女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
振り返ればこの二ヶ月ほどの練習期間中、おチビちゃんに対する浅利先生の勘違いが修正されることはなかった。
真摯に演技を追求し続けた結果、誰も疑問を持たなかった台詞の発声に疑問を持ち、勇気を振り絞って告発に臨んだ劇団四季の若き救世主――。まあ、そこまで仰々しく思っていたかどうかは分からないけれど、少なくとも先生は、おチビちゃんの自暴自棄な態度を額面通りに受け止めたりはしなかった。一途に苦悩した挙句の直訴と捉え、その声に耳を傾けてくれた。いや、傾けてしまった。平たく言えば、ボタンの掛け違い。そしてそのズレが修正されることはおろか、気付かれることもないまま、ただ時間だけが過ぎてしまった。
その間、何とか辞めさせられる方向にならないかと、山田卓先生の振り付けのレッスンを始め、様々な機会で素直に従わなかった「反抗期」のおチビちゃんだったが、それが思うような効果をあげたことは一度としてなかった。
暖簾に腕押しというか、糠に釘というか、ぎゅっと込めた力が空回りするような日々の中、一緒に舞台を作っていく仲間たちは今までと変わらず接してくれていた。自分が取った振る舞いの影響が多少なりともあるはずなのに、ありがたいなと心の底から思う。ただ「反抗期」真っ只中の身としては、それもなかなか居心地がよろしくない。
「ねえねえ、みんなでご飯食べてから帰ろうと思うんだけど、一緒に行かない?」
稽古が終わって帰り支度をしている時、そんな風に声をかけてもらえるのは本当にありがたい。ありがたいけれど、やはりそういう気分にはなれないので断るしかない。
「ありがとう。でもごめん、今日はやめとくね」
困惑気味の笑顔でそう答える度に、有難さと申し訳なさが混ざり合う。
もちろん約束や予定があるわけではないので、誘ってくれたみんなの背中を見送った後は、簡単な買い物を済ませながら真っ直ぐ家に帰る。まだ引っ越して間もない1DK。さすがに簡単な食器だけは揃えたものの、部屋全体の様子はあまり変わりなく、ドアを開けると撒き散らしたティッシュがそのまま床を覆い尽くしている日もある。そう、まだ他人には言えないストレス発散は続いていたし、スーパーで買ってきたパンだけで食事を済ます日もあった。少々不健康だが仕方ない。とにかくひとりでいたかったし、その時間は何もしたくなかった。稽古が休みの日は、とにかく楽な体勢で一日中寝転がっていた。
その感覚はダビデさんに対しても変わらない。元々お互いに忙しく、彼の方だって気付けば海外にいるようなタイプなので、長く連絡を取り合わないことは今までもあった。とはいえ、引っ越したことさえ伝えていないのは、さすがに変な感じがする。どことなく背骨の辺りがもぞもぞと落ち着かない。案外お父様から聞いて知っていたりして、と思わなくもないけど、だったらハガキの一枚くらい送ってくれてもいいじゃない――。携帯電話がない時代、会えない時間が長い恋人たちは案外多かったのだ。
文字通り、自宅と稽古場を往復するだけの日々で、それは分かりやすくスイッチのオンとオフ。つまりスイッチを入れるのは稽古の時だけ。ゾウを助けようと奮闘する心優しい女の子・「おミヨ」という役柄に、集中しやすい環境だったことは間違いない。
きっかけは自暴自棄だったとしても、台詞を発するときの声の高さや、大事なシーンの直前におけるアンサンブル参加の拒否など、おチビちゃんが主張したものの先には「自然な演技」がある。
辞めさせられても構わない、いや、むしろ辞めさせてほしい。そんな気持ちで稽古に臨み、遠慮なく自分の要求を打ち出した結果、少なくともおチビちゃん本人には、期間の短さを忘れてしまう程の充実感があった。不自然さやわざとらしさのない無心な演技。それに近付こうとする気持ちに濁りは少なく、その瞬間だけは健康的だった。
思い出すのは、前回の散々だった旅公演の最中、八戸の交流会で出会った地元の市民劇場の人々。彼、彼女たちの純粋さだ。きらきらと眩しかったその輝きに、あの時のおチビちゃんは悩まされてしまったけれど、今は違う。あの純粋さを損なわないまま芝居が出来るかもしれない、という期待が在る。稽古をしている最中、自暴自棄な心とは裏腹に、その期待が身体中に満ち溢れたりもする。
斯くして、ひとりの人間としてのバランスはお世辞にも良いとは言えないが、芝居をするための準備、そしてモチベーションは万全というどこか危なっかしい状態のまま、おチビちゃんは四ヶ月半の長い公演に飛び込んだのだった。
今回の舞台は、前回の『この生命誰のもの』とずいぶん違う。まず「日生名作劇場」なので観客は小学生。良くも悪くも反応はストレートに返ってくるし、稽古で自分の要求を打ち出した分、相応の責任を感じつつも役には集中しやすい。
また期せずして浅利先生だけでなく、多くの人を巻き込むことになった台詞の発声に関しては、どうやら違和感なく子どもたちは受け入れてくれたようだし、例の場面でソロ曲を歌う度、やはりアンサンブルには参加しなくて正解だったと納得できた。そして同世代の共演者が多いせいか、普段の雰囲気は風通しが良いし、何より先輩方の世話をする必要がないから、本番前の貴重な時間を無駄に取られなくて済む!
そんな解放感は、段々と舞台以外の部分にも影響を与え始めていた。特に旅公演に出ると、ホテルの部屋でひとりティッシュを撒き散らす訳にもいかず、否が応でも外界と触れ合う時間が多くなる。いきなり全てが元通りになるわけではないが、それでも旅公演から戻ってきた日に、ダビデさんへ電話をかけるくらいのゆとりは出来ていた。
無論かけるのは家の電話。付け加えるとこの時代は、留守番電話機能も付いていない。恋人たちはすれ違ったり、待ちぼうけたりすることが本当に多かったのだ。
忙しい人だから多分いないだろうな、と思っていたので、突然「もしもし」と聞き慣れた声に触れた瞬間、言葉が出なくなってしまった。
「あれ? もしもーし」
「……もしもし」
「ああ、どうしたの? 声、ちょっと聞こえづらいけど」
まるで昨日も会っていたような彼の驚きの無さに、思わず笑ってしまった。
「ん? どうした? 大丈夫か?」
「うん、ごめん。大丈夫」
不思議というのとはちょっと違う。馬鹿馬鹿しい、の方が近いかもしれない。この部屋でスイッチをオフにして、感心しない方法でストレスを発散していたことを彼はまったく知らない。そう思うと何だか全てが馬鹿馬鹿しくなるし、「で、どうしたの? 何かあった?」というぶっきらぼうな声がとても頼もしい。
「いや、何っていうか、元気?」
「ああ、とりあえずは。え、元気じゃないの?」
「いや、まあまあ元気」
「そっか」
彼が正反対のタイプだったら、と想像しただけでぞっとする。この部屋で二人ともティッシュに埋もれながら、菓子パンを貪っていたかもしれない。
「あ、そういえば引っ越した」
「そうなんだ。どこ?」
「前のところの近く」
「また二人暮らし?」
「ううん、ひとり」
会いたいな、という気持ちが膨れ上がっている。明日、私はお休みだ。この人はきっと忙しいだろうけど、つまらない予定ならキャンセルしてくれないかな。
「明日会える?」
そう訊いたのはおチビちゃん、ではなく彼の方だった。また言葉が出なくなる。
「あ、もしかしたら今、舞台の最中か?」
「うん」
「そっか。どんな舞台?」
あのね、と話しそうになってしまった。明日会えるなら、ここで話すのはもったいない。
「それ、明日話すよ」
「あれ、明日大丈夫なのか?」
笑いながら「うん」と答え、まだ自分も覚えていない新しい住所を教え、「じゃあ明日ね」と電話を切るまで、久しぶりにとても楽しかった。明日もっと楽しいことがあるから、だと思う。本当にそうなのかな。もしそうだとしたら、今から楽しいのは得したような気がする。
もう少し明日のことについて考えてもよかったし、まだ寝るには早すぎる時間だったけど、おチビちゃんは寝転がって目を閉じた。考え始めたら眠れなくなるような気がしたからだ。
五分経ち、十分経ち、ようやくうつらうつらしかけた頃、浮かんできたのは忘れ物をしたような感触。何か彼に教えてほしいことがあったような……。幸か不幸か、そのことを掘り下げる余力はなかったらしく、間もなく物がほとんど置いていない1DKに小さな寝息が漂い始めた。
翌日、いつもよりも早く目が覚めたおチビちゃんは、朝からフル回転で部屋の片付けを始めた。物が少ないので時間はかからなかったが、何だか余白ばかりが目立って落ち着かない。かと言って、今から家具やベッドを揃えるわけにもいかず、妙に落ち着かない心持ちのまま、ダビデさんの来訪を待つことになってしまった。
約束した時間の五分前、ピンポンとチャイムが鳴り、その聞き慣れなさに驚いてしまった。どうやら引っ越してきてから今まで、一度も聞くチャンスがなかったらしい。久しぶりの恋人にまず伝える話としては不向きだが、こればかりはタイミングだから仕方ない。靴を脱ぎながらその話を聞いたダビデさんは、部屋をぐるりと見回してから「本当に何もない部屋だなあ」と大袈裟に驚いてみせた。
だから、という訳ではないが、ランチは外で食べることにした。まだこの家には鍋も包丁もない。ちょっと待っててね、とおチビちゃんは鏡台の前に座ってヘアブラシで髪を整え始める。鏡の端っこには、あくびをしているダビデさんの横顔。楽しいだけではない。幸せだなあ、と思う。話したいことはたくさんあるけど、あの読み合わせの日に始まった、浅利先生のボタンの掛け違いは一番最初に話さないとね……。
――!
ふと昨晩寝る前に思い出せなかったこと、彼に教えてほしいことが閃いた。そうだ、浅利先生……じゃなくて、四季の仕事をするかもしれないって言ってたんだ! こんな重要な話を忘れるほど疲れていたのかと改めて思い知る。あのさあ、と髪を梳かしながら声をかけると、鏡の中で彼がこっちに顔を向けた。
「ほら、前に話してたじゃない? もしかしたら四季で……」
「あ!」
鏡の中の彼が驚いている。こんなに目を丸くした顔、見たことない。
「え? 何よ?」
「おい、そこ……ハゲてる」
「ん?」
「だから、そこにハゲがあるって」
「え!」
そこからはバタバタと慌ただしかった。彼が教えてくれたその場所は後頭部というか、右斜め後ろの辺りでちょうど鏡では見えない。言われるがままに人差し指を伸ばして確認してみると……あった。確かにその一部分だけ髪がない。触ってみるとツルツルで、今まで気付かなかったのが嘘みたいに大きい。今ならば五百円玉くらいと思っただろうけど、その硬貨が登場するのは二年後の昭和五十七年。この時のおチビちゃんは、百円玉を二回り大きくしたくらいだと思った。さすがのダビデさんも少し動揺しているらしく、穏やかな声で「大丈夫、大丈夫」と繰り返す。
「ちょっと、何が大丈夫なの?」
「とりあえず、ちゃんと隠れる場所だから」
そんなピントがズレた言葉も、緊急事態のおチビちゃんを和ませることは出来なかった。
そういえば先日、今回の公演をNHKで放映すると発表があったばかりだ。収録日まであまり時間はない。いくら隠れるといっても、舞台上でじっとしている訳にはいかないし、当然テレビに映すわけにもいかない。自然に演じることは大事だが、あの「おミヨ」にハゲは似合わない。印象が大きく変わってしまう――。
ふと数十秒黙りこくったのは落ち着こうと思ったから。そしてその方法は、あながち間違いではなかった。
まあでも、ここで慌ててもどうにもならないよね。別に今日や明日に、そのテレビ収録があるわけじゃないんだし。
そう覚悟を決めて「とりあえず何か食べに行こうか?」と促すと、ダビデさんは一瞬何か言いたそうだったが、すぐに立ち上がって靴を履き始めた。
(第25回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
* 『もうすぐ幕が開く』は毎月20日に更新されます。
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■