女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
はい、と視線を合わせて数秒、真顔はいつの間にか悪戯っぽい微笑に変わっていた。改めて魅力的な人だと思う。影さんのテレビの仕事で印象的なものといえば、やはり三年前に主演を務めた連続ドラマ、有吉佐和子原作の「悪女について」。謎の死を遂げた魔性の女、という役は彼女にぴったりだった。
「あのさ、テレビの前に一度舞台に立ってみない?」
「え?」
「私と一緒にやらない? ね?」
この時期、すでに稽古がスタートしていた影さん主演の次回作は、これが日本国内初演となる『ちいさき神の、作りし子ら』。聴覚障害を抱えた人物が登場するため、手話が取り入れられた興味深い作品だ。
「もうややこしい話はなくなったんだからさ、一緒にやってみない?」
不思議だな、と思いながらおチビちゃんは影さんの話を聞いていた。あれほど四季の舞台に立つのが嫌だった、いや、今だって嫌なはずなのに、こうして誘ってもらえると心が揺れてしまう。観客の前で演じている時の、あの緊張感や心地よさを思い出すのに時間は要らなかった。うーん、と悩みながらも心の奥底は影さんの誘いにざわついている。
「とりあえず、考えさせて下さい」
そう答えたおチビちゃんに、影さんは「もちろんよ」と優しく笑いかけた。舞台をやるかやらないかを「決断する」のは初めての経験だ。今まではひとつの公演が終わると、もう次の作品が待っていて、そこに決断は必要なかった。これからはこうして「決断する」ことを繰り返すのかしら? それ以前に、次の作品って必ずあるものなのかしら?
帰り際、コートを羽織りながら影さんが言う。
「そういえば、ちっとも来てくれないじゃない」
「?」
「私の家よ。前に言ったでしょ? 色々と新しくしたから見に来てって」
そうだ、家の改装をしてウォーク何とかっていう、大きな収納スペースを作ったって言っていたんだ。最近慌ただしくて、うっかり忘れていた。
「地図、書いてあげたでしょ? ちゃんと持ってる?」
「はい、持ってます。近いうち、お邪魔します」
その前に舞台の件よ、と微笑んで影さんは歩き出す。その後ろ姿を見ながら、相談するならあの人しかいないとおチビちゃんは考えていた。
何とか「あの人」と連絡が取れたのは次の日の夜。今週末なら会える、と言われたけれど時間に余裕はない。影さんは今も返事を待ってくれている。だから無理を言って、すぐに来てもらうことにした。
一時間後にチャイムを鳴らしたのはダビデさん。怪訝な表情を隠そうともせず、玄関で靴を脱ぎながら「何があったの?」と尋ねてくる。
「とりあえず座って。今コーヒーでも淹れるから」
あれほど何もなかった部屋に、少しずつだけれど物が揃っていた。そのことに感心しながらも、まだダビデさんの顔の真ん中には大きなクエスチョンマークが浮かび上がっている。
「本当にごめんね、変な時間に呼び出したりして」
「それはいいんだけど。で、何?」
まあまあ、と落ち着かせながら、昨日影さんと会ったこと、そして次の舞台に誘われたことを話す。うんうん、と聞いているダビデさんだったが、その眉間には皺が寄っていた。
「で? その先輩から誘われた舞台の話をどう思ってるってこと?」
「だから不思議なんだけど、嫌じゃなかったのよね」
「……」
「何、どうしたの?」
「……そういう考え方なのか?」
「え?」
「だから、君はそんな考え方をしているのか?」
ダビデさんの声が尖っている。でも表情は怒っている訳ではなく、痛みに耐えているように辛そうだ。
「そうやって目の前に美味しそうなニンジンをぶら下げられると、深く考えようともせずフラフラとそっちの方へ行ってしまうのか?」
「いや、あの……」
「君が本当にやりたいことって何なんだよ!」
「……」
「そんな風に引き止められて、何だか分からないまま四季に残り続ける。そういう女優になりたいのか?」
ダビデさんの声、そして言葉の強さで、頭の中のもやもやが晴れていく。そっか、私、元々は四季を辞めて、しばらくのんびり過ごすつもりだったんだ――。
「……そうだよね」
しばらくの沈黙の後、ポツリとおチビちゃんが呟いた。すると、ゆるゆるとダビデさんの表情が柔らかく解けていき、ようやく目の前のコーヒーにそっと口をつける。
「……四季なんだけど、四季じゃない」彼の言葉に思わず顔を上げる。「今、君はそんな状態なんだろう?」
「うん、そうかも」
「それってさ、結構面白いと思うよ。だからこそちゃんと前を見ないと」
ハーイ分かりましたあ、とおどけて答えながら、ふと気付く。これでもう浅利先生とお会いすることは滅多になくなっちゃうんだな……。
映放部所属になったおチビちゃんは、浅利先生の隣でダメ取りをすることもないし、もちろんダメを出されることもない。映放部の部屋は社長室の向かいにあるので、何か用があればあの馴染み深い参宮橋の稽古場には立ち寄れる。でも用がなければ行くことはないし、そもそも用ってどんな用があるんだろう?
今のおチビちゃんには分からないことが多すぎる。こんな時、少し前までは浅利先生に尋ねれば、しっかりと手応えのある答えが返ってきたはずなのに。
そんなおチビちゃんが、次に先生と会ったのは意外に早かった。本当に数日後。でもそれは決して喜んだり、安堵したりすることのないシチュエーションだった。入院していたおばあちゃんが、天国へと旅立ってしまったのだ。
あまりに突然過ぎて、自宅で報せを受けたおチビちゃんは「えっ」と一言発したきり絶句してしまった。数日前、お見舞いに行った時は、普通に話も出来ていたし、テレビのドラマに出ることをあんなに喜んでくれていたのに……。小さい頃からついこの間までのたくさんの思い出が、頭の中で混ぜこぜになって身体が重くなる。思わず座り込んだその姿勢のまま、おチビちゃんはゆっくりと再び受話器を手に取った。とにかく浅利先生にはお伝えしないと。そんな願いが届いたのか、いつもはなかなか捕まらない先生に案外早く繋がった。どうした? という懐かしい声に今聞いたばかりの訃報を伝える。
「……そうか。大丈夫か?」
はい、というおチビちゃんの声は、どう聞いても大丈夫ではなかったが、先生はダメを出すことなく見逃してくれた。
「気を落とさないようにね。いいかい?」
そんな優しい言葉に、「ありがとうございます」と頭を下げながら電話を切る。すぐに伝えられたことにも驚いたが、更に驚くべきことがまだあった。
当時は斎場を使わずに自宅で執り行う家も多く、おばあちゃんの場合も神奈川の実家から出棺することになっていた。
前日の夜から帰っていたおチビちゃんが、まず驚いたのは祭壇に飾られた供花。一際大きいものが二基備えられていて、向かって右側に「浅利慶太」、左側に「劇団四季」と名前が書いてあった。自分が伝えたせいで気を遣わせてしまったかもしれないと胸が締め付けられる。それでなくても去年から、お父様、越路先生、金森さん、と先生には身を削られるような悲しいお別れが続いているのに――。
次に驚いたのは葬儀当日。活動的で交友関係が広いおばあちゃんらしく、大勢の人に参列して頂いたが、その人々の中に浅利先生の姿があった。
「え? 先生、どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたも、お別れをしに来たんだよ」
その気持ちだけでも嬉しかったのに、棺を霊柩車へ乗せる際は、親族と一緒になって足側を持ってくれた。ただ「ありがとうございます」と頭を下げながら隣に並ぶと、「ダメ、ダメ、ダメ」と顔をしかめる。
「え?」
「君はこっちじゃなくて向こうだろ」
「?」
「だから前の方、頭の方へ行きなさい」
「いや、でも……」
「君は前に行かなきゃダメだ!」
慌てて場所を変わりながら、「久しぶりにダメを出されたなあ」と場違いな懐かしさをおチビちゃんは感じていた。
次に浅利先生と会う機会は予想以上に早くやって来た。しかしそれもまた手放しでは喜べないシチュエーションで、おチビちゃんにはその辺りの記憶がところどころ消えている。
おばあちゃんの葬儀から一ヶ月も経たない、昭和五十六年二月二十八日のことだった。五日後に主演作『ちいさき神の、作りし子ら』の開演を控えた影万里江さんが、天国へと旅立ってしまった。最後に話したのはダビデさんに相談をした次の日で、誘って頂いた舞台には出ないという自分の気持ちを告げると、「分かったわ」とすんなり受け入れてくれた。
「あなたの退団届は私が預かってるんだからね。戻りたくなったら、いつでも言ってちょうだい」
そんな有難い言葉に背筋が伸びたのも束の間、影さんは入院することになった。病名は脳腫瘍。以前から訴えていた体調不良の原因はそれだったのか、と旅公演の記憶が蘇る。夜中にホテルの部屋に呼び出されて、マッサージを施していたあの時期、すでに病気は進行していたのだろうか――。
数日経ち、ようやく「入院した」という現実を受け入れ始めた頃、四季の関係者より影さんが亡くなったという連絡が入る。あまりにも早いし、あまりにもむごい。そして、その辺りから記憶の抜け方がひどくなる。
もう葬儀の段取りは決まっていた。出棺するのは五反田付近にある影さんのマンション。おチビちゃんは出先の横須賀から直行することに決めた。ただ当日、時間に間に合うように予定を立てたはずなのに、動揺していたり、慣れない場所だったりで、なかなか思うように事は運んでくれず、気付けばもう式が始まっている時間になっていた。
以前影さんから書いてもらったあの地図を頼りに、最寄りの駅からとりあえず走る。ようやく辿り着くと、今まさに棺の蓋を閉じようとしているところだった。背伸びをしながらきょろきょろしていると、すぐに聞き慣れた声がかかる。
「ちょっと何やってたの! 待ってたのよ!」
「こっちよ、こっち!」
そう手招きをしてくれたのは藤野節子さんなど四季の先輩方で、もちろん浅利先生もいた。慌てて駆け寄ると「ほら、ちゃんと顔を見てあげるのよ!」と手を引かれ、棺の中で目を閉じて横たわる影さんに会うことができた。とても綺麗な顔だった。まるでそういう演技をしているような見慣れた顔に、一瞬亡くなったという現実を受け止めきれなくなる。でも一分も経たないうちに棺の蓋は閉められ、彼女は霊柩車へと運ばれてしまった。
促されるままに乗り込んだ車は、火葬場へと向かって走り出す。おチビちゃんはシートにもたれたまま、自分が劇団から離れてからの数ヶ月間、なかなか掴むことの出来なかった想い――決してもう後戻りすることはないんだろうな、という決意がじんわりと全身に広がっていくのを感じていた。
気付けばもう三月、旅立ちの季節になっていた。
その後間もなく、おチビちゃんが出演するテレビドラマの具体的な内容が、徐々にではあるが伝わってきた。
時間帯は毎週火曜日の夜九時からで、第一回の放送は五月十二日。以前にも聞いたように、やはり病院を舞台とした話になるらしい。気になる共演者は、宇津井健さん、山岡久乃さん、津川雅彦さんを筆頭に、夏目雅子さん、関口宏さん、梶芽衣子さん、とそうそうたる顔ぶれが揃っていて、人気番組となる予感に溢れている。
期待と共にプレッシャーも抱えたおチビちゃんに、程なく最初の打ち合わせの予定が入ってきた。当日は、『この生命誰のもの』を観て抜擢してくれたプロデューサーの方も同席するという。緊張はするけれど、それ以上に楽しみだ。
今、おチビちゃんの小さな身体には、新しい世界へ一歩踏み出すドキドキが溢れんばかりに詰まっている。
(第28回 了)
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