女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
うつむきながら考えていたのは、どこがダメだったんだろうということ。今のおチビちゃんには何のヒントもない。演技についてはもちろんのこと、このドラマの現場でどう振る舞えばいいのか、どこを目指せばいいのか、全てが漠然としていて心細い。だから宇津井さんから声をかけられた時、きっと何かが悪かったんだろう、と思った。
「そうそう、その方がいいよ」
「え?」
顔を上げると宇津井さんが振り返っていた。
「もう一度やってみようか」
「あ、えっと……」
「うん、今のその歩き方をね、もう一度できる?」
慌てて数歩下がり、恐る恐る歩いてみる。宇津井さんは真剣な表情だ。もう一度、と言われたけれど、意識して歩いていた訳ではないから自信がない。
「うん。いいけど、もっと自然でいい。変に意識しなくて普通に歩けばそれでいいから」
はい、と返事をしてもう一度試してみる。意識しすぎない、ということを意識するとおかしくなってしまうから、端から考えないようにしてただただ歩く。
「そうそう。その感じでいいよ。じゃあ、ちょっとこっちに来てもらえる?」
さっき蟹江さんと確認したシーンを、今度は宇津井さんを相手に動いてみる。すると始めて数秒でストップがかかった。
「そこ、悪くないんだけど、カメラは向こうから捉えているから、そんなに見せようとしなくても大丈夫」
「はい。じゃあこれくらいで……」
「そう、その方がいい。それでちゃんと撮れているからね。で、その時の手の動きなんだけどね……」
宇津井さんのアドバイスはとても具体的だった。身体をどう動かし、どう撮られるかという点を分かりやすく伝えてくれる。確かにカメラがどこから撮っている、ということまでは意識していなかった。私の演技を観ているのは、カメラの向こうにいる沢山の人たちなんだ――。そう気付いた瞬間、背筋がぐっと伸びた。カメラに撮られている、というのはそういうことなのだ。
「じゃあ、もう一回ね」
「はい、お願いします」
今言われたことを動きに反映させながら、おチビちゃんは密かに安堵していた。正しい方向かどうか分からないまま、ただ闇雲に前進するのは不安で仕方ない。こうして目指す方向を示してもらえただけでなく、その為のアドバイスまで頂けたことはかなり心強かった。
「うん、いいね」
そんな宇津井さんの声に、おチビちゃんは「ありがとうございます」と頭を下げた。
休憩が終わった後、再開されたリハーサルの模様を部屋の隅に立って確認しつつ、おチビちゃんは四季のことを考えていた。感傷的な気持ちに浸っていた訳ではもちろんなく、今までの演技とこれからの演技を並べた結果、自然と頭の中には参宮橋の稽古場の風景が浮かんでいた。
ふと気が付く。宇津井さんは自分の出番があろうとなかろうと、この部屋にずっと居続けている。行われる全てのリハーサルを見守るその姿は、このドラマ「野々村病院物語」チームの「リーダー」、もしくは一座の「座長」と呼ぶのに相応しい。おチビちゃんが浅利先生、そして慣れ親しんだ稽古場を思い出したのはそのせいかもしれない。
浅利先生と宇津井さんは年齢こそ二歳しか違わないが、特別似ているところがあるとは思えない。演技をすることへのアドバイスだけを比べれば、そのポイントは正反対と呼べるほどに違う。浅利先生から教えて頂いたのは感情や意識といった内面のことが多く、宇津井さんの言葉は「いかに見えているか/見せていくか」についてのものだった。ただどちらもおチビちゃんにとっては、現在、そして今後の行き先を示す大切なものであり、そう考えると二人の存在にどこか似た部分を感じずにはいられない。
数時間後、思ったよりも早く全てのスケジュールが消化され、そろそろ帰ろうかと出口の方へと歩き始めた時だった。
「ちょっと」
後ろから声がかかる。小さな声だが周りには誰もいない。はい、と振り返ると武敬子さんだった。
「お疲れ様です」
彼女も宇津井さん同様、今日一日、最初から最後までずっと部屋にいてリハーサルを見つめ続けていた。プロデューサーの仕事がどのようなものかはよく分からないが、こうしてテレビドラマという新しい世界へ漕ぎ出せたのは、間違いなく彼女が見出してくれたからだ。
「ちょっとちょっと、さっきの何よ」
「はい?」
その言葉の強さに思わず立ち止まると、肘の辺りを軽く掴まれ、部屋の隅へと引っ張られた。
「あなた、イロつけたわね」
「……」
何も言えなかったが、頭の中には「?」が五つくらい並んでいた。「イロ」って「色」? 「つけた」は「付けた」? もしそうだとしたら、それってどんな意味? そして何をこんなに怒っているの?
「見てたんだからね」
「……見てた?」
「あんな風に気安く声かけて……」
頭の中の「?」がひとつ増えた。武さん、何の話をしてるんだろう?
「簡単に教えてもらっちゃダメって言ってるの」
ようやく話が見えてきた。多分、宇津井さんとのことだ。でも、何が悪かったかは汲み取れない。だから分かるところだけ訂正をする。
「あの、私から声をかけてはいません」
「え?」
「多分休憩の時ですよね。あれは宇津井さんから呼んで頂いたんです」
険しかった武さんの表情が、怪訝なものへと変わっていく。まだ納得してはいないみたい。
「そうなの?」
「はい。色々と教えていただきました」
「でもねえ、周りの目もあるから……」
「……今後ああいうことがあったら、お断りした方が良いんでしょうか?」
怪訝から困惑へとまた武さんの表情が変化した。なんとか誤解は解けたみたいだ。
「いや、そんな断ったりすることはないけど、まあ、ほら、いろんな人がいるから気をつけてね」
そんな歯切れの悪い言葉に、とりあえず頭を下げる。迷ったけれど「イロつけた」の意味については尋ねなかった。
立ち去る武さんの背中を見送りながら、ゆっくりと息を吸って細く長く吐く。漕ぎ出したばかりでまだ何も分からないけれど、この新しい海が途方もなく広いことは漠然と理解できた。
翌日はTBSスタジオでの撮影、つまり本番で、前日のリハーサルを体験したおチビちゃんは、初日の吉祥寺ロケのように短時間で終わる可能性は低いと予想していた。舞台の本番は必ず決められた時間で終わるけど、テレビドラマの撮影は多分違うんじゃないかしら?
そんな疑問を抱えながらスタジオに到着したのは午前八時過ぎ。撮影本番なので、昨日のようにそのままの格好という訳にはいかない。メイクを整え、衣装を身につける必要がある。
「おはようございます!」
メイク室のドアを開け、明るく元気に挨拶をする。結構早く来たつもりだったが、もう二、三人、鏡の前でメイクをしてもらっていた。あれ、誰だろう? 挨拶したことあったっけな?
「おはよう。今日は撮影よね。あれ、もしかしたらスタジオは初めて?」
「はい、そうなんです」
「この間はロケだったのよね?」
はい、と頷きながら思う。メイクさんから話しかけてもらえるだけで、気持ちが落ち着いてくる。まだまだ慣れないことばかりだけど、こんな風に少しずつ馴染んでいければいい。
「すいません、奥でメイクされている方って……」
「ん? ああ、あの人たちは別のドラマなの。『野々村』じゃないのよ」
そうか、他のドラマも撮影してるのか。どうりで挨拶をしてないわけだ……。
数十分後、吉祥寺ロケの時と同じく、赤チェックのスカートに紺のブレザーを合わせた看護学生「川原早苗」は、初めて撮影を行うセットの中にいた。そこは「わあっ」と思わず声が出てしまうほど不思議な空間だ。一言で言うなら「建てかけ」。院長室やナースセンター、個別の病室に診察室、手術室。どの部屋も壁は四方になく、だいたい二、三面。カメラや照明を操る技術スタッフさんは、壁のないスペースを使用して動く。精巧な造りにいちいち驚いてしまうが、一歩裏に回ると剥き出しのベニヤ板だったりするので更に驚く。まさに撮影現場の裏側だ。
そんな異次元級の珍しさに思わず時間を忘れそうになる。ここで演技が出来るなんて、楽しみで仕方がない。自分の中の「役者スイッチ」が押された感じ。平気な顔であれこれ見て回っているが、自分でも興奮しているのが分かる。結果、気付けば本当に時間のことを忘れてしまっていた。そろそろ私のシーンが始まる頃だ。急がなきゃ!
小走りに自分の持ち場へ戻ると、リハーサルと同様に技術スタッフさんが台本を持って集まっていた。いつものADさんと目が合ったので軽く頭を下げる。どうやらセーフ、間に合った。促されるままセットに入り、机を挟んで蟹江敬三さんと向かい合う。衣装や髪型を整え眼鏡をかけたその姿は、真面目すぎる性格の「須崎事務長」にしか見えず、また「役者スイッチ」がオンになる。
今にも「事務長」と呼びかけたいほど準備万端だけれど、すぐに撮影が始まるわけではない。まずは役者の位置や動き方、表情などをチェックしながら、カメラや照明の位置、そして角度を決めていくようだ。
「じゃあちょっと、最初入ってくるところ、やってみて」
言われたとおりに動く。特に褒められたり注意されたりはしない。蟹江さんと共に何度か動いた挙句、いよいよ撮影となった。監督さんは高い場所にあるディレクタールームへ移動し、技術スタッフさんはそれぞれの位置につく。短い静寂の後、ADさんがカウントを数え始めた。いよいよ撮影が始まる。
少なからず驚いたのは距離感のこと。カメラやライト、そしてマイクを持ったスタッフさんが予想よりもかなり近い場所にいる。おチビちゃんは、まるで囲まれるような立ち位置で芝居をした。蟹江さんが何も言わないので、この新しい世界では普通のことなんだろうと受け入れる。今まで向き合ってきたのは何千人の観客だったけれど、これからはカメラだ。あのカメラの向こうには何万人、何十万人の人がいる。
「じゃあもう一度、いきまーす!」
今の芝居は距離感のことに気を取られ過ぎて、集中力が途切れていたかもしれない。次こそは大丈夫。そう思った瞬間、天から監督の声が降ってきた。
「早苗ちゃん、ちょっと声、大きすぎる」
反射的に出た「あ、すみません」という声も大きかったかもしれない。落ち着け、落ち着け。何の為に音声さんが、あんな大きなマイクを持ってくれているんだ。あれなら囁き声だって拾ってくれるはず。さあ、もう一回――。
「早苗ちゃん、もう少し声小さくても大丈夫。ちゃんと聞こえてるから」
また天の声から同じことを言われてしまった。蟹江さんに小さく頭を下げて、もう一回。今度は――うまくいったようだ。近くのモニターで撮影したての映像をチェックする。技術スタッフさんたちも真剣な表情で見つめている。画面の中の自分を見るのは、初めてではないけれど変な気分だ。ようやく声の問題は解消されたらしく、すぐ次の準備へと取り掛かる。今度は少し動きが多い場面だ。
短いシーンが続けば、当然何回も気持ちを切り替えることになる。その都度、気持ちをきちんと作りながら、並行してカメラの存在、つまり撮られ方も考えなければいけない。浅利先生と宇津井さんから教わったことをなぞってから「よーい、スタート」。自分なりに感触は悪くなかったが、また天の上から声が降ってきた。
「早苗ちゃん、今ね、カメラのフレームからいなくなっちゃったよ」
(第31回 了)
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