女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
最初の撮影は、夏目さんと二人のシーンからだった。複雑な動きなどがあればリハーサルを行うらしいが、決まったセリフはなく、何となく雑談しながら歩くだけなのですぐに本番らしい。よく喋ってよく笑う夏目さんが、ロケバスの車中でも隣にいてくれたお陰で、おチビちゃんに妙な緊張感はない。色々と話してくれた内容はもちろん、自分に話してくれる人がいるという事実が本日初日の「新人」には心強い。
これから撮るのは、上京してきたおチビちゃん……ではなく川原早苗が、夏目さん演じる主任看護師の寮に泊まった翌朝のシーン。軽く深呼吸をすると「ねえねえ」と声がかかる。
「頑張ろうね、早苗ちゃん」
「はい、主任」
与えられた役に入ることは難しくない。台本だってちゃんと読み込んできた。私はもう看護学生の川原早苗だ。
監督率いる撮影隊が、少し離れたところで準備を進めている。さあ、そろそろだ。緊張を振り払うように、背筋を伸ばしたおチビちゃんはあることに気付いた。
そっか、舞台がないんだ……。
舞台となるのは何の変哲もない道。この道を夏目さんと言葉を交わしながら、向こうの方まで歩いていく。歩き始めるタイミングも、カメラが止まるタイミングも、教えてくれるのはアシスタント・ディレクター、ADさんだ。ずっと撮影隊からの指示を無線で受けている。
「はい、こっちは大丈夫です。はい、分かりました」
まるで目の前に監督がいるように、頭を何度も下げた後、ジーンズのポケットに台本を突っ込んだ彼は「すいません、こちらへ」と歩き出す位置を示してくれた。
こんなことまで教えてくれるんだ、と内心驚きながら夏目さん――ではなく主任の隣に立つ。ADさんが出す静かな合図に合わせ、おチビちゃんは一歩踏み出した。
「カットでーす」
ADさんの声がかかって一段落。夏目さんに促されて元の場所まで戻る。こんな具合だからね、という感じで微笑む夏目さんに笑い返しながら、内心迷っていたことがある。
まだ川原早苗でいるべきか、それとも私自身に戻るべきなのか。もしも今のテイクがOKでなければ、また撮り直すはず。だったら、このまま早苗でいた方がいいのかな。
これが舞台なら悩む必要はない。自分の出番がすべて終わっても、当然役のままでいる。私自身に戻るのは、幕が閉まってからだ。だけどドラマの撮影は長い。台本だってまだ一話分しか渡されていないし、撮り終えたのはその中のワンシーンだけ。
「早苗ちゃん」
「はい」
「ここの次の予定は?」
「たしか一人のシーンを撮るって……」
「あ、そうなんだ。もしかして不安?」
「……ちょっとだけ」
「そうよねえ。でもね、早苗ちゃんなら絶対大丈夫。きっと今のも一発OKよ」
夏目さんは「早苗ちゃん」と役名で呼んでくれるけど、それは「主任」としてではなく「夏目雅子」さんとして、だと思う。役名で呼び合うなんて、今まで経験したことないけれど、ドラマの世界では普通なのかもしれないな。
夏目さんの予想どおり、今撮影したシーンは撮り直すことなく終了。メイクさんからも「早苗ちゃん、良かったわよ」と声をかけられて、おチビちゃんは確信する。これから数ヶ月間続く撮影の間、ずっと「川原早苗」でいるのは無理だ。現場にいる時は「早苗ちゃん」と呼ばれるけれど、私が「川原早苗」になるのは演技をする瞬間だけで大丈夫。
気付けばカメラマンや音声さんたちが、機材を片付けてロケバスへと乗り込んでいく。みんな驚くほど動きが早い。今から別の現場へ行くという夏目さんに、慌てて「ありがとうございました」と頭を下げると、満面の笑顔で「大丈夫だからね!」と手を振ってくれた。
次のロケ地は吉祥寺駅の近くだった。看護学生の川原早苗が上京してきた、というシーン。これからお世話になる病院、ドラマのタイトルとなる「野々村病院」を目指す、というテレビ放映時には冒頭に流される重要な場面だ。
当然ながら吉祥寺の駅前には、ドラマの撮影とは関係のない一般の方々が存在していて、おチビちゃんはその人混みの中で演技をすることになる。同じバスで移動してきた撮影隊は、近くの建物の上階でセッティングをして、そこから不安と期待が入り混じった少女の姿を捉えるつもりだ。
「はい、えーっと、もう少し先ですか? この辺りでどうでしょう?」
ここでも監督からの指示を伝達するのはADさんで、彼は今、おチビちゃんが歩いて行くルートの確認をしている。
「ではここからですね。はい、了解です!」
無線でやり取りをするその姿を気にかける人はほとんどいない。少し前までは、観客全員の視線を浴びながら舞台の上でお芝居をしていたけれど、今から行うのはその真逆。慣れない街で地図を頼りに病院を探す川原早苗として、行き交う人々の中に紛れなければいけない。
ADさんがさっと駆け寄ってきて、歩き始める場所まで誘導してくれる。
「では、この地図を見ながら、向こうの方まで歩いてください。向こうです」
そう言って彼が指差したのは、交差点の向こう側。思ったよりも距離は短い。次の言葉を待っていたが、彼は無線で撮影隊へ「OKです」と告げてその場から離れた。
さっき夏目さんと一緒に撮った時と同じく、演技に対する解説やアドバイスはない。ダメ出しに慣れている身としては、戸惑いや物足りなさがある。
ADさんからスタートの合図が送られた。もちろん、ただ交差点を渡るだけではない。台本を読んでいるから、川原早苗の目的は分かっている。「歩く」ことではない。「探す」ことだ。そこさえ理解していれば、自ずと動きは決まってくる。必要なのは、不安な気持ちや緊張感。それを身体で表現する。
周囲の人々の存在はまったく気にならなかった。きっと撮影をしているとは気付かれなかっただろう。指示どおりに交差点を渡りきり、しばらくするとADさんから「OKです」と声がかかった。そして促されるままロケバスの方へと歩き出す。自分を撮っている人たちも、撮られた自分の姿も確認しないまま終わってしまったので何だか落ち着かない。
「本当にこれでいいんですか?」
そう訊きたいところだけれど、おチビちゃんはぐっと堪える。まだ今日は初日。とにかくやってみよう。そう思いながら見知らぬ吉祥寺の街を歩いている自分は、かなり川原早苗に近いんじゃないかしら?
聞くところによると、この「野々村病院物語」において、スタジオ以外の場所で撮影をするのは珍しいことらしい。ほとんどのシーンは、赤坂にあるTBSのスタジオで撮影されるという。
だからてっきり翌日は、スタジオ内での撮影だと思い込んでいたけれど、一日ずっとリハーサルだと告げられた。はい、と返事をしたものの、どんな感じになるのかはイメージが湧きづらい。そんなおチビちゃんが、家に帰って真っ先にしたことは台本の読み込みだった。こんな状況でも、頼れるのは自分の力だけ。備えあれば、ということだけではない。ストーリーや登場人物の気持ちをたどることは、四季で叩き込まれた「俳優」としての在り方を再確認する作業で、すなわち「今、自分がどうしてここにいるのか」の答え。そのたったひとつの答えをもう一度確認しなければまずいな、とおチビちゃんは感じていた。
これ、プレッシャーだと思う。結構重めのヤツ。その証拠に今日一日、いや、昨日の夜からずっとお腹の調子が良くない。
朝、目が覚めても体調は変わらなかった。引き続き、重いプレッシャーがお腹に悪さをしている。枕元の台本を手に取って数秒、一目も見ずに元の場所へ戻した。今日は一日リハーサルだけど、大丈夫、頭に入れておきたいところは全て入っている。
九時にはもうリハーサルが始まるらしい。撮影ではないので、メイクをしてもらう必要はないし、服はいつものままでいいと思う。だからといってのんびりし過ぎるのは危険だ。遅刻だなんて目も当てられない。時計を見ると六時半。頭の中でシミュレーションをしてから、ヨイショと勢いをつけて起き上がる。七時前には家を出よう。ちょっと早いくらいで丁度いいはず。洗顔、歯磨き、うがい、とテキパキと動くおチビちゃんだが、その左手はそっとお腹をかばっていた。
リハーサルを行うのは、広い会議室のような場所だった。その広さ、中にいる人たちの雰囲気、それを好ましく思っている自分――。一歩踏み入れた瞬間に浮かんだのは、懐かしい四季の稽古場だった。そこかしこに漂っているのは、力を合わせて何かを創ろうという熱気。ここでリハーサルを行うかと思うとワクワクする。
でも物事はそうそう単純ではない。人の中味は案外複雑だ。何なら少し感動しているくらいなのに、またお腹が痛くなり始めている。間違いないわ、とおチビちゃんは背筋を伸ばした。やっぱり原因はプレッシャーに違いない。ちょっと大袈裟だけど、そして照れ臭いけれど、私は「劇団四季」の看板を背負っているつもりだ。自信だってそれなりにある。でも、不甲斐ない演技をして「四季ってあの程度のもんなのか」とガッカリされる可能性もそれなりにある。そのグラグラと安定しない狭間で、涼しい顔をしていようと思うから、キツい。
「おはようございます」
ふと聞こえた声は自分に向けられたものではなかった。気付けば共演する俳優さんたちが集まってきている。宇津井健さん、山岡久乃さん、そして今日これから二人のシーンを控えている蟹江敬三さん。その向こうに見えるのは、四季の先輩にあたる木内みどりさんだ。そんな錚々たる顔ぶれに、また痛みそうなお腹を気にしながら、おチビちゃんは「おはようございます!」と笑顔で駆け寄って行った。
初めて見るテレビドラマのリハーサルは、ある部分では今まで経験してきた劇団の稽古とよく似ていた。まず俳優が本番と同じように演じる。ここまではおチビちゃんの予想の範疇だったが、そこからの流れは見慣れないものだった。その演技をどの角度からカメラが捉えるのか、どこを映してどこを映さないのか、についてもしっかり話し合いを重ね、実際の撮影に備えていく。これは想定外だった。
観客の目の前で舞台に立つ演劇の世界は、どの角度から観られるか予想がつかない。少し背伸びをして言うならば、どこから観られても良いように仕上げるのが舞台に立つ役者の仕事だと思う。演劇とテレビ、どっちがどうだと較べる話ではない。別モノというだけだ。
これがテレビドラマの作り方なのね、と感心する間もなく自分のシーンが来た。上京した川原早苗が履歴書を携えて、病院の事務長のもとを訪れる場面だ。今回は台詞もある。
蟹江敬三さん演じる須崎事務長は、生真面目な性格という役どころ。そんなに長いシーンではなかったが、おチビちゃんは蟹江さんの演技に少なからず驚かされた。当然リハーサルなので、互いに撮影をする時の姿格好ではないが、それでも芝居に入った瞬間、向かい合って話しているのは間違いなく須崎事務長その人だった。無論おチビちゃんも川原早苗として存在したはずだが、舞台と違ってテレビドラマのリハーサルはシーンがバラバラ。繋がりがない分、じっくりと時間をかけられないので、完成度を問われると少々自信がない。でも蟹江さん演じる事務長は自然だった。どこにも継ぎ目がなく、だから一瞬で芝居に入ることが出来た。
カメラの撮り方のことも含め、何度か芝居を繰り返したのち、そのシーンについては終わり、他の役者さんによる別の場面のリハーサルが始まった。短時間で役柄として存在できる、蟹江さんの瞬発力、スピードを思い返しながら、おチビちゃんは部屋の片隅に立っていた。実際の撮影は明日。メイクをして衣装を着ることで、今日よりも良い結果が出せるだろうか。また痛みそうなお腹を気にしながら、目の前で行われるリハーサル、テレビドラマが作られる過程をじっと見つめている。
「では少し遅れましたが、一旦休憩に入りまーす」
若い男性スタッフの元気な声を合図に、室内に充満していた熱気が微かにほぐれ、人々がゆっくりと動き出す。もう十二時を過ぎていた。心なしか時間が経つのが早い。お昼ご飯はどうしようかな、と考えながら部屋を出ようとしたおチビちゃんに後ろから声がかかる。
「ちょっといいかな?」
振り返るとそこにいたのは、ドラマの主役である野々村院長役の宇津井健さんだった。
「はい」
「あの、さっきのシーンなんだけどね、悪いけどちょっと来てもらえるかな」
はい、という返事は少し上ずっていたかもしれない。おチビちゃんはお腹に左手を添えながら、宇津井さんの後をついて行った。
(第30回 了)
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