女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
特に意識している訳ではないけれど、たいてい朝は同じくらいの時間に目が覚める。高校生までの自分を思うと、やはりこの習慣は四季に入ってから身に付いたものだ。いつもなら上体を起こして十数秒ぼんやりしてから、ヨイショと勢いをつけて起き上がるのだけれど、ここ最近は上体を起こした後、またすぐに元の体勢に戻って身体を縮こめている。稽古場に行かない、ということに慣れていないからか、おチビちゃんは布団の中でどこか居心地悪く、二度寝すればいいものをいつまでも中途半端に起きている。
もちろんまったく稽古場に行かない訳ではなく、今後のスケジュールに関しての報告や簡単な打ち合わせがあれば呼び出しがかかる。ただ懐かしいのは行きの道のりだけで、いざ建物の中に入ってしまうとそれはそれで所在ない。稽古をする訳でもダメ取りをする訳でもないおチビちゃんは、自分を持て余しながらマネージャー代わりの社長が待つ部屋のドアをノックする。
映放部の社長のMさんとは、今まであまり接点がなく、会話を交わすのも今回がほぼ初めて。正直なところ不安はあるけれど、経験がないという意味ではお互い様かもしれない。プロデューサーである武敬子さんとの初顔合わせは、社長から伝えられた初めての予定だった。
武さんはTBSテレビ専属のテレビドラマ制作会社「テレパック」に所属していて、「三男三女婿一匹」や「晴れのち晴れ」といった人気のホームドラマを手掛けてきた。ちなみに彼女はこの数年後、最高視聴率三十パーセント以上という人気ドラマ「男女七人夏物語」を世に送り出す。
五十歳を迎えたばかりの武さんは、年齢を感じさせないほど情熱的で、とても優しかった。はじめまして、の挨拶が終わると身を乗り出して語りかけてくる。
「あの時ね、舞台に立ってるあなたを見て思ったのよ。まずいことになったなって」
そんな独特の言い回しだったが、高く評価してくれていることはストレートに伝わってきた。四季でやってきたことは間違っていなかったんだ、と思わず頬が緩みそうになる。
自分が出演するドラマについても、具体的な状況を教えてもらえた。実はキャストやスケジュールなどの諸々は、ある程度決定しているということ、そして、あと二名の新人さんと一緒にそこへ加わるような形になるということ――。
色々決まりかけていたところに、是非参加してほしい女優さんを発見してしまった。そういう意味で「まずいことになった」のかな、と頷きながら理解する。熱のこもった言葉は受け取るだけでも大変だ。力が要る。
実はこの初めての顔合わせにマネージャー代わりの社長は帯同せず、おチビちゃんはたった一人っきりで指定された事務所を訪ねていた。
「本当に舞台を観た瞬間、あなたにぴったりの役があると思ってね、これはもう玄洋先生に紹介しなきゃなって」
こんな言葉をかけられても、あまり緊張しなかったのは、もう出演することが決まっていたからかもしれない。これが普通のオーディションだったら、案外あたふたと落ち着きがなかったような気もする。
ちなみに「玄洋先生」とは脚本家の高橋玄洋さんのこと。彼はこれまでにNHKでも民放でも高視聴率のドラマを生み出していて、同年代の武さんとはコンビを組むことも多い。
この初めての顔合わせでは、武さんの熱気に触れたことだけが印象深く、気付けば時間が過ぎていたという印象だった。次回の打ち合わせが決まったのは数日後。今度は武さんだけではなく、玄洋先生やその他の役者さんも参加するという。
ようやく新しい世界の時計が動き始めた。そんな実感がある。まだ台本も渡されていないのに、おチビちゃんの頭の中には演技のアイデアが少しずつ積み重なっていた。
二度目の打ち合わせが行われたのは数日後、また一人で現場を訪れた。こっちよ、と手を振る武さんに頭を下げ、小走りに駆け寄ると、そこには高橋玄洋先生が座っていた。思い返すと不思議だが、顔もまだ知らなかったはずなのに、なぜかこの人が脚本家の玄洋先生だと疑うことなく信じ込んでいた。それほど先生の佇まいが、物書き然としていたのだと思う。
当日おチビちゃん以外に呼ばれていたのは、山形弁を操るユニークなキャラクターでテレビのみならず、「トラック野郎」、「男はつらいよ」と人気映画にも出演していた女優のあき竹城さんと、数多くの素人参加番組に出演して賞金稼ぎをしていた、当時まだ短大生の山田邦子さん。彼女はこのドラマが芸能界デビューとなる「新人」の一人だった。
ただここ数年舞台で忙しく、なかなかゆっくりテレビも見られなかったおチビちゃんは、二人のことをまったく知らず、それよりテレビの世界で活躍する玄洋先生の振る舞いに興味津々。緊張をしていないという自覚はあったが、あの日のことをあまり思い出せないのは、その辺りに理由があるのかもしれない。
途中、玄洋先生は自分達へ質問をした。
「君はどういうことが一番嫌いかな?」
柔和な顔つきのまま、一人一人にそう尋ねていく。漠然とし過ぎているというか、どういう風に捉えればいいのか難しい質問だ。ただ、あきさんの答えだけはよく覚えている。
「誤解です」
彼女は一言、そう答えた。では自分は何と答えたか、というと残念ながら思い出せない。案外この日も「オーディションではないから」という理由でリラックスしていたのかもしれないし、無意識の領域にはやはり今まで四季で培ったものへの誇り、そして安心感があったのかもしれない。
実際に撮影が始まってから受けた取材の中には、「新人トリオ」のひとりとして紹介されたものが幾つかある。他の二人は山田邦子さんと、速水陽子さんという夏にデビューを控えた歌手の方。芥川賞作家でもある版画家の池田満寿夫氏が名付け親ということでも話題になっていた。
確かに全員「このドラマがテレビ初出演」という共通点はあるものの、自分にだけは舞台の上でのキャリアがある。だからといって、もちろん気持ちに余裕めいたものなどなかったが、数日後にかかってきた武さんからの電話で、おチビちゃんは衝撃の真実を知ることになる。あれはそろそろ夕食の支度を始める時間帯だった。
「ちょっと、あなた、すごいわよ!」
興奮を隠しきれない武さんの声に、思わず背筋が伸びる。はい、と返事をするのが精一杯だ。
「あなたの役、いい役で書いて下さるって!」
「え?」
「だから、玄洋先生があなたの役をね、書いて下さるって仰ってるのよ! すごいわよ!」
ありがとうございます、と返事をしながら、おチビちゃんは頭の中を整理しようと頑張った。ということは、今まで私の役は決まってなかった、というかそもそも存在しなかったってこと? だったらこの間の打ち合わせっていうのは――。
「ねえ、本当に良かった。嬉しいわあ! これから頑張りましょうね!」
もしかしたらあの日はオーディションみたいなものだったのかな。そう考えて、密かに胸を撫で下ろす。てっきりドラマへの出演は決定事項なのかと思っていた。いや、出演することは決まっていたけれど、どんな役なのかが決まっていなかったのかしら……。
「君はどういうことが一番嫌いかな?」
あの漠然とした質問にも意味があったことを、武さんの話を聞くと理解できる。どういう人物が演じるのか、という部分を把握したうえで玄洋先生は役を考えている。つまり、おチビちゃんが演じることを想定したうえで書いているのだ。
「近いうちに台本が届くから、楽しみに待ってましょうね」
ありがとうございます、と告げると「本当に良かったわ」と武さんは嬉しそうに笑っていた。
おチビちゃんが念願の台本を手にしたのは、それから数日後のことだった。とにかく無心になって文字を追い、そこに描かれている風景を思い浮かべながら読み進めた。
「野々村病院物語」は、吉祥寺に開業したばかりの病院を舞台とした、そこで働く人々やその家族の人間模様や、命と向き合う場所ならではの出来事を描いたドラマ。その後脈々と続く医療ドラマのルーツとも呼べる作品だ。
第一話の台本を読んでいる途中から、おチビちゃんは何度も「おお」と声を漏らしていた。無論内容の面白さもさることながら、自分の出番の多さに驚いていたのだ。
演じるのは「川原早苗」という十八歳の看護学生。まだ見習いだからと制服は身に着けず、エプロンと三角巾がトレードマーク。仕事ぶりは非常に熱心、という役どころ。これだけだと、大勢いる登場人物のひとりという感じだが、記念すべき第一回放送では病院の概要を紹介した後、その「川原早苗」が吉祥寺に到着するシーンとなる。
開業したばかりの病院と、看護学生の少女。この両者の動きの連動、即ち成長が全二十六回のドラマを繋ぐひとつの線として今後描かれていく。つまり「川原早苗」は、予想以上に重要な役どころだったのだ。
よし、とまずは喜んだ。プロデューサーである武さん、そして脚本家である玄洋先生から期待をされているからこそ、これだけ出番が多いのだろう。ここまで育ててくれた四季、そして浅利先生には本当に感謝しかない。ただ同時にプレッシャーも湧き上がってくる。何といっても、テレビドラマの撮影自体が初めての経験だ。カメラの前に立ち、お茶の間に向けて行う演技が、舞台上のそれとは異なることくらい簡単に予想がつく。
当然テレビ用のレッスンなんて受けたことはないし、そういうものがあるかどうかも知らない。ただ台本を読めば、自分が演じる「川原早苗」の表情や動作は浮かぶので、それをこの身体と心を使って表現すればいいはず……。そんな確認を繰り返すうちに、とうとう撮影のスケジュールが伝えられた。
分かりやすく違うのは「順番」だ。今まで経験を積んできた舞台の上とは違い、物語の流れどおりに演技をする訳ではない。例えば病室での撮影があれば、病室が出てくるシーンをまとめて撮るし、次に廊下での撮影があれば、廊下のシーンを全て撮ってしまう。物語の流れと撮影の順番は当然違うもの、という感覚は未知のものだ。
また最終的には物語の流れになるよう編集をするので、「つながり」というものがとても大事になってくる。撮影した日が違うからといって、服の色や髪の長さが違ったりしてはいけないのだ。舞台の上で早着替えをやっていた頃が妙に懐かしい。
おチビちゃんが一番最初に撮影するのは、夏目雅子さんと二人で歩くシーンだった。スタジオの中ではなく、外でのロケとなる。ロケ地は吉祥寺の近くだが、まず集合するのは赤坂にあるTBSのスタジオ。そこで衣装やメイクを整えてからロケバスに乗って現場へ行く、という流れだ。撮影を終えたら、またバスで次のロケ地に向かうし、全て撮り終えていたらTBSのスタジオに戻り、衣装を脱いでメイクを落として家に帰る。
もちろん撮影が始まる時間帯も日によってバラバラだが、初日に撮影するのは朝のシーンなので、おチビちゃんはいつもとあまり変わらない時間に目を覚ました。ここ最近のパターンとは違い、上体を起こしたら再び横になることはない。ヨイショと勢いをつけて起き上がった。さあ、今日から撮影だ!
台本以外は特に持つものもなく、ひとりで電車に乗って赤坂へ向かった。メイクはプロの方にやってもらえるし、衣装も役柄に合ったものが選ばれている。お弁当だってちゃんと用意されているらしい。劇団の稽古場へ行く時とは何から何まで違う。
地下鉄の窓ガラスに映る自分の顔を見ながら、大事な初日、うまくいけばいいな、と考えていた。今日はきっと初めてのことばかりだ。一緒のシーンを撮る夏目雅子さんのことは、さすがに知っていた。カネボウ化粧品のキャンペーンガールとしてコマーシャルで注目を集め、ドラマ「西遊記」の三蔵法師役などで人気者となった女優さんだ。どんな人なんだろう、と思いを巡らすうちに地下鉄は赤坂に到着。おチビちゃんは少しだけ緊張した面持ちでスタジオへ入っていった。
まずはメイク室に入る。男性のメイクさんに「おはようございます」と挨拶をすると、「じゃあ、そこに座ってくれる?」と鏡の前に通された。当然だが、どの人にどんなメイクを施せばいいかは分かっている。
「テレビ、初めてなんでしょう?」
「はい」
「緊張することないからね。大丈夫、大丈夫、なんてことはないんだから」
鏡越しに和ませてくれたのは有難かったけど、正直なところ緊張はあまりしていなかった。実はこれから撮影するシーンには台詞がなく、そのため気持ちはずいぶん楽だったのだ。
ある程度メイクが終わった頃、入口の方で「あ!」という声がした。思わず顔を向けると、そこにいたのは夏目雅子さん。
「早苗ちゃん!」
一瞬人違いかと思ったがそうではない。私が演じるのは看護学生の「川原早苗」だ。夏目さんは荷物を置くと、「はじめましてえ」と笑顔で駆け寄ってきてくれた。
「噂、聞いてたのよ。私よりおねえさんで嬉しいわ!」
「あ、はい、はじめまして」
「うん、よろしくね!」
そのスターらしからぬ明るく気さくな感じに、おチビちゃんも一気に打ち解けた。
「あの、今日初めてなんで、色々よろしくお願いします」
「大丈夫、私、ずっとついててあげる」
そんな言葉だけでもずいぶん心強いのに、夏目さんは本当にその言葉どおりにしてくれる人だった。
(第29回 了)
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