月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第四幕(前編)
「それで、具合はどうなの?」
「湿布を取り替えながら、どうにか勤務しています」
受話器を通した彼の声を聞いたのは初めてだ。一段低くなったビブラートが際立っていた。
昨日、夾子は原付バイクで転び、手首を傷めたという。
「右なの、左なの?」
左です、と彼は答えた。
「仕事はともかく、家での雑事に支障があって」
とはいえ、わたしに家事を頼みたい、ということでもないだろう。そもそも電話ぐらい、自分でできるはずだ。
「大通りで左折のトラックに巻き込まれそうになったんですが、本人もぼんやりしていたと。たぶん睡眠不足で」
「相手の保険会社に言わされてるんじゃないでしょうね?」
わたしは話に集中し、平静と距離感を保とうとしていた。
「ええ、でも」彼は言いよどんだ。
あなたが好きです。あの囁きがふいに蘇る。
「事故の前日、日帰りで熊本へ行ったので。当直明けだったのに」
「なんでまた、そんなこと」と、言いかけて黙った。
受話器の向うで甲高い美希の声が聞こえた。
美希は玄関先で、彼の手を勢いよく振りほどいた。
「まるで自分の家だな」
階段を駆け上がるのを見とどけ、真田は息を吐く。
「怪我が治るまで、よ」と、わたしは念を押した。
夾子の手首の捻挫は全治二週間だという。
熊本へ戻したその日のうちに美希から電話があり、夾子を迎えに来させたらしい。
「まったく、もう。せっかく親元に連れて帰ったのに」
あの子はよほど好女子のそばが嫌なのか。だとしたところで、小学生の姪の言うなりになる夾子は、あまりに不甲斐ない。交通事故の遠因は、徹夜明けで熊本との間を往復したことかもしれないが、わたしのせいにされるのは御免だった。
「申し訳ありません」
頭を下げた彼の眼差しは、いつになく憤りを含んでいた。わたしが美希を熊本へ返し、彼と会う口実を自ら潰したのが心外らしい。
わたしはそれを無視した。リビングのテーブルのグラスを取り、飲みかけの赤ワインを啜る。
まともな人間に立ち返ったのだ、わたしは。美希もまた美希だ。誰かと誰かを繋ぐための存在ではない。
「あのう、美希ちゃんは、」
そんなわたしの態度に、ついに彼は不安げに声をかけてきた。
「芝居が好きなんじゃないでしょうか」
「あら、そうなの」
わたしは彼に背中を向け、グラスを飲み干した。
一種、妙な達成感があった。だが臆面もなく、彼はその背にすり寄ってくる。
「それできっと、この家へ戻るのが嬉しいんです」
僕だって毎日でも来たい、と、なだめるように囁いた。
「病院の方が、ごたついてさえなければ」
後ろからわたしの掌を取り、一本ずつ指を撫でる。
わたしは手を引っ込めた。
「熊本に帰したのは、約束の期限が来たからよ」
引っこめた手に導かれたふりをして、彼はわたしの肩を抱いた。
「仕事の合間に論文を読んでたんです。芝居の」
「何ですって、論文?」
飲み過ぎたせいか、頬がかっと火照った。グラスに四杯目。
「演劇効果による高齢者痴呆の実践ケア」
そう囁き、わたしの耳に顔を擦りつける。
髭剃り跡が濃くなったようだ。顎が締まり、背も少し高くなったのではないか。手編みのセーターの上から胸に触れられると、意志に反し、先端が敏感に反応してしまう。
「国立療養所でアルツハイマー、コルサコフ型老年痴呆のリクレーションに金色夜叉の劇を取り入れた、というものです」
セーターの胸に顔を埋め、彼の声は低くこもっていた。
「徘徊を低減させた例がシンポジウムで発表されて。高齢者の感性が過剰に鋭敏になった場合、ある種の虚構の世界に住むことになる」
研究熱心ね、と応じたつもりが、吐息を抑えきれなかった。
「そういう患者さんの無口は、記憶や判断の間違いを馬鹿にされる怖れからかもしれない。看護者が調子を合わせ、演じることも必要です」
が、そんな言葉はすでに耳に入っていなかった。いつの間にか彼の頭を抱え、絨毯に坐り込んでいた。髪を撫でられながら、少年の目は陶然と、絶望と欲望が混ざり合った輝きを帯びていた。当然の権利のようにアンゴラセーターの下に手を差し入れる。下着を付けてない乳房を掌で包み、幼児のように頬ずりする。
「演劇の教育効果、に似ているから、」
途切れがちに、彼はまだ言っている。
もう、いい、とそんなことは払いのけたかった。
「あなたが、雑誌で話していた。でも本当はただ、会えない間も、あなたのことを考えていたかった」
白い膨らみを吸い、激しく舌を使う。思わず喘ぎ、贅肉のない若い背を抱きしめた。美味しいの? と尋ねる。わたしはただの酔っぱらいだ。
乳首を口に含んだまま、彼は何度も首を縦に振った。
と、そのとき上で物音がした。
彼ははっと顔を上げ、セーターの下から手を抜いた。素早く身繕いして、玄関に向かう。
わたしはその場に坐り込んだまま、一瞬だけ振り返った彼を見送った。
二階の部屋から、美希は出てこなかった。
しばらく様子を窺って、わたしはゆっくりと立った。
ねえ、と声をかけながら階段を上ってゆく。
火中の栗。
うんざりしつつも、やってみないわけにはいかなかった。
水曜日のクラスで、わたしは部屋から美希を呼び出し、休んだ子の代役を務めさせた。
驚いたことに、美希は瞬時に英文を覚えた。短い台詞とはいえ、流れるようにしゃべる。赤ちゃん言葉を使い、日本語も怪しいような普段とは別人だった。
十一歳。ぴったり歳相応か、それ以上に見えた。教えもしない身振りもするが、月曜のクラスの沙也香よりも自然で、嫌味がなかった。
その晩、美希は言われる前に、空いた食器を台所へ運んだ。
金曜日。
休みの生徒はいなかった。わたしは急遽、小間使いの役を増やした。
発音のチェックをする美希は、仕事に打ち込むかのように大人びていた。安堵して、自分自身から解き放たれている。
「ねえ、伯母ちゃん」
学校のない土曜日、珍しく美希の方から話しかけてきた。
「二階の窓から見てたけど、誰もポストに近づかなかったよ」
数日前、訪ねてきた町内会の役員に、ポストに石が詰められていた、とこぼしていたのを漏れ聞いたらしかった。
我が家のポストの惨状を、最初に知らせてくれたのは郵便配達人だった。
「ときどきあるんですよ。接着剤が流し込まれてなくてよかったですね」と、慰めともつかないことを言った。
それよりひどかったのは、庭の鉢植えがすべて割られ、自転車がパンクさせられていた事態だ。
ちょうど熊本に美希を置いて戻った翌朝のことだった。これでは美希の破壊行為の方がまだましだ、人が抱えるトラブルの量は決まっているのか、とわたしは世をはかなんだ。
「で、ずっと見張ってたの?」
「ううん、午前中だけ」と、美希は首を横に振った。
「伯母ちゃんが、下で原稿書いてる間」
もう気にしなくていいから、とわたしは言った。
ただ、いつも自分の内側だけを覗き込んでいるような娘から、他人の問題に関わる言葉を聞いたことに、いくばくかの感動を覚えていた。
日曜の晩まで、美希はずっと大人しかった。算数のドリルも二ページ進めた。
だが月曜の朝になり、チックの症状が出た。貧乏揺すりをし、やたら髪を掻き上げる。その手が震え、引きつった嗚咽を漏らす。赤ちゃん言葉のリズムに合わせるように、落ち着かなげに目を逸らしている。
学校には行けなかったし、真田が来なければ、独りで公園にやることもできない。
それでも月曜日のクラスには参加させられないのだ。
本人もわかっているはずだった。が、頭ではなく、身体が飢えたように演じたがっている。
夕方の五時を過ぎた。今日も彼は姿を見せないらしい。
クラスが始まる直前、わたしは覚悟を決めた。
俺さまアーネストこと陽平が、今日だけは現れませんように。
台本を手にした美希に、入ってきた女の子たちは一瞬、目混ぜし合った。こんなときにかぎって、陽平もまた遅刻せずにやってきた。
親に言いつけるだろうか。
だが陽平は、嫌な記憶から目を背けるように、階段に腰掛けた美希の存在を無視し続けていた。
あんな我の強い男の子は、親には細々と告げ口しないものだと、わずかな経験を頼みにするしかない。
「ええと。お芝居の構成上、役を一つ増やしました」
今日も休みの生徒はおらず、小間使いの役を持ち出すことになった。
「人が足りないので、とりあえず彼女に入ってもらいます」
それぞれの手持ちの台本に、美希の台詞を新しく書き込ませた。
台詞合わせが始まると、女の子たちはわざと飲み込めないふりをした。美希の台詞の順番を飛ばし、その流れを止めるタイミングを与えない。
と、次の箇所にさしかかる直前、美希は階段で立ち上がると、いきなり駆け下りてきた。
「Don‘t.Don‘t leave me」
皆が驚き、振り返った隙に、強引に芝居に割り込んだ。
女主人にすがりつくトルコ人小間使いの台詞としては、それは意外な効果を上げた。
中三の敏彦が美希の顔をまじまじと見た。その敏彦の台詞に、今度は沙也香が被せ、意識した発音で長台詞をまくしたてる。
続く由梨も引きずられ、ただの練習の場に緊張が走った。
意地の張り合いが反目となる寸前だった。
「おい、」
突然、陽平が苛立った濁声で怒鳴った。
びくっと沙也香が肩を震わせた。それは彼女が、再び美希の順番を飛ばそうとしたときだった。
陽平は沙也香を睨みつけると、美希の方を向き、顎で促した。
唖然とした美希の顔は、おかっぱ頭の幼い表情に戻っていた。が、すぐに小間使いと化し、ギリシャへ帰らないで、と掻き口説く。
発音こそ沙也香に敵わないものの、情感込めた嘆きの抑揚がさえずるように響く間、全員が台本に視線を落とすふりをして、陽平の横顔を窺っていた。
(第07回 第四幕 前編 了)
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