「世に健康法はあまたあれど、これにまさるものなし!」真田寿福は物語の効用を説く。金にも名誉にも直結しないけれど、人々を健康にし、今と未来を生きる活力を生み出す物語の効用を説く。物語は人間存在にとって一番重要な営為であり、そこからまた無限に新たな物語が生まれてゆく。物語こそ人間存在にとって最も大切な宝物・・・。
希代のストーリーテラーであり〝物語思想家〟でもある遠藤徹による、かつてない物語る物語小説!
by 遠藤徹
7.ワン・オン・ワン物語合戦(三)
それからも、しばらくはつらい日々が幾日か続いた。爪を剥ぎ、焼きごてを押しつけ、許容量を超えた水を人間の体内に注ぎ込んだ。人間は壊れ、そして死んだ。土浦ちんは苦悩した。明日こそは辞表を出そう、自分はこの仕事に向いてないと思い詰めた。
けれども、転機はふいに訪れた。三年間付き合っていた恋人に別れを告げられた日だった。
「あなたすっかり変わっちゃったわ」
彼女はそう言った。いくら聞いても、なにが変わったのかを教えてくれることはなかった。スタスタと彼女は去ってしまった。
突然の別れ。ひとりぼっちになった土浦ちんは、理由のわからなさに煩悶した。けれども、その煩悶のさなかに、ふと机の上に飾った薬指の爪が目に入った。その時の囚人の悲鳴、苦しげな表情が蘇った。
「あっ」
声を上げていた。その苦しみが、苦痛が天啓のように土浦ちんの心の裂け目に入り込んだ。らららららら~、ららららららら~、それは悦びのアリアだった。それは快楽のうねりとなって、心の痛みを覆ってくれた。
「ああ、これか! これだったのか」
土浦ちんは歓喜の声を上げた。一人ぼっちの部屋で、土浦ちんはうひょーうひょーうひょーな感じで大騒ぎした。そう、土浦ちんは生まれ変わったのだ。翌日から、土浦ちんは仕事にめりめりめらめら打ち込んだ。積極的にあたらしい拷問法をごりごり考案してぐりぐり試したり、それを報告書にしたためて上司からお褒めの言葉を授かったりするようになったよしよし。
「そういえば、あれは左手の薬指の爪だったな。そうか、俺は仕事と婚約したってわけだ!」
そううそぶく彼は、いまや立派な拷問官だった。ってなわけで、拷問官誕生! の物語でした。ちゃんちゃん。
ところが、その日、スマホの画面に録画されたのは、囚人の指の上でくたりとしなる歴戦の勇姿ペンチ君のへたれた姿だった。いったいどういうことなのでしょう、あの容赦のない強靱さ、あの捉えたら放さない捕捉力を失って、頼りないこときわまりない花に変化していたのです。くわえ部と呼ばれる、左右一対の挟む場所が可憐なデイジーの花と化していたんですわ。白い花弁と黄色い中心部の対象があざやかなひなげしの花と化していたので有馬温泉。
「なんなんだこれは。いったいどうなってる?」
土浦ちんは、そのペンチ、いや絡まった二本の花を投げ捨て、代わりの道具を取り上げようとした。ところが、・・・。
「なんてこった。いつの間に」
土浦ちんが、目を丸くしたのも無理はなかったのでげす。何もかもが花になっていたからでげす。麻酔もなしに歯を抜く鉗子も、肌に無数の切り傷を刻むメスも、肉の焦げるジューシーな匂いで鼻腔をくすぐる焼きごても、喉に押し込んで水を注ぎ込むための漏斗も、なにもかもが花柄だったでげす。いや、花柄というだけではなかったげす。すべてがお花でできあがっていたのだげす。それどころじゃなかったげす。いつの間にか、それらの道具がきれいに並べられた容器も、それを乗せてあった木製の台も、いやいや、そんなもんじゃおへん、見渡す限りの部屋中が、いましも、花柄模様へと百花繚乱変化をとげつつあったのでげす。
「あっ、貴様!」
手枷足枷で拘束してあったはずの囚人が立ち上がっていました。
「わあ、自由よ。わたしついに自由になったわ」
その囚人は、連日の拷問で疲れ切っていたはず、生きる希望を無くしていたはずだった。このままでいけば、あと二日くらいで独房で自死するだろうと、上官は読んでいた。
「土浦君、あとちょっとだ。あとちょっとで五百四十二号は君の手を患わせることはなくなるだろう。たゆまぬ勤勉さを期待しているよ」
「お任せください。必ずや追い込んで見せますとも」
自信満々に答えて見せた土浦ちんであったのだ。ところが、いまその囚人五百四十二号は、花柄衣装でくるくると舞っていた。解放の踊りを、歓喜の舞いを舞っていた。そして、土浦ちんは、思わずその姿に見惚れていた。考えてみて欲しい。あのコンクリート打ちっ放しで、殺風景そのものだった拷問部屋が、いまや花柄壁紙で覆われている。床も天井もなにもかもだ。あちこちに飛び散ってこびりついていた血飛沫もかき消され、古くなった血が醸し出すあのイヤあな匂いもかき消され、代わりに部屋を満たすのはナチュラル感溢れるフローラルの香り。まるで花が辺り一面舞い飛ぶような錯覚にすらおちいってしまいそうなその空間で、花柄模様の囚人服を着た若い女性が歓喜の声を上げながら踊っている。その非日常感、その幻想的眩惑。土浦ちんは、思わず声を上げていた。
「す、す、す、すてきです。す、す、す、好きです!」
「あんたバカ? 脳みそ溶けてんの?」
彼女はそう言い捨てて出て行ってしまう。
「ああ、待って、花の妖精さん」
「こりゃどうしようもないわ。完全にイカレテル。まあ、さもなきゃあんなこと人間に対してできるわけないもんね」
彼女を追いかけて廊下に出た土浦ちんは、絶句して言葉を失ってしまう。世界が花柄だったから。そして、花柄囚人服を身にまとった美しい人たちが、次々と歩み出て行く。くるくるとバレエの群舞のごとく、歓喜の舞を披露しながら歩み出ていく。花屋敷と化したこの特殊刑務所から、喜びに満ちあふれて出て行ってしまう。
「さようなら、みなさん、お達者で」
彼等を見送って土浦ちんは建物の外に出る。美しい世界、華やかな世界。そこは花園。まるで楽園だ。他の職員達もみな、次々と外に出てくる。死んだ色そのものだったグレーの制服が、みな花柄の鮮やかな衣装に変わっている。そう、土浦ちん自身もそうだった。なんだかうっきうっきするのは、どうしようもなくるんるんしてしまうのは、どうやらそのせいだったようだ。全身の緊張がゆるみ、顔の緊張がゆるんで、土浦ちんは、笑い始める。っていうか笑わずにはいられない。つられて同僚達も上官達も笑い始める。
「さようなら、みなさん。どうかお幸せに!」
そう、何もかもがハッピー、何もかもがサティスファクション、何もかもがパーフェクトだった。何もかもがシンプル、何もかもがワンダフル、そう、何もかもがビューティフルだった!
〈後方:高山邦夫〉
哀れなるかな!
けれどもそれははかない夢であった。
淡い夢にすぎなかった。
果てしない拷問で自由が利かなくなった身体。痛みに苛まれる身体。そのせいで眠ることさえもはや不可能になった身体に、脳が最後の瀬戸際で放出した快楽物質が垣間見せた一瞬の線香花火のごとき妄想。
「朝だ、起きろ。仕事に行く時間だぞ」
文字通り冷や水を頭からぶっかけられる山田孝夫。はなかい花柄妄想の線香花火は一瞬にしてかき消えた。
「お前、いま笑ってたな。こんな状況でまだ笑えるとは、そして一瞬とはいえ眠りに落ちることができるとはな。俺たちのご奉仕がまだまだ甘かったってことだな。どんな物語にすがろうとしてたか知らないが、そんなものは現実には勝てない。現実の痛み、現実の苦悩の前には、象に踏みつぶされるアリのごときものに過ぎない」
「もう朝か」
山田は、絶望する。さっきまで物語の力で世界を塗り替えた自分がいたはずだった。言霊の力を発動して、世界の様態を根底から覆したはずだった。ところが、どういうことだろう。あの楽園は一瞬にして消え去ってしまった。一瞬なくなっていたように感じていた全身の痛みと疲労がどっと戻ってくる。生身の肉をまとっていること、そこに閉じ込められていることの逃れがたさを山田は噛みしめざるを得ない。
「さあ、始めようか?」
「朝飯は、ないのか」
「そうだな。豚の糞くらいならくわせてやってもいい。それとも俺の糞をくらうか?」
「そうか、やっと終末ってわけか」
「ああ、喜ぶがいい。あれだけいたお前の仲間達も、もはや残るところ数名となった。ほとんどは自死を選んだよ。人間の心はもろいものだな。そして物語の力など、現実を前にしては屁のつっぱりにすらならないってことが証明されたわけだ」
「圧倒的な暴力で、物語をねじ伏せることがそんなに面白いかね」
「ああ、面白いね。楽しくてしょうがないよ。もう二、三日したら残る君の信奉者たちも潰え果てることだろう。そしたら、やっと君にも赦しがでるよ。その肉体から去る赦しがね」
「わたしたちを葬っても、物語の力は消えないよ」
「そうかな、実のところ、いまだって物語の時代だよ。世の中は物語で溢れてるよ」
「それは、支配のための物語、いや、ちがうな。操作のための物語だ。情報を制限し、情報を操作し、そしてわかりやすい物語を垂れ流すことで、逆に人々から物語を奪う行為、物語を殺す行為だろう?」
「奴らにそんな見分けがつくかね? テレビにすがって生きてる連中、正義感を気取ってネットに書き込むことで高揚感を得てる連中が、自分たちが操られてるだなんて気付くと思うかね?」
「わたしはそう信じてる。わたしの物語、いやわたしたちの物語は、いまもネット空間に解き放たれたままだろうから」
「なるほど、ネット空間はある種無法地帯だからな。完全に君たちの物語の芽を摘み取ることは不可能だろう。だけど、もう誰もそんなものの存在に気付きはしないんだよ。他に飛びつくべき物語が、毎日大々的に投入されているからね。もっと扇情的なもの、もっと猟奇的なもの、もっと過激なものが次々と投入されている。そんなさなかで、君たちの地味な物語に目を向ける輩など、ほぼ皆無だといってもいいだろう」
名も無き拷問官は、もはや自分の足で立つことすらままならない山田の身体を抱えて部屋から連れ出す。意識が朦朧として、もはや物事を考えることすらままならない。そんな身体が目を覚ますのは、衝撃によってだ。もっと正確にいえば痛み。激甚なる痛覚。全身を流れる電流や、肌に押し当てられる焼きごてが、消え去ろうとする山田の意識を再び呼び戻す。いまや山田孝夫は、拷問によって生きているといってもよい。痛みと衝撃だけが、まるで生命維持装置のように、消え去ろうとする山田孝夫の意識をつなぎ止めているのだった。
〈右方: 山田孝史〉
ミスター・ノーバディ。そう呼ばれていた。誰が開発したのかは分からない。それは、新しいウィルスだった。そのウィルスが何者かによってネット空間に解き放たれた。ウィルスは、信じられない速度で増殖し、あらゆるコンピュータに侵入した。とはいえ、侵入されたコンピュータに特に大きな変化は起こらなかった。だから、発見が遅れた。ウィルスの存在が明るみに出た時点で、ネットにつながっているコンピュータのほぼ九割がすでにウィルスに感染していた。
ある日、こんなけしからん物語がネットにあげられた。
「サザエさんの放送が突如打ち切りになった。
なんでも、先週の放送終了後、サザエが三河屋さんと不倫関係にあることが明るみに出て、マスオとの間に亀裂が生じたとのこと。三河屋との関係を解消しようとしないサザエにマスオはいきり立ち、二人の関係はますます悪化、罵詈雑言飛び交う不穏な家庭の空気に耐えられず家出したワカメは、変質者にさらわれたあげく変死体となって発見された。「えーん、ワカメねえちゃん」と悲しみのあまり泣きながら家を飛び出したタラちゃんは車にはねられ、グレたカツオは自暴自棄なオートバイでの無免許暴走のあげくにダンプカーにぶつかって瀕死の重傷。あまりの不幸続きに波平は酒乱となり、酔った勢いでフネに暴行。転倒したフネはテーブルの角に頭を打ち付けて死亡。我に返った波平は、泣きながら同じテーブルに自ら頭を打ち付けて自殺。絶望したマスオは、サザエを包丁で刺した後、家中の鍵を閉めて放火、マスオの狂乱した笑い声が響くなか磯野家は家屋ごと灰塵と化したというのが理由、・・・ということだったりしたらみんなちょっとは目が覚めるのだろうか?」
(第22回 了)
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