女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
昭和五十五年の十二月から翌五十六年の一月にかけ、劇団四季はかつて経験のない課題に直面していた。期待の新人女優が退団届を提出しただけでなく、もう既にテレビ業界から出演を希望する声があがっているという。この事態に対して、どのように対応するべきなのか――。
問題は単純ではなかった。前年には看板俳優だった鹿賀丈史が二十九歳で退団している。それが大きな話題となった事もあり、再び「退団」という事態はどうしても避けたかった。若手を育てられない劇団、というイメージはあまりにも不名誉だ。
確かに「退団をした俳優は、その後一年ほど大きな仕事をしない」という不文律は存在する。でも新幹線が東京―博多間を六時間四十分で駆け抜けるこの時代、一年なんてあっという間に過ぎるだろう。それにマスコミの連中が、いつ嗅ぎつけて派手に焚きつけるかも分からない。
では全てを望み通りの形にして送り出せるか、というとそれも難しい。今まで劇団を支えてきた人々の手前、安易な特例を作ると思わぬところから不満が噴出する可能性もある。
様々なバランスを考えた結果、劇団四季としての一つの方向性は何とか決定した。それを本人に伝えるのは、もちろん浅利先生しかいない。
一方、渦中の人物であるおチビちゃんは、少々退屈な日々を過ごしていた。というのも、四季の関係者が軒並み顔を揃える毎年恒例の「納め会」で、劇団から離れるということが正式に発表され、とりあえず一段落したからだ。
あの日は色々な人から声をかけられた。「守ってあげられなくてごめんね」と目を潤ませる先輩もいたし、今後のことを親身に考えてくれるスタッフの方もいた。ありがたいなあ、と思う。でも、だからといって戻りたいという気持ちにはならない。前進あるのみ、と思ってはいるけれど今の立場は宙ぶらりんだ。あの魅力的なドラマの話を四季が、つまり浅利先生がどう受け止めるのか。その結果が出ないうちは動きようがない。
当然、参宮橋の稽古場に通う理由もなくなった。毎日稽古やダメ取りがないと、こんなに時間がゆっくり流れるのね――。日に何度かは、そんなことに感心したりもする。
実は少し前に驚いたことがあった。年末の十二月三十、三十一日の二日間にNHKで放送された『むかしむかしゾウがきた』の舞台について、だ。元々誰かと一緒に観るつもりはなかったので、その日は実家に戻らなかった。かと言って、ひとりこの部屋で観ていた訳でもない。忘れていた、というと嘘になるし、観る気がなかった、というのとも違う。どっちでもよかった、なんて言ったら怒られるかもしれないけど、ちょっと近い。きっといつかは観るんだろうから、別に今観なくてもいい。そんな感じだ。自分が舞台の上に立ち、たくさんのお客さんの前で「おミヨ」を演じていたことが、何だか昔のことに思える。
電話でおばあちゃんに教えてもらいながら何とか書き上げたあの退団届に、自分の想いが反映されているとは思わない。あれはただの形式だ。でもその形式を実際に行ってみたことは、心や気持ちに予想以上の影響を与えていると思う。
先日、年末に放映された自分の演技をビデオで観てみた。当たり前だが、舞台の上で演じている時に自分の姿は確認できない。だから画面に映る自分の顔、あの部分を油性マジックでちょちょっと隠したその姿が、まるで自分と似ている女優さんみたいに思えた。それでも観続けているうちに、少しずつ身体が台詞やダンスを思い出していく。ようやく懐かしさが芽生え始めた頃、おチビちゃんは突然そのことに気が付いた。――あれ、お芝居、元に戻っちゃってるな……。
あの日、大人役の声が高すぎる、不自然だと訴えた気持ちに偽りはない。その指摘に納得をしたからこそ、浅利先生だって「劇団四季は、このままだと間違った方向へ行くところだったんだ」とみんなに語りかけたはずだ。でも、画面の中で繰り広げられる自分たちの芝居は、見事に元に戻っていて、そのことにおチビちゃんは驚いた。
画面の中の「おミヨ」や他の登場人物を観ながら、段々と記憶が戻ってくる。確かに稽古を始めた当初は、みんなとても気をつけて、もっと落ち着いたトーンで声を出していた。それが少しずつ元の形に戻り始めたのはいつ頃だろう? 旅公演の時期にはかなり戻っていたような気もする。だけど、あんなにおかしいと思っていたその形は、テレビで観ている限りそんなに悪くはなかったし、「間違った方向」へ進んでもいなかった。そのことがただただ不思議だった。
みんなを巻き込んでしまっただけでなく反抗期も重なって、あちこちに遠慮なくぶつかっていった挙句、結局元々のお芝居に戻っていたなんて!
恥ずかしくて顔から火が出る……感じではない。他人事みたいだけど「だからお芝居って面白いのよねえ」と思えた。ここ最近稽古場の空気には触れていないけど、おチビちゃんは間違いなく女優として逞しく成長を続けている。
ある日の夕方に浅利先生から直接連絡が来た。
「もしもし、あの、俺だけど……」
「はい」
「ええと、あけましておめでとう、だよな?」
先生の言うとおりだ。年末の「納め会」以来、一度も顔を合わせていなかった。そしてこの電話はきっと、自分の今後を話すためのものだ。そこまで理解しているのに、おチビちゃんのスイッチは切り替わらない。ずっとぼんやりしたままだ。
「まあ、何ていうか、色々と話さなきゃいけないこともあるからな。近いうち、こっちに来れるか?」
はい、と答え、日取りを決めて、電話を切るまでの間、ぼんやりが治ることはなく、どこか上の空のままだった。それでもおチビちゃんがその状態を受けて入れているのは、理由に大きな心当たりがあるからだ。実は昼にお母さんから連絡があって、おばあちゃんが入院することを知ってしまった。ついこの間会ったばかりだし、別に具合が悪い感じもなかったし、それどころか退団届を出した私のことを心配してくれていたし……と、信じたくない気持ちがぐるぐると回っていた。
気持ちも身体と同じで、激しく動けば疲れてくる。だから先生と電話で話している時も、どこかぼんやりしたままだったのだ。その証拠に夜が来て、少し気持ちの疲れが収まってくると、おチビちゃんの内側にじんわりと広がる想いがあった。おばあちゃんと話すのが好きな先生に、さっき伝えておくべきだったかしら?
話し合いをする当日、いや、その前の晩からおチビちゃんはそこはかとなく緊張していた。変な夢を見たのもそのせいだと思う。別に大した内容ではない。自分が参宮橋の稽古場に行く、ただそれだけの夢。それを何回か見た気がする。でもそのおかげで実際に稽古場を訪れた時、感傷的になったりはしなかった。ここまで来たら前進あるのみだ。
電話があってから今日までの数日、おチビちゃんは最悪のパターンが何かを考えていた。すぐに浮かんだのは、あの魅力的なドラマの話がなくなってしまうこと。あの話がなくなったら本当に目の前が真っ暗になってしまう。でも、本当にそれが最悪なんだろうか? それよりも悪いことは存在しないんだろうか? そんな風に粘って考えてみた。もしかしたらそれは、おばあちゃんのことがあったからかもしれない。
その結果分かった、というか思い出したことがある。別に私、ドラマの話があったから退団届を出した訳じゃない――。
そう、まずは少し休んで心機一転、そこからまたお芝居ができる場所を探してみよう。そんな気持ちだったはずだ。ドラマの話がなくなったら最悪、ではない。ドラマに出られたらラッキー。そう考えたら気持ちがずいぶん軽くなった。
「テレビ局の方から話があるそうだ」
先生はそう言い終えてから、おチビちゃんと視線を合わせた。え、と目の動きだけで驚いてみせる。危うく忘れるところだった。ドラマの話、私は知らないことになってるのよね。
「なあ、ドラマらしいんだよ、連続ドラマ」
椅子に座っている先生の姿勢、そして口調が一気にリラックスした。おチビちゃんがドラマの話を知らなかったことに安堵したのかもしれない。
「どう思う? まあでも、こういうドラマっていうのはちょっとなあ?」
はあ、とおチビちゃんは軽く目を閉じ、細く長く息を吐いた。台詞、ではなく言葉は最小限でいい。ここはまだ、先生の話をじっと聞く場面だ。
「今ね、キャスティングを決めているらしいんだけど、何でもプロデューサーが『この生命~』を観ていたらしいんだよ。で、あの看護婦の子が新鮮で良かったから、是非欲しいって言ってるらしいんだ。な? 是非って」
嬉しそうに先生が笑うから、思わずつられてしまった。慌てて咳払いをしてごまかす。ここで嬉しい顔をしてはダメだ。
「そのドラマっていうのも、同じ看護婦の役らしいんだけどさ。でもこんなの、やる気あるかい?」
「……ちょっと、やってみたいです」
このタイミングで本音を言って大丈夫かと一瞬迷ったが、思い切って真正面からぶつけてみる。すると先生が「あのね……」と身を乗り出した。
「やってみたいなら、四季を退団という形はマズいんだよ。というのもね……」
おチビちゃんは、先生が話す「退団後一年は、大きな仕事をしない」という暗黙のルールを聞きながら、密かに胸を撫で下ろしていた。最悪のパターンについて色々と考えておいて良かった、やっぱりドラマの話は無理だったんだ、危なく目の前が真っ暗になるところだった――。
「……だから、うちの放映部に所属する形なら、別に問題はないんだよ。どうかな?」
「?」
気付けば先生の話は、想定外の方向へと進んでいた。え? 問題はない? 何で?
「あの……、それ、どういうことでしょうか?」
おチビちゃんの言葉に呆れた顔を見せながらも、先生はもう一度説明してくれた。
「だから、映放部に所属するなら退団しなくて済むだろ? 退団しないっていうのは、つまりどういうことだっけ?」
「一年間、休まなくていい……」
「そう! だから今回のテレビの仕事も、大手を振ってできるじゃないか」
本来なら立ち上がって「ありがとうございます!」と頭を下げるところだったが、おチビちゃんは怪訝な顔で「いいんでしょうか?」と恐る恐る尋ねるだけだった。もちろん浅利先生の言葉を疑っている訳ではない。ただそれくらい「若手が映放部に所属して、テレビで俳優業を行う」というアイデアは突飛なものだ。
これまで映放部が手掛けてきた仕事といえば、姿を見せる俳優業よりも、映画の吹き替えやテレビのナレーターなど声の仕事がメインで、そもそも規模が大きかったわけでもない。
そして担当するのは藤野節子さんや影万里江さん、当時四十代後半の日下武史さんや水島弘さん、また三十代後半の浜畑賢吉さんといったキャリアのある人がほとんどで、若手では三十歳を迎えたばかりの市村正親さんが唯一、という現状だった。つまり、二十二歳のおチビちゃんがテレビドラマに出演する、となれば異例中の異例となる。おチビちゃんが思わず「いいんでしょうか?」と尋ねたことはとても自然で、それこそが劇団四季が熟考の末に出した解決策だったのだ。
この超法規的措置によって、おチビちゃんが四季の映放部に所属し、テレビドラマの仕事を始めることは確実となった。浅利先生自らが説明してくれたことだし、正真正銘の一件落着だ。ただひとつ、微かに気になってしまうのはあの退団届の行方。四季に残ることで必要がなくなってしまったアレ、実は影さんが預かっていた。その事実をおチビちゃん自身が耳にするのは意外と早く、浅利先生と話し合った数日後になる。
その日は影さんから呼び出されて、喫茶店で話をしていた。もちろん話題は、四季から発令された超法規的措置のことだ。おチビちゃんとしては、ドラマの仕事もできるようになって嬉しい反面、予想以上に話が大きくなってしまった戸惑いや申し訳なさもある。そんな胸の内を影さんに聞いてもらっているうち、不意に打ち明けられたのだ。
「そうそう、あの退団届ね、私が預かってるから」
「え、そうなんですか?」
実はね、と話してくれたのは、超法規的措置が決定するまでの四季内での葛藤や摩擦で、当事者のおチビちゃんとしては身が引き締まるどころか、胃が痛くなりそうな話の連続だった。
「でもね、私は自分もテレビの仕事をやらせてもらっているし、もっと外の世界を見せなきゃダメよ、って言ってたの」
「え、そうなんですか?」
「そりゃそうよ。世界は広いんだから、もしチャンスがあるなら経験するべきよ。だからね、私言ったの」
「?」
「その退団届は私が責任持って預かるから、あの子を映放部の所属にすればって」
それを聞いたおチビちゃんは深々と頭を下げ、「ありがとうございます」と感謝の気持ちを伝えた。少し声が大きかったので、「ちょっとやめてよ、恥ずかしい」と笑っていた影さんだったが、ふと真顔になってこう切り出した。
「でね、ちょっと話があるのよ」
(第27回 了)
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