世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
四十四、リセット、リフォーム、リフレッシュ
やはり店は閉まっていた。軽く拍子抜けしたのは、まだ連絡はないものの、安藤さんが開けている可能性もゼロではないと思っていたからだ。鍵を開けて中に入る。当然、店内はさっき俺が出て行った時のまま、どことなく嘘くさい整然さがあった。ガランと広かった。
行きしなに買ったペットボトルの水は温くなっている。レジカウンターに座ってそれを飲んでいると、ゆらゆらと漂っているような心持ちに段々となった。特にやることもない。会う人もいない。もしあったとしても、別に焦る必要はない。自由なんだろうな。そう思う。
でもその表面には薄皮のようにペタッと心細さが貼り付いている。勝手なもんだ。今だって冴子に連絡をしたい気持ちがないわけではないし、ナオや安藤さんから連絡があれば、こんな気持ちはどこへやら、尻尾を振って出るだろう。だけど今は堪えなければダメだ。このガランとした店内でひとり、俺はゆっくりと息を吐き、そして更にゆっくりと吸い込んだ。
音楽をかけていないから、一定のリズムで時間は過ぎる。「準備中」の札を出しているから誰も来ないし、今のところ幸い電話もかかってこない。微かな眠気をさっきのビールがじわじわと後押しする中、俺はどこか遠くに行きたいなと願い、そのうち実際に行った時の様子をつらつらと思い描いていた。
北でも南でも、電車でも飛行機でも、都会でも田舎でも構わない。ひとりきりならそれだけで目的は達成、大成功だ。ただ、いつの間にか片足を踏み入れた夢の中で、隣にいたのは安太。場所はいつか教えてもらった、本番ができる風俗街が近くにあるという有名な温泉街で季節は夏。夢うつつでさえ初志貫徹できないのかと自分に呆れつつ、その断片的な風景はとても楽しそうで、目が覚めてからスマホで温泉の位置や行き方を確認してしまった。今から三軒茶屋の駅を出れば、九時半にはたどり着くらしい。別に行く気はないが、その可能性が分かっただけで気分が軽い。行こうと思えば行けるんだからな、と奥歯を噛み締める。
気付けばもう店の外は暗い。俺は財布だけを持って、いつものコンビニへ向かった。
全てが終わったら、本当に一度行ってみようかな、温泉。そう思いながら、どこか可笑しくなるのは「全て」が何なのかがよく分からないから。「全て」って何ですか?
――それは、今抱えているモヤモヤ、というかぐちょぐちょ、というか人間関係のことです。
イグアナ占い師の寛十郎の声で自答してみる。でもピンとこなかった。そんなもんかなあ、という感じ。間違ってはいないけれど、満点はあげられない。そして今欲しいのは、一分の隙もない完璧な回答だ。では、次の質問。その温泉には、出来るだけ早く行くべきですか?
――安太と冴子に会ってから行くべきです。
今度は満点の答えだ。あの二人に会わないまま温泉に向かって、近場で運良く本番をやらせてもらっても、スッキリするかもしれないがリラックスはしないだろう。では、最後の質問。もしかしたら「全て」って、あの二人のことですか?
――……。
答えが返ってこないのは図星だからだ。たとえば今抱えているのが安藤さんのことだけなら、特に問題はない。心置きなく温泉街の裏風俗で本番やって寛げる。
だったら今すぐにでもあの二人のことは、片付けちまった方がいいかもしれない。これから下高井戸の安太のアパートに行って、直接冴子から新しいカレーのレシピを教えてもらおうかな。そうすれば俺は、明日にでも温泉行って本番やってリラックス……とはいかないか……。
やはり昨日の晩は、真夜中のノックのせいで睡眠の質が低下していたらしい。大した目的もなくスマホをいじっているうち、いつの間にか突っ伏したまま寝てしまっていた。しかも熟睡。まさか職場で寝るとは思わなかった。
上体を起こして時間を確認すると、午前一時前。ちょっと寝過ぎた。世田谷線の終電は終わっている。でも別に焦ることはない。帰りたければタクシーがあるし、寄り道したければ下北がある。とりあえずは腹が減った。韓国海苔とキムチ以降、何も食べてないから当然だ。
スマホを確認するとメールも電話も着信ナシ。正直ラッキーだと思っちまった。深い意味はない。今は純粋にひとりでいたいだけだ。財布を手に取り、向かうのはまたコンビニ。今晩はここで腰を据えよう。ひとりで呑んで、ひとりで食べて、体内電池が切れたらひとりで寝ればいい。さあ、買い出しだ。
中腰で店の鍵をかけながら、ふと思いついたことがある。外界とつながる文明の利器、スマホ。俺の電池が切れる前に、まずこいつの電源を切っておこう。ボタンを長押ししてすぐに実行してみた。結構重要なライフラインのはずだが、切る時は呆気ないくらい簡単だった。
当然店は閉めているが、物好きな奴が頑張って中を覗く可能性も捨てきれない。だからコンビニから戻るとバックヤードへ移動して、紙パックの日本酒をチューチュー吸いながら、インスタントの焼きそばと漬け物をつまんでいる。
外界とのライフラインを放棄した今、俺の敵は退屈だ。業務用のパソコンはあるが、一台はカウンター近くのデスクトップ型で移動不可能、もう一台はノート型だがパスワードを知らないので開けなかった。どうせ仕事中にエロサイトでも見てるんだろ、と今ごろ病室で眠っているはずの店長に悪態をついてみる。結局頼ったのは、彼と安藤さんがぐちょぐちょの声を紛らすために使っていたラジオ。名前も知らないパーソナリティーの番組をずっと流している。どうやら俺に初志貫徹は無理らしい。
ラジオを聞くでもなく考えているのは、「全て」が済んだ後のこと。ひとりで遠くへ行きたい気持ちに変わりはない。ただそれも紙パックの酒を吸い続けるうちに緩んでくる。ストローで吸っているせいか、とにかく回りが早い。気付けば「この調子じゃ残っちまうなあ」と漬け物のことばかり気にしていた。情けない、と思う余裕もない。そして何度か船を漕いだ後、俺は潔く諦めてバックヤードの電気を消し、自分の電池も切った。
明け方、一度トイレに行ったような気がするが覚えていない。靴と靴下は床に脱ぎ捨てられていて、綺麗に並べられた紙パックの数は四個。さすがに一番端のパックには半分ほど酒が残っていた。まず、だらしない状態には間違いない。ただ乾ききった白菜の漬け物を齧りながら、俺は体調の変化を感じていた。明らかに頭がスッキリしていて身体が軽い。フル充電、といえば聞こえは良いが、睡眠に左右される年齢になったという証しだ。
よいしょ、と椅子から立ち上がり、時間をかけて身体を伸ばした後、ひとりで行った宴を片付ける。当然五分もかからない。俺は久しぶりに午前五時台の世田谷線に乗り、シャワーを浴びる為に家へ帰った。
途中車内で、数時間振りにスマホの電源を入れてみる。それなりの覚悟はしていたが、入っていたのはナオのメールが一通と、トミちゃんからの留守電が一件だけ。予想外に少ない。そんな肩透かしをやり過ごしたくて辺りをぐるりと見渡してみる。でもまあ、案外自由ってこういう感じかもしれないな――。早朝六時前、車内は案外混んでいた。
テレビの天気予報だと今日は晴れのち曇り。熱いシャワーを浴びながら、これからの予定を大まかに決めた。
本当なら温泉に行って裏風俗で本番やらせてもらいたいが、それは「全て」が片付いてから。今はとりあえず、ひとりの時間を満喫できればいい。
だったら、と思いついたのが少し長めの散歩。コースは新宿から神保町。軽く寄り道しながら歩いても二時間弱、と教えてくれたのは安太かもしれない……が、あまり考えないようにする。冴子の突然のメールも、安藤さんと店長の奥さんのやり取りも、「フォー・シーズン」の今後も、今はひとまず考えない。歯ブラシを口に突っ込んだまま「自由なんだから」と声に出すと、本当にそうかもしれないと思えた。
新宿までは電車を使うつもりだけど、今すぐ家を出るとラッシュにぶつかる。学生の頃に経験した満員電車を思い出し、何としてもそれだけは避けようと考えを巡らす。あんなに辛い思いを、大人になってまで味わいたくはない。結果、出た結論は「スタート地点の新宿までも歩く」。馬鹿みたいだが、調べると約一時間半。甲州街道に出たら直進すればいい。
ならもっといいルートを、と更に考えたり調べたりする前に家を出た。この流れを、このスピード感を止めたくはない。スマホの充電が半分を切っているけど、またしばらく電源を切ってしまうから大丈夫。まだ髪は乾き切っていないけど、今日は風が強いから大丈夫。財布の中はあまり入っていないけど、いつもこんな感じだから大丈夫。スピードをキープするために、俺は意識的に身体を動かし続ける。
甲州街道にぶつかるまでの住宅地では、細い道が多すぎて少々手こずった。調べれば簡単だろうけど、こんなことでスマホの電源を入れるつもりはない。登校する小学生や中学生の団体とすれ違ったり、追い越されたり、合流したりしながら何とか甲州街道へ。車を横目にひたすら直進する。
自販機で水を買い、コンビニでトイレを借り、額に軽く汗が滲んできた頃、ようやく新宿エリアが見えてきた。時刻はもう少しで午前九時。ぐっと増えた人の流れに乗りながら、普段あまり縁のない爽快感を認識する。本当はそのまま神保町を目指したかったが、花園神社でサンドイッチを食べながら小休止。
無理をする必要はない。なるべく疲れることなく神保町にたどり着こう。少し前からそんな目標が浮かんでいる。
歩き続けていると、いちいち「考え過ぎないように」と気をつけなくても、頭の中を静かな状態に保てる時間が増えてきた。無にする、という感じではない。靖国神社を通過する頃には、歩くことが快適なのか、ひとりでいることが心地いいのか、それともその両方なのか、そんなことはどうでも良くなっていた。ポストを見たらポストだと思い、老人の集団を見たら老人の集団だと思う。鈍くなっているだけかもしれないが、求めていたものの正体がそれならば文句はない。
途中、匂いに惹かれて椅子のないカフェに立ち寄った。立ち飲みだから気軽に入れる。黒板にオススメだと書かれていた水出しのアイスコーヒーを飲みながら、ちっともスマホの電源を入れようとしていない自分に気付く。不思議だ。
入口近くでオレンジジュースを飲んでいる髪の短い女は、ジョギングの途中なのか身体のラインが目立つ黒いウェアを着ている。顔も好みだし、汗が首筋を生々しく濡らしているけど、そういう気分にはならない。全く考えない訳ではなく、ある程度の想像をしてもスイッチが入らないから、不思議だ。
「お客様はこのお近くにお住まいなんですか?」
同年代の彫りの深い店員が、微笑みながら尋ねてきた。好みは分かれるが、二枚目であることに間違いはない。
「いや、そんな近くもないんですけど、フラフラ散歩していたら、いい匂いがしたので……」
微笑みを返しながら、ここ最近味わったぐちょぐちょを思い出してみる。ナオや安藤さんの、いやらしい身体や顔つきや言葉の数々。でもやはりスイッチは入らない。
「ここ、火曜日以外は朝七時半から開けていますので、また是非お越し下さいね」
「はい、ありがとうございます」
残りのコーヒーを飲み干して店を出る。なかなかスイッチは入らないが、別に嫌ではなく不安でもない。結局、元の自分のままだからだと思う。そういうタイミングになればスイッチは入るし、もしダメならバイアグラのジェネリックもある。間違いなく、元のまま、俺のままだ。
でも何も変わっていない訳ではない。うまく言えないがリセットや、リフレッシュという言葉に近いような気がする。今まで溜まっていたものを一掃した感じ。病気が治った、でもいいし、何ならリフォームでもいい。リセット、リフォーム、リフレッシュ。口の中で何度か唱えているうちに、とうとう神保町の地下鉄の乗降口を通り過ぎた。さっきよりも少し風が強くなっている。
神保町では何軒かの古本屋に入って、久しぶりに何冊かの本を買った。時間は十時半近く。まだ開けている途中の店も多く、行ったり来たりしながら見て回った。マニアックな品揃えの店もあったが、俺が見るのは店頭のワゴンに入っている本ばかり。それでも普段積極的に本を読まないので予想外に面白く、結局選んだのは百円や二百円の文庫本が十冊ほど。気付けば昼飯時だったので、レトロな雰囲気の洋食屋に入った。注文したのは名物だというオムライス。それが来るまでの間、買ったばかりの古本を読むでもなく眺めていると、年寄りになったみたいでくすぐったい。
本当はこのまま家に帰るつもりだったが、ここから三軒茶屋は地下鉄で一本だ。念のため、スマホの電源を入れてみたが結果は坊主、ゼロ件。そういうことなら、とこの後「フォー・シーズン」へ行くことを決めた。
それにしても安藤さんはどうしたんだろう? 長い間電話を繋いで以来、何の連絡もよこさない。昨日の留守電はちゃんと届いているんだろうか? こんな風に彼女のことを考えていると、さっきは入らなかったスイッチが少しずつ動くのを感じる。ほら見ろ、俺自身は変わってない。ただリセット、リフォーム、リフレッシュしただけだ。
神保町から三軒茶屋までは二十分だが、朝から歩き続けたせいか思わず寝過ごしそうになってしまった。買ったばかりの本を片手に慌てて飛び降り、肩で息をしながら店の前にたどり着くと、ドアは開いていて中には客の姿もある。予想外の展開だが何とか背筋を伸ばし、澄ました顔で入っていく。いらっしゃいませ、と客に声をかけると「お疲れ様でえす」とレジの脇で安藤さんが頭を下げた。言いたいことや訊きたいことはあるが、客がいるうちは無理。お疲れ様です、と頭を下げてレジに入る。
色々大丈夫だった? と目で問いかけてみたが、分かっているのかいないのか、にこやかにかわされる。まあ、そうなるか。とりあえず水でも買ってこようと、本が入った袋を床に置いた瞬間、バックヤードから人が出て来たので思わず「おお」と声が出る。振り返るとそこには店長の奥さんが立っていたので、また出そうになった声を我慢した。
「えっと、おはようございます」
「あら、お疲れ様。といっても、今日はこれで帰るけどね」
「あ、そうなんですか」
「うん、あの人から頼まれて、パソコンの方を少しね」
俺が使えなかったパスワード付きのノート型のことだろう。じゃあ後は宜しくお願いします、と昨日よりは健康的な歩き方で、店長の奥さんは出て行った。安藤さんは無言のまま、頭を下げることなくそれを見つめている。まさか二人ともここにいたなんて。
一度リセットしたせいか、修羅場のにおいにはちっとも気付かなかった。それとも二人は別にいがみ合っていないのだろうか。
「あの、伝えておかなきゃいけないんですけど」
安藤さんが二、三歩近付いてくる。やっぱり綺麗な顔だな、と簡単にスイッチが入った。
(第44回 了)
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