女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
そこそこ大きなハゲが出来たことも、それを恋人に指摘されたこともショックだった。でもどこかで「そりゃそうだよねえ」とおチビちゃんは納得している。
前から疲労やストレスが溜まると、すぐ湿疹や蕁麻疹が出てしまうし、その度にお母さんやおばあちゃんに相談もしていた。きっとこれも同じだわ、と頭に出来てしまった少し大きな空き地を指でなぞる。研究所へ入った当初に叩き込まれた、「役者は体力勝負」という事実が今更のように響いていた。
でもねえ、と隣でよく寝ているダビデさんを起こさないようにそっと寝返りを打つ。くよくよ考えたって無駄無駄。出来ちゃったモノは仕方ない。まずは病院に行かなきゃねえ、いつだったら時間が取れるかしら……。
頭の中で今後の公演のスケジュールを考えようとしてから数分、おチビちゃんはすやすやと寝息を立てていた。劇団四季の門を叩いて早や五年。身体はなかなか丈夫にならないが、それを補って余りあるほど心は逞しく育っているようだ。
この円形脱毛症の一件で、おチビちゃんは三つ驚く経験をした。ひとつは診療で訪れた皮膚科で打たれた注射の大きさ。しかもそれを頭皮に直接打つなんて! ただ不幸中の幸いだったのは、その見た目を裏切らないだけの効果があったこと。二度目の注射の後、症状は段々と改善していった。
次に驚いたのは、そのお医者様の言葉。
「こういう症状が出るというのはね、もちろん心の状態が反映された結果なんだけれども、それはね、少し時間がかかるものなんですよ」
まるで小さい子どもに語りかける時の調子だった。自然とおチビちゃんの気持ちもゆるゆるとほぐれ、素直に耳を傾けられるようになる。
「そうだなあ、一、二ヶ月前くらいに、何か大変なことはありませんでしたか?」
あ、と思わず口を開けたのが、二つ目の驚きの瞬間。その仕草をお医者様は見逃さず、「そうですか」と心中を察してくれた。ええまあ、と照れ笑いを浮かべながらおチビちゃんは少し感心していた。やっぱり身体って正直なんだわ。その辺りの時期は反抗期の導入部。心当たりは嫌というほどある。
ふーん、と密かに納得する様子をどう捉えたのか、「大丈夫、そんなに時間はかかりませんからね」とお医者様は優しく微笑んでくれた。
三つ目の驚きは、浅利先生に報告しに行った時のこと。やはり一番気にかかるのは、年末十二月三十日、三十一日、と二日間連続で NHKで放映される舞台の収録だ。
普段の公演ならば、お客さんの目は前方にしかないけれど、テレビの収録はカメラの向こうにもお客さんが大勢、それこそ数え切れないほどいる。そして当然台数も多い。きっと私の、いや「おミヨ」の姿は客席側からだけではなく、様々な角度から撮られることになるはず……。
舞台に立つ人間として視覚的効果、平たく言えば「見た目」の大切さ、そして残酷さは痛いほど分かっている。どう考えても、おミヨがハゲているのはマズい――。
そう思ったからこそ、反抗期中だけれども直接浅利先生のもとを訪れたのだ。それなのに先生は、慌てもせず笑いもせず驚きもせず「そうか」と言っただけ。見事な肩透かしにバランスが崩れそうになるのを堪える。
「そうだなあ。黒の油性マジックでさ、その部分をちょちょっと塗っといて」
はい、と返事をしてそそくさとその場から立ち去る。あまりにも自然すぎて言い返す言葉もなかった。そんなもんかな、と思う。もしかしたら先生は、こんな役者を今までたくさん見てきたのかもしれない。
「そっか、油性マジックか」
口に出すと気持ちが軽くなった。
「ちょちょっとって……」
事もなげな口調を真似すると、思わず笑っちゃいそうだ。軽くなった足取りで歩きながら思う。次の旅公演までに、部屋を少し片付けておこうかな。そういえばこの間、東京に戻ってきてからは一度もティッシュを撒き散らしていない。おチビちゃん本人も気付かないくらいにゆっくりと、色々なバランスが戻り始めていた。
最終公演は昭和五十五年十月十六日、実家がある神奈川県の横浜で行われ、おばあちゃんも観に来てくれた。
素直に嬉しかったし、最後だという妙な気負いもなく演じ切れたと思う。例の年末にNHKで放映される公演も油性マジックでちょちょっと乗り切れたし、読み合わせの時以来の反抗期が嘘のように爽やかな心持ちだ。一皮剥けた、とはこんな感じかもね。そう思いながら、おチビちゃんは何日か前に提出した「退団届」の下書きをもう一度読み返した。
電話でおばあちゃんに教わりながら書いたので、おかしなところはないと思うけど、堅苦しい言葉遣いの羅列を目で追っていると、まるで他人事のような不思議な気持ちになる。
最初はおばあちゃんも、そしてお母さんも驚いていたけれど、案外すぐに納得してくれた。あれはもしかしたらハゲのおかげかもしれない。もし私が逆の立場だったら、「そんなにストレスがあるなら、さっさとやめちゃいなさい」と叱りつけているはずだ。ただひとり、お父様はまだ納得していないみたいだけど、こればかりは仕方ない……わよね。
決してお芝居をすることが嫌いになった訳ではない。むしろ前よりも好きになった気がする。ただ四季以外の場所で演じてみたいというだけ。自分の中ではとっても簡単な話だ。
ただし四季にとってはちっとも簡単な話ではない。もし辞めた場合は、一年間、他の舞台には出演できない決まりがあるという噂も聞いた。本当かなあ、と思う。退団届を出しに行った時、浅利先生に訊けばよかったけれど、さすがに面と向かってでは無理だった。ちょっと前まではあんなに威勢よく辞める気満々だったのに、今の気持ちは正反対。出来るだけ波風を立てることなく、穏やかに辞めていきたい。
また先日、長く闘病を続けていた舞台美術の金森馨さんがお亡くなりになった。享年四十七歳。本当に若すぎると思う。まだ『この生命誰のもの』の稽古に入る前、浅利先生から頼まれて何度か「愉気法」を施したことがあるからか、まるで身内の誰かが亡くなったような衝撃があった。
お亡くなりになった夜、おチビちゃんは浅利先生から電話でそのことを知らされ、参宮橋にある金森さんの自宅へ同行した。退団届を提出した後だったけれど、そんなことなど忘れてしまっていたのだろう、先生は同じ歳の盟友のそばに座り、ただただ憔悴しきっていた。二人きりにさせてあげたいと思い、「私はそろそろ……」と腰を上げた瞬間のことが、今も左胸あたりにしっかりと突き刺さっている。
「帰らないでくれ」
先生は小さな声で確かにそう言った。そして中腰のまま戸惑うおチビちゃんに、「そばにいてくれないか」と重ねて頼んだ。はい、とだけ答えて再び座り直し、それからずいぶん長いこと御遺体の傍らにいた。
今日この瞬間も、先生は相変わらず忙しくしているはずだけど、きっとまだ悲しみも孤独も癒えてはいないと思う。まだ正式に受理されていないとはいえ、退団届を提出したおチビちゃんは稽古場に行く必要がない。だから余計に色々と考えてしまう。
そんな日々の中、あまり親しくない四季のスタッフから一本の連絡が入る。『むかしむかしゾウがきた』の最終日からひと月半が過ぎた、そろそろ十一月も終わる頃だった。四季には昔から「映画放送部」、通称・映放部というテレビや映画の仕事を中心に取り扱うセクションがあり、彼は最近その部署へ異動になったと聞いたことがある。挨拶もそこそこに切り出された本題は、あまりにも突然で、そして十分に魅力的な話だった、
「実はこの間さ、ちょっとしたパーティーに顔を出してきたんだけど、結構テレビの人たちが来てたんだよね」
「テレビの人?」
「うん、テレビ局の人間ね。そこでちょっと興味深い話が出たから、一応お伝えしようかなと」
「あ、はい。ありがとうございます……」
「あの、その前にひとつ確認なんだけど……」
「はい」
「退団届はもう出したんだよね?」
もう、もったいぶらずに早く教えて、という言葉をグッと呑み込み「はい、先月出しました」と答える。こういう時に焦ってはいけない。
「了解了解。実はその時にさ、TBSのプロデューサーから君のことを聞かれたんだ」
「え? 私?」
「そうそう」
「え? どうして? え?」
驚きのあまり前のめりになってしまったが、落ち着いて彼の話を整理するとこうなる。色々な経験をした舞台『この生命誰のもの』で、見習い看護師のケイ・サドラーを演じたおチビちゃんを、是非自局のドラマに出演させたいと、TBSのプロデューサーが言っていた――。
「こんな話、どう? 興味あるかな」
「あ、舞台を観て下さったんですね」
「そう。あのお芝居がとても新鮮で良かったって」
思わず顔がにやけてしまう。苦しい思いもしたけれど、真面目に舞台と向き合っていたのは間違いじゃなかったんだ。観てくれた人には、ちゃんと伝わっていたんだ。おチビちゃんは何よりもそのことが嬉しい。
「あの、どんな役かは分かりますか?」
「ああ、その出演してほしいというドラマで?」
「そうです」
「多分だけど、看護婦役じゃないかなあ。だからイメージしやすかったんだと思うよ」
それもやはり女優冥利に尽きる。嬉しさのあまり、ケイ・サドラーの台詞が浮かんできたほどだ。それだけではない。共演シーンの多かった雑役夫のジョンや、藤野先生が演じた病棟婦長のシスター・アンダーソンの台詞も鮮やかに思い出せる。
「もう一度聞くけど、どう? 興味はあるかな?」
はい、という一言に可能な限りの熱意を込めてみる。大丈夫、私は女優だ。きっと伝わる。元々この世界に入る前からテレビっ子で、正直なところ憧れもある。
NHKのいわゆる「朝ドラ」や夜の時間帯の「銀河テレビ小説」シリーズはよく見ていたし、中学生の頃にハマっていたのは時代劇の『天下御免』だった。民放の番組なら、名プロデューサー・石井ふく子の『ただいま11人』や『ありがとう』が大好きで、しかもこの二作はどちらもTBS。正直なところワクワクしていたし、もしかしたらフワフワしていたかもしれない。
また、一方別に思い描いていたこともある。それは家族や親族、友人たちの存在だ。
確かに舞台の上で演じることは面白い。今の自分のすべてだと胸を張って言える。ただひとつだけ残念なことがあるとすれば、それは観てもらう機会がなかなか無いということだ。会場の場所が遠かったり、そもそも予定が合わなかったり、観たいという気持ちがあったとしても叶わない理由は意外と世間に溢れている。満足のいく演技をする度、万雷の拍手を浴びる度、みんなにも観てほしかったなあと、おチビちゃんはどこかで思ってしまう。
「いやあ、興味持ってくれたなら良かったよ。じゃあ、先方に伝えておこうかな」
「ありがとうございます。でも……」
「うん、分かってる分かってる。勝手に話、進めるのはマズいよねえ。じゃあ、浅利先生にはそれとなく伝えてみるから、何か言われたら、知らない感じで聞いてくれる?」
分かりました、と答えてはみたものの、不安がないといえば嘘になる。先生は大丈夫なのかな。金森さんに先立たれた悲しみが、ほんの少しだけでも癒えていればいいのだけど――。
「これ、タイミングばっちりっていうか、本当に良い話だと思うから、先生には慎重に伝えておくよ。ほら、鹿賀さんと滝田さん、この間辞めたばかりだろ?」
確かに少し前、人気のあった滝田栄さんと鹿賀丈史さんが四季を退団した。そういうことまで関係してくるのか、と憂鬱になる。
「それでなくてもさ、伸びてきた新人さんが退団して映像に行っちゃうっていうのは、劇団としてマイナスのイメージなんだよね。四季は育てるのが下手、みたいに思う人もいるし」
理屈はよく分かる。反論をする気もない。ただこういう話を聞くと、やはり新しい世界でお芝居をしたいという気持ちが大きくなっていく。
「でも、あんまり気にしなくていいと思う。この話、本当にチャンスだと思うからさ」
そんな彼の言葉に、おチビちゃんは「ありがとうございます」と受話器を持ちながら頭を下げた。
(第26回 了)
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