは最近よくぼやいている。
「だってよ、どう考えても夜ヲ想ウって雰囲気じゃねえだろ」
たしかにバランスは悪いが、俺は前よりも今の方が気に入ってる。つい先日、とうとう壁にビール会社のキャンペーンポスターが貼られた。ビキニ姿で笑顔をつくるモデルの女。マスターはこの頃首に白いタオルを掛けている。
実家の喫茶店を出て「夜想」に寄る、というパターンが定着して半月ほど経った。以前も毎日のように来ている時期があったが、会社勤めをしていた頃なので時間帯が違う。
マスターにはざっと事情を話した。一歳年上の独身男は、ますます結婚したくなくなるなあと笑っていた。言葉を濁しながらの報告だったが、現在、彼は離婚暦のある女と付き合っているらしい。話せるようになったら話してくれよ、と言うと大袈裟に溜息をついてタオルで汗を拭う振りをした。
店は夕方六時に開き、大抵俺が一番乗りになる。八席あるカウンターの一番奥に座ると「ビールでいいかい」と訊かれ、うんと返事をしながら椅子の上で大きく伸びをすると、目の前に瓶とコップが置かれる。その日もドンと置かれた瓶の冷たさと重さを感じていると、店の扉が開き「おお、大学出」と声がした。
トミタさん御来店。五十過ぎのパンチパーマのオッサンだ。百八十センチを越す身長と筋肉質な体躯、それと動作のひとつひとつがいかにも粗暴な印象を与える。俺も最初は怖かった。が、話してみると映画や音楽に詳しいし、その内容とべらんめえ調のギャップがたまらなく面白い。何よりどれだけ飲んでも乱れたりつぶれたりしないのが立派だ。そんなトミタさんは、いつからか俺のことを「大学出」と呼ぶ。
「大学出てこんな店で飲んでちゃ世話ねえなあ」
そうやってよくからかわれる。でも何のことはない。トミタさんも大学出、しかも美大だ。今は家業の文房具屋を継いでいるが、前まではテレビ業界で美術の仕事をやっていた。アーティストじゃないですか、とからかうと「格好悪いなあ、職人って呼べよ」と嫌な顔をする。
「お、久しぶりだな、大学出」
俺の隣に座って「孕ましたんだって?」と肩を叩いて大きく笑う。どうですか、とビールを勧めると真面目な顔をして断り急いで席を立った。
「悪い、ちょっと電話かけてくる」
そう言い残し慌てて店の外へ。忙しそうだな、とマスターに言うでもなくビールを飲む。たしかトミタさんには高校生の娘が一人いたはずだ。前に訊いた時はあまり詳しく話したがらなかったが、今日は色々と訊いてみようかな。十分ほどしてトミタさんが戻ってきた。手には一升瓶を抱えている。
「忘れてたわけじゃねえんだがよ、まさか今日会えるとは思ってなくてな」
そう言って渡された。熨斗には「御祝 富田」とある。慌てて立ち上がり「ありがとうございます」と頭を下げた。
「ちょっと気が早えが心配すんな。無事産まれてきたらまた祝ってやるから」
嬉しかったのと驚いたので思わず涙が出そうになった。飲み屋の顔見知りってだけなのに申し訳ないな。帰って女房と飲ませて頂きます、と言うと「妊婦に訳分からんモノを与えんじゃないよ」と照れて笑った。そんな成り行きもあり、自然と話題はトミタさんの娘の話に。現在高校三年生で受験勉強の真っ最中だという。
「予備校に参考書にで、金ばっかかかってしょうがねえよ。まあ仕方ねえけどな」
「娘さん、反抗期とかなかったんですか」
一切そういうものがなかった自分の過去を思い出しながら、何の気なしに訊くと、トミタさんは「うーん」と唸って遠い目になった。十秒、二十秒、三十秒……。
まずいこと訊いちゃったかなと緊張する。マスターと目が合った。この空気をどうにかしろ、というテレパシーは届かなかったようだ。こんな時デュークだったら何とかするはずだぞ。このヘボマスター、という目付きで睨んでいるとトミタさんが口を開く。
「あったよ、デカいのがな。俺もまさかと思ってよ、あん時はもう参っちまったな」
トミタさんはコップの中の氷を見つめている。いつも焼酎のロックだ。グレちゃったんですか、という俺の問いかけにゆっくりと首を横に振る。
「グレたんだったら簡単だろうよ。男だろうが女だろうがぶん殴ってでも更生させりゃいいんだ。なあマスター、更生させりゃいいんだったら世話ないんだよ」
トミタさんの娘はひとりっ子で中三の時に反抗期が来た。彼女は不良の真似事をするタイプではなく、トミタさん曰く「妙な理論武装」をして高校進学を拒み始めたらしい。
将来の為に高校行けって言うけど、将来の展望もないのに何故高校に行くことが将来の為だと言えるのか。
そう言い放つ娘にトミタさんは怒りを堪えて「とりあえず行くだけ行ってみろ」と向かい合ったが、「とりあえず」で行くような高校に行って将来の為になるのかと返された。
「なあ大学出、まだグレてくれた方がマシなんだよ。あいつの言い分は間違っていねえんだからさ、どうもこうも出来ねえんだ」
トミタさんは三日間必死に考えて結論を出し、それを行動に移した。娘さんの前で土下座をし、「家を出ていってくれ」と真剣に頼んだのだ。
「養ってるとか養われてるとかじゃねえんだ。お前は子どもで俺は親なんだから、俺がお前を養うのは当たり前だ。そういうことを持ち出して、お前に高校行けって言ってるわけじゃねえ。ただ俺の性格上、ポリシーの違うヤツと一緒に住むのは気分が悪いんだ。だから高校に行かねえんだったら、すぐにでも家を出ろ。家賃だなんだは払ってやるから、この家を出てってくれ」
トミタさんの彫りの深い横顔を見ながら、凄まじい話に喉の辺りが熱くなった。反抗期がなかった俺の頭に一瞬両親の顔がよぎる。
「それはちょっとすごいですね」
そうマスターが呟くと「いや、反則使ったんだ」とうなだれた。反則? 怪訝な顔の俺とマスター。トミタさんの低い声が響く。
「親が子どもに土下座するなんてな、俺から言わせりゃ反則なんだ、反則。よその子どもは分からねえが、あいつは土下座でカタがつくって俺は分かってたんだからよ。つまり俺は逃げたんだ」
そう言ってトミタさんは焼酎をおかわりした。逃げた……と呟いている俺の方を見てトミタさんはゆっくりと繰り返した。
「そうだよ大学出、俺は娘との話し合いから逃げたんだ」
「夜想」からの帰り道、トミタさんから貰った一升瓶を抱えて歩いている。トミタさんの土下座以降、娘さんが反抗期めいた行動に出ることは一度もないらしい。反則が効いたんですね、というマスターに「だったらいいけど多分違うよ」とトミタさんは答えた。
「あいつはさ、あれ以来何でもハイハイって言うこときくだけになっちまったんだ。大学のこともそうだよ。受けてみろって俺とカミさんから言ったら、さっそく次の日から受験勉強始めやがった」
トミタさんの気持ちが伝わったんでしょう、と言っても納得しない。
「もしかしたらな、すぐに働きてえとか専門学校に行ってみてえとか思ってたかもしれねえけどよ、あいつは俺やカミさんと話し合いたくねえから言われた通りにしてんだよ。今回に限ったことじゃねえんだ。あいつは言うことをきくようになったんじゃなくて、親と話し合わなくなっちまったんだ」
考えすぎですよ、と言った俺とマスターを遮るようにトミタさんは溜息をついた。
「反則なんて使うとロクなことねえんだなあ」
反則、か。俺もそういう「反則」を使う時が来るんだろうか。年頃になった娘に対して土下座をする自分を思い浮かべた。思い浮かべた後で、息子ではなく娘だったことに気付く。息子に土下座する自分を思い浮かべようとしたが上手くいかなかった。
俺、女の子がほしいのかな。マキはどうなんだろう。家に帰ったら尋ねてみよう。それくらいなら話せる。
「夜想」から家までは歩くと二十分弱。時間はまだ九時を過ぎたばかりだ。「夜想」には二時間もいなかったのに妙に疲れていた。煙草を吸おうとしたが残りは一本、ここから家までの間に自販機はないし、引き返すのも面倒くさい。少し迷ったが吸うのをやめた。ベランダに行く理由はキープしておきたかった。
(第06回 了)
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