妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
ぐにゃぐにゃとゴム人形のような動きで部屋に戻る。ちゃんと歩いた方が楽だぞ、と膝の関節に窘められるが構わない。楽だから快適と思ったら大間違いだ。
ソファーの上に積み重なった雑誌を手に取ってみる。妊婦向けのものが五、六冊。黄色い付箋が貼られたページだけ目を通す。ざっと数えて二十枚。そこに記されているのは、そのままマキの抱えた不安だった。夜泣き、偏食、発熱、オムツかぶれ、汗疹。様々なトラブルの対処法を記したページに付箋が貼られ、ボールペンでメモ書きが添えられている。「超定番・育児の悩み」という見出しに、気が早すぎないかと呟きながら、俺は目を通し始めた。
現在育児奮闘中の現役ママさんや、小児科の先生、聞いたこともない小説家、児童心理学者。多くの識者の意見はどれも正しそうだが、これだけひしめき合っていると迷ってしまいそうだ。だから結局、自分の身内に相談しているんじゃないのか――。
そんな皮肉めいた想いを抱えてソファーに寝転がり、他のページにも目を通し始めて数分、俺は養育費についての記事を真剣な表情で追いかけていた。「大学まですべて公立なら一千万円、全て私立なら二千万円」、「子育ての費用は支出の四分の一」、「日本は子育て世帯への優遇が低い」……。こんなに金がかかるんだ、と全身に不安が広がる。ついさっき、マキに対して気が早すぎないかと皮肉な気持ちになったのが悔やまれる。俺が見ているのは二十年も先じゃないか。未来を見据えるつもりで目を凝らしてみたが、目の前のテレビは冷凍食品のコマーシャルを流すだけだ。サクッとジューシー。見てると腹が減ってきた。本当、情けない。
食パンにマヨネーズをかけトマトを挟んだだけの、貧相なサンドイッチを二つ食べると今度は眠くなってきた。情けなさを通り越し滑稽な姿だと思う。歯茎に残るマヨネーズの味を散らすため水を飲みたかったが諦めた。起きるのが面倒くさい。またソファーの上に寝転んで考えよう。考える。今更何を? それは分からない。でも新しく宿った命と向き合わなければ、俺は乗り遅れてしまう。そして、その遅れは決して取り戻せない。
もう雑誌は要らなかった。ただ目を閉じて新しく宿った命と向き合う。眠くなったらそこまでだ。俺は半年後に産まれてくる自分の子どもを歓迎していないのだろうか。そうではないと思いたいし、マキの妊娠を悔やんだりもしていない。ただ、とそこで思い留まる。ただ、マキの妊娠を跳び上がって喜んだわけでもなかった。
誰かに話す時は「お祝いごと」として笑顔で話すし、この間イノウエと飲んだ時みたいに乾杯もする。でもこうして一人でいる時に、子どもがこれから産まれてくるという喜びを噛み締めたりはしない。俺はまだ、父親になるという実感を一向に持てないでいる。
世の男性諸氏は初めての子どもが産まれる時に、どういう気持ちでいるのか教えてほしい。俺の感覚が異常なのか正常なのか、ちゃんと判断してほしい。誰かに尋ねて確認してみたいが、周りにはなかなか訊ける相手がいない。父親には当然尋ねづらいし、親しい連中にもどういう風に切り出していいのか判らない。
若い父親がまだ小さい子どもを折檻の末に殺害。そんな事件を少し前にニュースで見た。キャスターやコメンテーターは「信じられない」と口を揃えていたが、本当に「信じられない」ことなのか?
こんなことを考えていると、将来そういう事件を起こしてしまいそうな気さえしてくる。ヤバいな、と思い留まると同時にコケモモの顔が浮かんだ。胃の上辺りにきりきりと痛みが走り、吐き気がこみ上げる。俺はもうすでに一人、殺しているんだった。
指定された時間は午後五時。そのレコード店は予想以上に狭かった。店の広さ自体はそんなに狭くもないが、とにかく商品の数が多すぎる。微妙なバランスを保ち積み重なっているレコードの山。俺はそれに触れないよう気を付けながら歩いた。
面接自体は短かった。頭の薄い小太りの店主と立ったまま二、三分。履歴書は必要なかった。あんまり詳しくないんですけど、と言うと店主が申し訳なさそうな表情になる。
「やっぱりある程度知ってないと、お客さんは細かい人が多いもんだからね」
「そうですよね」
それっきり言葉が出ない。店主も俯いたまま黙っている。俺の方から、分かりましたと言って話を切り上げた。面接終了。
何だかすまなかったねえ、と店主が謝りだして妙な雰囲気だ。「処分品」と書かれた箱の中から、好きなレコードを持っていっていいと言う。お言葉に甘えて三枚ほど選んだ。すると「持ちづらいでしょう」と御丁寧に袋まで差し出してくれる。かえってすいませんでした、と頭を下げると「また寄ってみてよ」と店主。これじゃあコントだな、と思いながら店を出るとまだ五時十分だった。お土産のレコードを抱えて新宿をフラフラと歩く。このまま帰ってもいいが、家に一人でいるとまた昨日のようになってしまうだろう。それは避けたかった。
あんまり詳しくないんですけど、なんて言わずに堂々と振る舞っていたら採用されたかもしれない。ただ、後で困るのは俺だよな――。ぽつぽつと飲食店の看板に灯が点り始めた。このまま歩けば先月訪れたレストランやバーが入っている高層ビルだ。ふとデューク・エリントン似の老バーテンを思い出した。デュークに昨日の悩み、つまり産まれてくる子どものこと、もっと言えばそれを素直に受け入れていない俺のことを相談してみたくなる。核心に触れた回答は出ないだろうが、新宿を当てなくフラつくよりはマシだろう。
店は六時オープンだろうと予想し、何か腹に入れておこうと回転寿司屋に入る。一人で食事をするのは苦手だが回転寿司屋はギリギリ平気だ。まずは生ビールから。アルコールで多少勢いをつけてでも、デュークに会って話をした方がいい。何の気なしに手を伸ばしたサーモンは結構前に握られたものらしく、渇いた米粒がパラパラと口の中で崩れていった。
店は予想通り六時オープンだった。時間は六時十分。早すぎたかな、と躊躇いながら銀色の扉を開ける。この間と同じく背の高い女が案内してくれた。カウンターにはグラスを拭いているデュークの姿。ちらりとこちらを見て頭を下げる。
一杯目はボストン・クーラー。客は他にいない。流れているのは有名な曲。これなら俺にも分かる。ソニー・ロリンズの「ストロード・ロード」。私もよく行くんですよ、と氷を砕きながらデュークが口を開いた。何のことだろうと怪訝な顔をしている俺に、デュークは視線で返答をする。その先にあるのは、あのレコード店の袋。
「一週間に一度は覗くんです、あそこは枚数が多いでしょう」
俺はここぞとばかりに今日の面接の顛末を話した。デュークは愉快そうに笑っている。そうか、常連だったのか。狭い店内でレコードを物色している彼の姿を想像してみた。あの店主もデューク似だと思っているはず。そう考えて可笑しくなる。このペースなら案外早く本題を切り出せそうだ。いや、早く切り出さないとタイミングを逃してしまう。他の客がカウンターについたらアウトだ。この間はすいませんでした騒いじゃって、と告げるとデュークは「いえいえ」と大仰にジェスチャーをつけてみせた。
「お連れ様のお悩みは、うまく解消されたようですか?」
ええ、と苦笑いをしながら本題を切り出す。この間の連れ合いは妻で今度子どもが産まれること、妊娠を知ってからその妻との距離感が変わった気がすること、まだ産まれていない子どもの命が大事かどうか分からないこと。
さすがに最後の話はまずいかなと思ったが、意外に寿司屋の生ビールが効いていて途中でやめられなかった。コケモモに中絶させたことを言わなかったのは話がぶれるからだ。デュークは目を閉じて、時折宙を仰いだりしながら静かに耳を傾けてくれた。
話し終わり、残りのボストン・クーラーを飲み干す。デュークの反応や如何に。怒られるのか、許されるのか。悪戯を告白した園児のように身を固くして言葉を待つ。私には、と話し始めたデュークは空になったグラスに視線を落とし、「同じものでよろしいですか?」と尋ねた。俺が頷くと氷を砕きながら再び話し始める。
「私には妻はいますが子どもはいないんです。ですからあまり参考にはならないかもしれませんが、話半分で聞いて下さいね」
ラムのボトルのキャップを開けたり、レモンをスライスしたりしながら話しているが、忙しなくはない。
「よく女性は妊娠と同時に母親になれるけれど、男性は子どもの成長と共に父親に徐々になっていくなんて言いますね。私もその意見には納得できるんです。周りの連中からもそういうもんだとよく聞かされました」
目の前にグラスが置かれる。そのグラスの縁に唇を乗せ、出来立ての冷気を楽しむ。
「この前と同じ言い回しになってしまいますが、何故そのことで悩んでいるのか、と考えてみたら案外発見があるかもしれません」
沈黙が続く。どうやらデュークの見解は以上のようだ。彼はそのまま一歩下がってグラスを拭き始めた。
なぜ俺は一度しか話をしていない老バーテンに相談したいほど、まだ見ぬ自分の子どもに悩まされているのか。ちゃんと向き合ってみよう。
自分の子であろうと他人の子であろうと、子どもを殺すことはきっと普通ではなくて、もちろん中絶だって同じだ。見逃してもらえるとは俺も思っていない。本当は見逃してほしいけど無理だ。「まだ産まれてもいない命って、そんなに大切なのかよ」という俺の主張は通らない。中絶だって人殺し、決して普通ではない。
普通。――Q:普通って何だ?
考えれば考えるほど、だんだん分からなくなってくる。俺はコケモモを中絶させた。させたというか、するような流れを作ってしまった。本当は中絶をしてほしかったが、本当に中絶をするなんて想像できなかった……。更に分からなくなったので質問を変えてみる。
Q:普通じゃないとダメなのか?
残念ながらそれも分からない。仕方なく一時撤退。
俺自身が「まずいな」と感じていること。それは、産まれてくる子の命に関してだ。その命の価値や重さが俺には理解できていない。「理解」がダメなら「納得」するのはどうだ? よく分からなくても納得できれば何とかなるぞ。何だかよく分からないなりに「自分の命に代えても守ってやる」と思えればきっと悩まない。逆でもいい。何だかよく分からないなりに「産まれる前なら殺してもいいじゃん」と声高に主張できるなら、やはり悩まなくて済むはずだ。
前者の可能性は今のところない。後者は脈アリだ。――殺す。自分の子を殺す。他人の子を殺す。今の俺にはその違いが分からない。
マキのお腹にいる子が自分の子だとは認識しているが、その重さをしっかりとは受け止めていない。じゃあコケモモの……、と考えるとまた分からなくなり、思考が停止してしまう。再び一時撤退。
子ども。――Q:何歳までが子どもなんだ?
十歳か。十三歳か。十五歳か。そんな風には決められないだろう。もしかすると、これは子どもに限った話ではないのかもしれない。人間全体の話……なのだろうか。だとしたら――Q:どうして人を殺してはいけないのか?
思わず目を閉じる。こんな質問と向き合わなければいけないほど、今の俺は鈍くなっている。まずその事実に愕然とした。そして苛立つ。今すぐにでも放り出したくなる。でも、その結果損するのは俺自身だ。逃げても仕方ない。今ここで、しっかりと考えないと。
殺すことは犯罪行為だ。犯罪行為を実践してはいけない。何故いけないんだ? 警察に捕まるからか? 牢屋に入ったり死刑になったりするからか? だから犯罪行為は、人を殺すことはいけないのか? では、刑罰がなかったら人を殺してもいいのか?
おかしい。また遠ざかっている。この間マキはここで言った。「やっぱり食べ物を捨てるっていうのが嫌なんだよね」。それに倣ってみる。「やっぱり人を殺すっていうのが嫌なんだよね」。
本当だろうか。Q:俺は「人を殺すこと」や「人が殺されること」を理屈抜きで、生理的に嫌がっているのか?
A:当然知っている人が殺されるのは嫌だ。理屈ではない。両親が、マキが、マキの両親が、殺されるのは嫌だ。先日会ったイノウエも、その他の「余り者」の連中も同じだ。ではコケモモも……。
駄目だ。またこんがらがる。突付く場所を間違えた。整理してみよう。A:知っている人が殺されるのは嫌だ。これは間違いない。では次。A:知らない人が殺されるのは嫌だ。これは少々怪しい。
テレビのニュース、遠い戦地、罪なき人々が殺される。Q:そんな映像を見るのは嫌か? A:嫌だ。テレビの中で殺されているのは見知らぬ人々なのに、とても嫌な気持ちになる。
知っている人が殺されるのも、知らない人が殺されるのも嫌ならば、それは誰が殺されても嫌ということだ。では最終確認。Q:本当に俺は誰が殺されても嫌なのか?
――やはり、それは違う。A:嫌ではない。
たとえば、さっきカウンターまで案内してくれた背の高い女。次に来店した時、デュークから「彼女は殺されました」と告げられたら、驚きはするが嫌ではないだろう。テレビの中にいる戦争の犠牲者たちとは何かが違うはずだ。殺され方だろうか。
殺され方? また収拾がつかなくなる。そして新しい客が入ってきた。背広姿が四人、テーブル席につく。そろそろ答え、ではなく疑問をまとめないと。
俺を悩ましている幾つかの疑問。その根っこにあるのは、「なぜ人を殺してはいけないか?」だと思う。別に正解が知りたい訳ではない。自信を持って答えられればそれでいい。一見、馬鹿でも解けそうな超難問。こいつを解き明かした時、俺はこのぎくしゃくした現状から解放されるはずだ――。
切り裂くようなサックスの音で現実に引き戻される。いつの間にかジョン・コルトレーンのライブ盤にレコードは変わっていた。結局分かったのは「答え」ではなく「疑問」の方。妙に頭が重い。
静かに深呼吸をした。微笑んでいるデュークと視線が合う。なぜ、と話しかけた声が掠れてしまった。ボストン・クーラーで喉を潤して仕切り直し。彼は待ってくれている。ありがたい。最高のバーテンだ。
「なぜ人を殺してはいけないのか、少し考えてみます」
驚くことなくデュークは頷いた。そこから先は私の領域ではないんですよ、という頷き方だった。
(第05回 了)
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