月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第三幕(後編)
月曜日。
生徒たちは、まるで何事もなかったようにやってきた。
来るまいと思っていた陽平までも口を一文字に結び、だが存外に穏やかな目つきで入ってくる。
小学六年生。たぶん陽平は、むしろ今日だけは休むわけにいかなかったのだ。
由梨に続き、開いた玄関から彼が現れた。
あのジャケットにジーンズ。
何だか夢でも見ているようだ。
やはり当直明けらしいが、その赤く充血した目を直視できなかった。
あれからちょうど一週間が経っていた。もう来る頃と、ここ数日、夕刻になると落ち着かなかった。わたしの格好は緩い丸襟のニットにロングスカート。ミセスふうにすぎたろうか。
「美希は公園よ」
本当はここにいてもらいたかったが、何気なさそうに言った。
「金曜は夜になっても戻ってこなくてね。来てもらって助かったわ」
命ぜられるまま、彼は公園に向かった。
名残り惜しい反面、少なからずほっとした。教室の間中、彼の視線に晒されては、まともに振る舞う自信がない。先週の一件で、子供たちも普段よりナーバスになっているだろう。
生徒たちが帰った六時半過ぎ、美希は彼に連れられて戻ってきた。
「あなたは、夕飯は?」
「今夜は、夾子さんがいますから」
わたしはそのとき、さぞ落胆した表情をしていたに違いあるまい。
「あのう、美希ちゃんを任せっきりで、申し訳なく思ってます」
わたしは彼の目をやっと見返した。
抱き合って、キスして、申し訳ない、か。
「もっと頻繁に顔を見せないと、美希ちゃんも僕に慣れてくれない、とわかっているんですが。病院でトラブルがあって」
もっと頻繁に。
わたしが会いたがっている、と思われるのはたまらなかった。無視するように二階に上がり、ダイニングに二人分の皿を並べた。
階下のリビングで、彼は教室に使った椅子を片づけていた。
公園で遊び疲れたのか、美希は階段に坐り込んでいる。支度ができた、と呼んでも、食卓に向かおうとしない。
「では、帰ります」と彼が声を掛けた。
わたしが階段を降りていっても、美希は微動だにせず、リビングを見下ろしていた。その視線が一瞬、刺さるようだった。
もしや、何か気づかれたのでは。
わたしはごく冷淡に笑みを浮かべ、玄関へ向かった。
と、ドアを開けた途端、彼はわたしの首に腕を回した。
肝を冷やして振り返ると、玄関ホールの壁で、階段からの視線はぎりぎり遮られている。ドアの外では夜道の往来も途絶えていた。
好きです、と彼は耳元で囁いた。
「先日、言い忘れたから」
この瞬間を互いに待っていたのだ、たぶん。
中学生じみた狡猾さ。それと相反するような、しないような、はにかんだ眼差し。
それは翌日も、わたしの脳裏を去らなかった。
だが次の一週間は、再び何の音沙汰もなかった。
月曜の夕方、クラスが終わる時刻になっても彼は現れなかった。夾子に電話で催促もできず、わたしはじりじりして待っていた。
「いつも何をして遊んでるの?」
公園で独りで遊んできた美希を捕まえ、彼の代わりに問いただした。
ブランコ、とおかっぱ頭の美希は答える。
「先週、お兄ちゃんが一緒のときもなの?」
「お兄ちゃんって?」
何も思い出せないかのように、美希は遠い目をした。
なんて嫌な子だろう。
が、一方、わたしと彼の間のやりとりに勘づいた様子もなかった。
禁断症状は、どうやら一週間ほどらしかった。
それを過ぎると、頭の芯が痺れるような物思いからは回復した。実際、美希との日々の摩擦が激化し、それどころではなくなってきた。
おっかなびっくり、わたしのやり方を窺っていたらしい美希が抗戦に打って出たのだ。人の対策に慣れた、カラスやゴキブリのように。
まずは食器。それから居間の調度品を壊した。
わたしは貴重品と原稿を一階の納戸に運び込み、鍵をかけた。壊された品については、夾子と好女子宛ての請求書をごく平然と見せた。
すると美希は物を壊すのをやめ、騒音を出しはじめた。窓から隣家へ向けて怒鳴り、ステレオをがんがんかける。
そうなると、やはり外へ連れ出すしかなかった。
公園まで引きずるように引っ張ってゆく途上、美希は商店街の歩道に坐り込み、ショーウィンドウの巨大なアザラシを指さした。
「あれ買って」
「わたしはね、あんたのママじゃないのよ!」
大声を張り上げてやると、人目を気にしてきょときょとする。
そういうところは、やはり好女子の娘だ、と可笑しかった。
が、もはや限界は近づいてきた。
三週間目に入った雨降りの休日、わたしは美希を連れ、図書館へ出かけた。本を選んでいたわたしを、館員が走って呼びに来た。
児童館で美希が、手当たり次第に書棚を引き倒し、床に絵本を敷き詰めているということだった。
「どうして? 三週間の約束でしょ」
まだ引き取る体制ができてないと言う夾子に、わたしは容赦なく言い募った。
「だいたい、美希の世話をしに来るっていうから引き受けたのに。うちは保育所じゃないのよ」
「ごめん。ちょっと病院が大変で」
受話器の向うの夾子の声は疲れていたが、それに構う余裕はなかった。
「救急指定病院が大変なのは、なにも今、始まったことじゃないでしょ」
ごめん、と夾子はまた掠れた声で呟く。
「病人を看るのは、少なくともあんたたちの本職よ。こっちはねえ、締切り過ぎた原稿を抱えてるんだから」
無論、原稿が遅れているのは美希のせいばかりではない。が、言い出した以上、言い張るしかなかった。
「姉さん、お願い。本当に今だけだから。医療ミスがあったって、騒ぎになってて」
「ああ。老健施設から検査入院させた年寄りが急死した、って件ね」
「そうよ、どうして知ってるの?」
「地獄耳だからよ!」
怒鳴りつけたのは、苛立ちと同時に、自分が苛立っていることそのものの馬鹿らしさからだった。
「もう噂になってるんだね」夾子は息を吐いた。
「わたしも忠くんも、その日、当直だったもんだから。院内の調査に駆り出されて」
彼も、調査に。
情けないことに、わたしの気分は急に治まった。
結局のところ、彼が来ない理由がわからず、不安だったらしい。
恋にとち狂った少年が、夾子にすべてを話した、ならばよい。
わたしのためなら世界を敵に回さんという無邪気な覚悟が、何かの弾みで萎えたのでは、と想像して、いても立ってもいられなかったのだ。
「楡木子姉さん、あと少しだけ待って。状況が落ち着いたら、必ず」
わたしは受話器を握り直した。
これではいけない。
とち狂っているのは、こっちの方だ。
「悪いけど、空手形は信じないわ。熊本に連れて帰ってあげる」
努めてまともな口調で、わたしはそう言っていた。
タクシーは菊水町に入った。
故郷の見覚えのある山の懐に抱かれると、やはり心が安まる。
今、さっきまでの自分の剣幕が、何やら滑稽にも思えてきた。が、わたしがしたのは、至極真っ当なことのはずだ。
美希の荷物は宅急便で送り、その手を引いて羽田から搭乗したのは、今朝十時半の便だった。
熊本空港に到着すると、梁木産婦人科へとまっすぐ向かった。いかんせん、好女子との押し問答は真っ平だった。
外来の受付で美希の父親を呼び出し、「子供は、こしらえた人が責任持つべきでしょ」と切り口上に言い放った。
「不適応を起こすのは土地の水のせいじゃない。親が無責任だからよ」
院長の亮吉は、腹を突き出した妊婦たちの視線を浴び、心外な表情を取り繕うばかりだった。
亮吉の白衣の腕に美希を押しつけ、玄関を出ると気分は高揚していた。
あとから好女子は、さぞかし怒るだろう。
ほんなこつ、楡木子姉さんときたら、と目に浮かぶようだ。
その通り。わたしはわたしだ。
好女子がちっとも利口にならないのと同じように。
タクシーの窓越しに鬱蒼とした緑を眺めるうち、まったく姉さんたら、と夾子のぼやきも聞こえてくる。
まさか、ほんとに返しちゃうなんて。
ほんとにやらなくてどうするの、とわたしは反論を呟いた。
月子がよく言う、あやにくな性格のわたしだ。直前まで自分でも思いもよらなかった決断をする。
それは事実だが、わたしは直感に従っただけだ。後悔するほどのことなど、めったに起きはしない。実際、この爽快感はどうだ。美希に振り回され、いかにストレスを感じていたか、という証ではないか。
それと彼に、と考えかけてやめた。
そもそも美希にとっても、これが最も常識的な為され方のはずだ。
丘の麓でタクシーを降りた。
遺跡公園の木立の佇まいも小川の流れも、少しも変わってなかった。
実家に来るのは二年ぶりだ。空港のホテルに泊まるつもりが、急に気が変ったのだ。
弁当と飲み物の袋を下げ、小高い集落へ向かう道を辿る。だいぶ前に、自治体が裏の山を切り開き、公園の拡大に着手するという話を聞いた。こんな鄙もいずれは観光地化されるのか。
医院だった平屋の診察室は、十年前、父が亡くなってから物置同然だった。その正面玄関のガラス戸はもう開きづらくなっている。
勝手口の鍵は、その頃も今も、常に財布の底に入っていた。
母が消えた後、ここへ誰かが戻った痕跡を求め、研修で離島にいた夾子と交替で、飛行機で何度も往復した。
それぞれの生活のため、もう母のことは思い出さないようにするしかない、と諦めがつくのに半年はかかったろうか。
がらんとした台所、廊下の床にはうっすらと埃が積もっている。
水道も電気もいまだ通っているが、空き家は早く傷むというのは本当だ。母は孫の世話をしに横浜へ、という言い訳が今も近所で通っていると思っているのは、おそらく好女子だけだろう。
かつて自室として使っていた東向きの六畳に入ると、軽く埃を払い、雑巾をかけた。湿った布団を運び、陽が落ちるまでのわずかな間、縁側に干す。
ぽんぽん狸のお山にねえ。
布団を叩きながら、母の鼻歌がふと蘇った。
それはその日の朝、美希が機中で唄い出したものだった。
やってきたスチュワーデスは美希の年齢を測りかね、戸惑ったあげくに幼稚園児向けの玩具を手渡した。
美希はおとなしくしていたが、離陸した瞬間、「あたし、お祖母ちゃんのいるところ知ってる」とわめき出した。
そこ、と機窓の外を指さした。
ぎょっとして見たが、無論、主翼の端が覗いているだけだ。
美希は中年女のように目を細め、薄ら笑いを浮かべていた。
「お祖母ちゃん、東京で買い物するのが大好きでしょ」
母が、東京に出てきている。
それも、あり得ないことではない。
「ぽんぽん狸の裏山にい、婆ちゃんはころころ転がってえ」
ヒステリックに唄いはじめた美希に、通路を挟んだ乗客が舌打ちした。
霊魂でも見たかのようなそれは、美希のわたしへの最後の抵抗、嫌がらせに違いなかった。
しかし、もし仮に。
母がいなくなった当初に繰り返し、意味がないとわかっている自問が浮かぶ。
自分がもし横浜でなく、この実家で暮らし続けていたら。
北九州のわたしの母校の講師だった文彦が、横浜の私大に呼ばれたのは、わたしたちが結婚し、父が亡くなった二年後だった。文彦の実家は世田谷で、選択の余地はなかった。
月子はとうに東京に出ていたが、夾子はまだ母と同居しており、好女子の嫁入り先もここに近かった。
夾子が医大生となり、母はもはや自分は自由だと思ったのだろうか。
人の口の煩い田舎で、後妻として四人の娘を育て、夫を亡くし、若い男と逃げたとしても闇雲に責められるだろうか。
さて。夜の湿気がこないうち、布団を取り込まなくては。
そう思って立ち上がったまま、わたしは隣りの八畳に向かった。
箪笥の引出しを開けると、ビロードを貼った小箱がある。
母はやはりまだ、一度も家へ戻っていない。
これがその証拠だった。
トパーズの指輪は高価ではないが、母が来たなら必ず持ってゆくはずだ。
それはわたしが、文彦とともに横浜へ移るときに贈ったものだ。
応接間の金庫にあった宝飾類、現金はたいてい母に持ち出され、なくなっていた服も母自身が気に入っていたものばかりだった。
しっかり戸締まりもされており、自分の意志で家を出たに違いないと、警察は断定した。
ならばなぜ、これを忘れていったのか。
指輪を渡したときの、母の嬉しそうな顔。
横浜の方角、南の八畳の箪笥に仕舞っておく、と言っていたのに。
それとも。
不覚にも涙が出そうになる。
やはり、月子とわたしは娘ではないのか。
しかし、それならばあのとき、いなくなる直前、母がわたしに寄こした電話は何だったのだろう。
できれば、ちょっとこっちへ帰ってきてもらえるといいんだけど。
今思えば、その声はおろおろと頼りなげだった。ちょうど外出する間際で、何を大げさな、と相手にしなかった。
どうせまた、好女子が馬鹿な真似でもしでかしたのだろう。
今夜遅く、こちらからかけ直すと応えた。
だがそれ以降、母が電話に出ることはなかった。
もしあのとき、母の話を聞いていたら。
激しい後悔の念とともに、母の言いたかったことをあらんかぎり考えたものの、多少なりとも現実感があるのは、指輪を置いていく言い訳ばかりだった。
好女子なら、まずは美希の世話を放り出すことの申し開きだろう、と言うに違いない。誰も彼も、自分を中心に物事を考える。その点はわたしも好女子も大差ないかもしれない。
もとの自室に敷いた布団はやはり湿気が抜けきらず、よくは眠れなかった。
翌朝は曇り空だった。
裏山の頂からは、微かに薄陽が射していた。
その日は英語劇教室があり、昼過ぎには横浜に帰り着きたかった。
早い便に乗ろうと勝手口を出たとき、思い出したものがあった。
自室の六畳へ戻って押入を開けた。下の段からプラスチックの物入れを引きずり出す。
学生の頃に書いた原稿が入っていた。機会があったら読み返したいと思っていた。
ちょうどいいタイミングだ。美希も片づき、脚本執筆に本腰を入れられる。しばらく手を休めていたので、別の視点が見つかるかもしれない。
そう。観客を説得するのは、女主人公の過去だ。
過去。過去の原稿。
物入れの蓋を開けると、紐で縛り上げた紙の束が六つほど入っている。
気恥ずかしくなるような代物に違いないが、きっと何かのヒントに繋がるだろう。
見当をつけて紐をほどいていった。
が、記憶に相違して時期ごとに整理されてない。全部を抱えてゆくには重すぎ、必要なものを抜き出すのには時間が押していた。
物入れを畳に出したまま、とりあえず紙束を蓋に載せた状態にしておいた。誰かに頼んで、横浜へ送ってもらうことにしよう。
もちろん好女子は論外だが、と腕時計を見ながら腰を上げた。
(第06回 第三幕 後編 了)
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