世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
四十三、口つぐみゲーム
それからしばらくは外の音に耳をすましていた。一分経ったら外の様子を窺ってみよう。そう思い、頭の中で何度か十まで数えたが、三度目か四度目でごちゃごちゃになってしまった。思わず咳払いが出る。
「……泥棒かな?」隣でナオが声を潜める。「どう思う? 泥棒じゃないかな?」
「だったらノックなんてしないだろ」
「するタイプあるじゃん」
「え?」
「何て言うんだっけ。強盗? 押し込み?」
俺は答えずにそっと立ち上がった。多分泥棒でも強盗でもない。今来たのは「知ってるヤツ」だ。やめなよ、と心配そうに囁くナオを無視し、玄関で外の気配を探る。Tシャツにトランクス姿に裸足のまま、中腰の体勢で数秒。何も聞こえない。
「知ってるヤツ」の候補者は三人。本命は……やはり安藤さん。当たった場合、一番嫌なパターンだが辻褄が合っているから仕方ない。彼女にはしっかりとした動機がある。対抗は安太で、大穴が冴子、かな。
ただ時間帯のことを考えると、冴子の可能性は低い。今、午前三時過ぎだぞ。そう思った瞬間、「ちょっとお兄ちゃん、私、もう大人だよ」と呆れた顔が浮かぶ。それは分かっているつもりなんだけどな……。
大人だから真夜中に出歩けるのか、それとも大人だからそんなことはしないというのか。あいつはきっと後者、今ごろぐっすり眠っているはずだ。そうなると大穴は……店長の奥さん? だとしたらあまりにもクレイジー。大番狂わせどころか出走停止にしてもおかしくない。
音が響かないよう押さえつけながらドアを開け、首だけ出して周囲を見渡してみた。遠くの方から若い女たちの笑い声が微かに聞こえる。
「ちょっと、やめなって」気付けばナオが後ろにいた。「何かあったらどうするの」
無言のままドアを閉めて鍵をかけ、ナオに促されるまま元の位置に寝転んだ。背中に汗が滲んでいた。興奮しているように見えるのか、ナオは赤ん坊を寝かしつけるようにポンポンと優しく身体に触れてくれる。大丈夫だよ、と告げるのは照れ臭いから、子どもの頃の話をした。まだ小学生だった頃、冴子と二人で爺さんが住んでいた広島へ行った時の話。できれば安藤さんにも聞いてほしいけど、こんなに小さい声では難しいかもしれない。
どういう経緯かは忘れてしまったが、俺たちは地元の夏祭りに参加させてもらうことになり、そこで生まれて初めて「肝だめし」を経験した。近くのお寺を一周して戻ってくるだけだが、それが怖くて怖くてたまらなかった。今なら分かる。いくつか用意された脅かすための仕掛けより、知らない土地で知らない人の中に混じっている状態が心細くて怖かっただけだ。冴子の手前、弱音を吐いたりはしなかったが、お寺から出てきて爺さんの姿を見つけた時は安心を通り越して嬉しかった。
「可愛い話じゃない」
まだナオはポンポンと優しく触れている。このままだとすぐに眠れそうだ。
「私も小さい頃さ、よく母親の田舎に連れてかれてたのよ。小学校の三、四年くらいまでかなあ」
「場所は?」
「新潟。上越の方。怖かったんだよねえ」
「ん? 肝だめし?」
「ううん、普段から怖いのよ。ほら、いくら母親の田舎っていっても、馴染みなんかないじゃない? でもさ、近所の大人たちはみんな私のことを知ってるわけよ」
農協では店員から「あらあら、大きくなったねえ」と驚かれ、母親とタクシーに乗れば「東京とは勝手が違うでしょ」と話しかけられる。
「ま、それだけ田舎ってことなんだけどね。でも居心地悪かったなあ」
中でも一番嫌だったのは、近所の人たちが家に来ることだったという。
「人付き合いが良かったんだろうね。誰も来ない日はないって感じだったんだよね」
「……落ち着かないな」
「落ち着かないっていうかさ、シンプルに怖いよね。たしか鍵もかけてなかったと思うんだ。夜とかもちゃんと戸締りしてたのかなあ、あの家」
だんだんとナオの話が遠くなっていく。言葉を追いながらふと、すぐそこにある世田谷線の踏切を渡る安藤さんの姿が見えた。後ろ姿だけど間違いない。ああ寝ぼけてるんだな。そう気付く前に俺の意識はストンと外れた。
目が覚めるとナオはいなかった。枕元のメモには、気持ちよさそうに寝ていたから起こさなかった、と書いてある。そんなにぐっすり寝ていたのかな? 自分では分からない。
しばらくぼんやりしていたが、いつもの癖でスマホを見ようとして思い出す。そうだ、安藤さんとつながっていたんだ。さすがにもう切れているだろう、と思いつつ起き上がり画面を確認する。どうやらつながっていたのは十時間ちょっと。だいたい明け方くらいまで。ということは、深夜にドアがノックされたことも知っているはず。いや、知っているも何も、彼女は本命だ。自分でノックしたのかもしれない……。
とりあえず電話をかけてみる。改めて伝えたいことがあるわけではないが、十時間つながっていた後に何もないのも気持ちが悪い。そんな曖昧な動機をはぐらかすように、安藤さんは電話に出なかった。
それ以外にはメールが二件。どちらも「大金星」の常連、トミちゃんから。肝心のメッセージはどちらも「連絡ください」だけ。時間は夜の十一時。少し迷ったが連絡をしてみた。これもまた出ない。朝はみんな忙しくしているらしい。留守電には何も残さなかったが、一時間後にコールバックがあった。家を出るタイミングだったが、玄関先でそのまま出る。現在店長は入院中。少し遅れても支障はない。
「もしもし、昨日は出れなくて……」
「いや、いいのいいの。今思えばさ、そんなに大したことでもないし」
「……」
「ごめんごめん。今ちょっと出先なのよね。あのさ、今日って顔出せる?」
「あそこ、何時からでしたっけ?」
あそこ、とはもちろんいつもの「大金星」。安藤さんの動きが分からないから、開店時間の三時半に待ち合わせた。何かがあるとすれば、きっと夜だろう。どうやら今日の労働時間はずいぶん短くなりそうだ。
当たり前だが、昨日ほとんど何もせずに帰ったので、「フォー・シーズン」は半端な状態で放置されたままだ。まずは閉店の状態まで戻さなければ。無駄なことをしている気はするが、こういう時は色々と考えないに限る。二十分ほどかけて何とか取り繕った。さて、仕切り直し。改めて電気を点けて「オープン」の札をかける。レジに座って数分、ゆっくりとドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは本日一人目のお客様……ではなく、遠目にも様子がおかしい店長の奥さんだった。フラフラしているわけではないがダラダラしていて、明らかに気が抜けている。三十五歳の女性セラピストは人目を気にしなくていいのだろうか。
「あ、おはよう。ご苦労様ね。今日はひとり?」
「はい」
「あのさ、私もこれから仕事だから、すぐに出ちゃうけどよろしくね」
多分嘘だろうなと思いながら、「はい」と返事をする。セラピストの仕事内容は知らないが、この人がこれから働けるようには見えない。
「あ、そうそう。もう一人のバイトの子に言っといてくれる? 私に連絡するように、って」
「……はい」
「昨日何度か連絡してたのよ? でもさ、全然つながらなくて。忙しいのかしらねえ」
俺とつながってたんで、と言いたい気持ちをこらえて「はい」と頭を下げる。しばらくの間、探るような目つきで俺の顔を見ていたが、そのうち彼女は店を出て行った。
ダラダラ歩く後ろ姿を見送り、三分間待ってから安藤さんに電話をかける。用件は二つ。預かりたての店長の奥さんからの伝言と、本日早めに上がること。案の定電話には出なかったので、留守電に入れておく。結局「大金星」に向かうまで、客は二組しか来なかった。
ほぼ開店と同時に店に入る。マスターのキンさんは「おお、早いね。いい御身分」と迎えてくれた。大抵この時間帯にマドカちゃんはいない。
「何でもすぐ出るよ」
「だろうね」
「まだ暇だから」
とりあえず大瓶。韓国海苔とキムチを頼んでコップ一杯分を飲み干す。仕事を早退して酒を飲むのが「いい御身分」かどうかは分からない。でも早い時間から飲んで、一日がダメになる解放感は悪くない。
程なくしてトミちゃんが来た。挨拶もそこそこに隣に立って本題に入る。
「いや、昨日ここで呑んでたらさ、マドカちゃんから聞いたのよ。夜の七時くらいに来てたって」
「七時か」
「ねえ、キンさん、そうだよねえ? ホンマさん来てたのって七時くらいだよね?」
「ああ、そうそう。もうどこかで飲んで来たって感じだったけどなあ」
ホンマさん、という安太の苗字を他人の口から聞くのは変な感じがする。
「マドカちゃんの見立てでは、飲み過ぎてたらしいのよ。久々にベロベロだったって」
「何でだろう?」
「それは知らないけど、訊かれたってよ」
「何を?」
「最近お店に来てるかって」
「え、俺のこと?」
「そうよ。そんなこと珍しいでしょ? だから私、気になっちゃってさ」
心配そうな声を出すトミちゃんが飲んでいるのは、ホッピーの外だけだった。
「あれ、これから仕事?」
「いや、稽古があるのよ」
「あ、そうだったんだ」
「ああ、言ってなかったね。ごめんごめん。本番近づいてきちゃってさ」
メニューにないおにぎりをキンさんに作ってもらうと、それを二つ持って彼女は稽古場に向かった。連絡ありがとう、と頭を下げながら、次の公演は観に行こうかなと思う。
「キンさん、もう一本ちょうだい」
「毎度あり」
客はまだ入ってくる様子がない。俺は大瓶をもう一本頼み、一日がダメになる解放感を更に楽しんだ。
店を出ても外は明るかった。どうしようかな、一度職場に戻ろうかな、それとも「マスカレード」に顔を出そうかな、いや、ナオは今日いないのか。
わざわざ道路の真ん中で立ち止まってまで考えることではないが、さっき味わった解放感のせいで頭と動作が少々鈍い。これに安藤さんのことまで入ってきたら大変だ。あっという間に立っていられなくなる。
俺を追い越したオバサン二人がチラッと振り返った。スマホをいじりながら歩いてきた女子高生は、ぶつかりそうになって慌てて方向を変える。他人の邪魔になるのは良くない。だったら、と足が向いたのは「マスカレード」の方。覗いてナオがいれば、いや、いなければハイネケンを飲んでいこう。その前に銀行でお金を下ろそうか――。
さっきから同じ場所で行ったり来たりしている自分が可笑しい。これこれ、一日がダメになり始めるこの感じ。そんなだらしない気持ちだったせいで、冴子からのメールに気付いてもあまり驚かなかった。
お久しぶりです/健康に気をつけていますか? /ちゃんと栄養のあるご飯、食べていますか?
驚かなかったが分かったことはある。真夜中にドアをノックしたのは安太だった、はずだ。間違いない、と思う。「大金星」でベロベロになって俺のことを訊いていただけでも怪しいが、冴子からのメールで確定だ。偶然はこんなに幾つも重ならない。
そして、何故だか冴子は焦っている。焦っているから、こんな分かりやすいタイミングでメールを出してしまった。安太とのことを俺に隠しておきたいはずなのに、あいつ、いったい何を焦っているんだ?
大丈夫/太らない程度に食べてます
まるでゲームだな、と思う。浮かんでいるのは、昨日の安藤さんの話。店長の奥さんが仕掛けてきた、真実については何も言わないゲーム。互いに口をつぐみ続けて、真実を話した方が負け。気付かないうちに、俺も冴子もそんな「口つぐみゲーム」を始めていたらしい。
そして、ここに来て冴子はなぜか劣勢だ。今のところ理由は分からないが、安太の真夜中のノックがきっと関係しているに違いない――。
進路を変更して、俺は「フォー・シーズン」へ戻ることにした。店は開けないが、一旦アルコールを入れずにもう少しだけ考えてみたい。もし冴子から、そして安太から連絡があれば応じる気はあるし、ないならそれで構わない。俺の方から攻めたりはしない、はずだ。あまり自信はない。
安心しました/今度また新しいカレーのレシピ、教えますね
五分もしないうちに、また冴子から返信が来た。のどかな文章だからこそ、あいつの焦りがよく分かる。今までこんなに頻繁に連絡をしなかったくせに、どうしちまったんだ。何も遠慮なんかせず、訊きたいことがあったら訊いてこい。そんな想いを込めてすぐに返信する。
ありがとう/出来るだけ早いうちに頼みます
(第43回 了)
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