女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
はい、とどうにか返事はしたけれど、振り返ることは出来なかった。どうせみんな、こっちを見ているんだろう。これから私がこっぴどく怒られると思っているに違いない。……悔しいけれど、多分それは合っている。大正解だ。あんなにボロボロの仕上がりだったんだから、怒られて当たり前。役者失格。もしかしたらその場で役を降ろされるかもしれない。でも、それならそれでいい。いや、そっちの方が好都合だ。私はここでお芝居をやるつもりはないんだから――!
そうやって密かに啖呵を切ってはみるけれど、こんな形で辞めるのは正直なところ悔いが残る。有終の美を飾ろうなんて思っていないけど、昔から「立つ鳥跡を濁さず」っていうし……。別に見栄を張りたい訳ではなく、今まで育ててくれた先生をがっかりさせたまま辞めていくのは心苦しい。本当、どうして今日に限って声が出ないんだろう。
頭の中がぐるぐると渦巻いた状態のまま、とりあえず部屋の外に出る。浅利先生より先に社長室へ行くのも変なので、とりあえずトイレに入ってみた。人と会わずに時間を潰せる場所はここしかない。そっとドアを閉めて鍵をかける。何をするでもなく、ただぼんやりと座ってから、おチビちゃんはいよいよ社長室へと向かった。
「あの……失礼します」
返事を確認してから部屋に入る。先生はいつもの場所でいつものように座っている……と思う。真正面から顔を見るのが怖いから、なかなか視線を上げられない。さっきから綺麗な床ばかり見つめている。
「そうか……」
唐突に先生が口を開き、聞き慣れている声が胃に響く。やっぱり先に謝った方がいいのかな。
「……そんなに感動したのか」
「???」
思わず顔を上げてしまった。え、なになになに? いったい何の話?
「あれ、いい話だよな。子どもたちもきっと喜んでくれると思うんだ」
「……」
「やっぱり、後半に入ってからの流れが良かったか?」
あ、そういうことか、と気付いた瞬間に声が出た。本当はさっき稽古場で出したかった大きな通る声。
「違います!」
え、と今度は先生が顔を上げる番だ。ようやく目が合ったが、妙なタイミングになってしまった
「……ん? 違うって何がだい?」
答えていいものかどうか迷う。何だかちっとも感動していない鈍い人みたいだけど、今は緊急事態だ。仕方ない。とりあえず気持ちを伝えないと!
「あの、私はさっき、みんなの声を聞いて、何ていうか……疑問が湧いたんです。」
先生はじっとこっちを見ている。まだまだ言い足りない。ちゃんと伝えなきゃ。
「声が違ったんです」
「声?」
「声です! なんでみんなは、あんなに不自然な声の出し方をしてるんですか?」
「……不自然……」
「はい、すごく不自然だと思います。だって、大人があんなに甲高い声で子どもみたいに喋るのなら、その後に出る子どもは、おミヨは、つまり私は、どうするんですか? あれよりテンションも音域も高く上げなきゃいけないんですか? 本当にこんなのでいいんですか!」
一気にぶちまけてしまった。これが自暴自棄の底力だ。辞めてもいい、ではなく、辞めたいという気持ちがなければ、先生にこんなことは言えない。しかも勢いのどさくさで「宝塚みたいに」と口走ったような気がする。他の劇団と比べられるのが一番嫌いな先生のことだ。それでなくても好き勝手な言い分を並べてしまって、きっと怒鳴りつけられるに違いない。そう覚悟していたから、少し肩をすぼめて視線を再び床に落とす。これでようやく辞められるんだ、と自分に言い聞かせながら先生の言葉を待った。
「……そうか……。そうか」
「……」
「そんな思いをさせちゃってたのか」
「?」
先生の声は予想外に優しかった。上目遣いに様子を窺うと、真剣な顔で天を仰ぎ、じっと目を閉じている。あれ、どうしちゃったんだろう?
「不自然か……。そんな不自然なことをやってちゃダメだな。うん、ダメだ」
自分に言い聞かせるように呟いてから軽く頭を振り、おチビちゃんに投げかけた視線はまっすぐだった。
「でも今、それに気付いたから良かったんだよ。まだ稽古も始まっていないんだ。これで今度の役はさ、きっと良いものになるはずだから。な?」
もう一度「違います!」とは言えなかった。それほど先生の表情は優しく、こんな小娘の言葉と向き合うその姿勢は真剣そのもの。いくら自暴自棄とはいえ、このボタンの掛け違いを直すには相当の勇気と根気が必要になる。
困っちゃったなあ、全然そんなつもりじゃないんだけどなあ、というのが正直な感想だ。さっきまでの勢いが嘘のように、内心はオロオロと落ち着かない。そんなおチビちゃんに「じゃあ、そろそろ戻ろうか」と声をかけた先生の顔は、どことなくさっぱりとしていた。
二人が戻った稽古場には、急拵えの静寂が広がっていた。きっと寸前までさっきのおチビちゃんの涙声や、社長室へ呼び出した先生について、あれこれ話し合っていたのだろう。そんな余韻が残る中、二人ともパイプ椅子にゆっくり腰を下ろした。段々と静寂が空気に馴染んでくる。良い頃合いを見計らいながら、先生がようやく口を開いた。
「今、この子はね、とても凄いことに気が付いたんだ」
その穏やかな声に、みんなの安堵と戸惑いが混じり合っていく。この子、と呼ばれたおチビちゃんは少し俯き加減でその声を聞いていた。
「そして、俺も気付かせてもらったんだ。いいか? 俺たちは――、この劇団四季は、このままだと間違った方向へ行くところだったんだ」
嗚呼、とおチビちゃんは微かに肩を落とした。やっぱりボタンは掛け違ったままだ。辞めるつもりで放った言葉が、先生の中で響き渡ってしまったらしい。
「いったい何を俺たちは間違えてしまったのか、分かるか? 何か思い当たることはないか?」
先生の言葉は段々と熱を帯びていった。さっき社長室で訴えた、台詞の不自然さを指摘する数々の言葉が、先生の口から発せられていく。みんな神妙な顔で聞いていたが、おチビちゃんだけは気が気でなかった。それが元々自分の発言だということは火を見るよりも明らかだ。たくさんの先輩方の気持ちを思うと、恥ずかしいやら申し訳ないやらで居た堪れない。
「な、分かるだろう? 俺たちは今、すごく不自然な台詞を喋っているんだ」
不自然も何も、今までそれが正しいと信じてやってきたのに――! そんなみんなの心の声が、おチビちゃんには痛い程よく聞こえている。
「な? もう一度、元に戻ろう。立ち返ろう。本当によかった。四季は間違った方向へ行くところだったね」
さすがにその日は先生の話でお開きとなったが、すぐに稽古場を出て家へ帰ったので、みんなの様子がどうだったのかは分からない。ただはっきりしているのは、ここまで話が大きくなってしまったら、もう辞められないということ。ボタンを掛け違えたまま、少なくともこの『むかしむかしゾウがきた』が終わるまでは、四季にいなければいけなくなった。
浅利先生の鶴の一声で、台詞に対する取り組み方は急遽変更となったが、全体のスケジュールは何も変わらない。五月三十一日にゲネプロ(最終リハーサル)を行い、六月二日には日生劇場にて公演の初日が開かれる。正直なところ、余裕があるスケジュールとは言い難い。
ミュージカルの稽古は通常歌とダンスから始まることが多く、今回もその順番だった。もちろんおチビちゃんはまだ希望を捨てていない。浅利先生には少しズレて伝わってしまったが、まだどこかに四季を辞めるチャンスはあるはずだ。そこで思いついたのは「浅利先生以外の先生から愛想を尽かされる」パターン。意外とこれはナイスアイデアかもと、真面目なおチビちゃんはすぐに実行へと移した。
例えばダンスの練習。振付家の山田卓先生に対して行ったことは「振り付けのアレンジ」。もっともらしく名付けたが、要は踊りやすいように踊ってみただけ。足が上がらないところは上げないまま、上げる努力は放棄した。そんな態度を取っていれば当然目立つ。周りのみんなは、いつ山田先生の堪忍袋の尾が切れるかとヒヤヒヤだったに違いない。
山田先生といえば、日本振付家協会の創設者であり、その功績は舞台上だけでなくテレビの世界でも燦然と輝いている。フォーリーブスや西城秀樹、後年は少年隊などの振付けで日本の歌謡史に多大な貢献をしている第一人者だ。当時、劇団四季で活動を始めて十五年目の四十八歳。まだ現役バリバリということもあり、当然おチビちゃんも怒られることを覚悟していた。でも一度たりとも怒られない。それどころか穏やかな顔でこんなことを言う。
「いいのいいの、君は顔で踊れるんだから、それでいいよ」。
そんな一言で、おチビちゃんの企みは呆気なく砕け散ってしまった。
もちろんそれでも諦めたりはしない。次に仕掛けたのは歌のレッスンの時。そろそろゲネプロが近付いてきたある日のこと、今までソロで歌う時に使っていた伴奏入りのテープ、そのアレンジが変更されていた。旋律のない打楽器だけの音に変わっていたので、とにかく歌い出しの音が取りづらい。ここだ、と真面目なおチビちゃんはピンときた。
「あのお、この音じゃ入れないんですけど。何でこれになったんですか?」
え、と周りの人々が戸惑う中、一番動揺していたのは誰あろう舞台監督だった。なぜなら音が変更になる件は、事前におチビちゃんへ伝えていたし、実際新しいテープも渡していたからだ。また不幸にも、彼は馴染みのない若手さん。その慌てっぷりや、「何やってるんだ!」と浅利先生から叱責される姿を見て、さすがに胸は痛む。しかもこの感じでは、自分が辞めるという流れには到底なりそうにない……。
結局おチビちゃんは、他のスタッフからの謝罪や説得を受け、新しいテープで歌うことを了承した。もちろん稽古が終わってからすぐ、若い舞台監督のもとへ行って「さっきは本当にすみませんでした」と頭を下げることも忘れなかった。思うことは「もしかしたら私、反抗期に向いてないのかなあ……」。そんなおチビちゃんにとって、「僕、ちゃんとお伝えしませんでしたっけ?」と申し訳なさそうに、また不思議そうにしている彼の表情は、なかなか忘れられない苦い思い出となった。
色々とうまくいかない反抗期だが、中には掲げた要求が受け入れられたパターンもある。
おチビちゃんは、ずっとその場面に違和感を覚えていた。ストーリーの後半、ゾウが日本にやって来るまでの道程をアンサンブルのダンスナンバーで表現してから、自分が演じる「おミヨ」のソロ曲へと移る場面。どう考えても「おミヨ」としては集中したいシーンだ。
でも何故か、その前のアンサンブルにも参加することになっている。とてもではないけれど無理。初めからそう思っていた。そんな短い間に衣装を変え、気持ちを切り替え、ひとりで歌い始めるなんて絶対無理。だからおチビちゃんは考え、実際の行動を通して訴えることにした。
アンサンブルの時の格好はインド風の衣装で、両方の足首には鈴を付けている。本番が迫ってきたある日、通し稽古の最中に、本来なら外すべきのその鈴を付けたまま「おミヨ」として次の場面に出て行ったのだ。当然稽古はストップする。どうした? と誰かが声を出す訳ではない。場にそぐわない鈴の音に、その場にいる全員が「どうした?」と訝っている。
「……ちょっと、これ、無理かもしれません。着替える時間、短いんで」
わざとらしくならない程度に、ハアハアと息を上げてみせる。その演技に問題はなかったが、なかなかその場の空気は動いてくれない。理由はいくつか考えられるが、「おミヨ」役を任された女優がもう一人いる――つまりダブルキャストである、という事実は大きかったかもしれない。
何故ならもう一人の「おミヨ」である先輩の菅本烈子さんは問題なく着替えていたし、後日、本人からも「私はあそこ、間に合うと思うけど」と言われてしまったのだ。
でもおチビちゃんは譲らなかった。テープの一件とは違って、譲らないだけの根拠も自信も持っていた。あの場面はアンサンブルには参加せず、「おミヨ」として気持ちを作る方が絶対にいい。腹の底からそう思えたからこそ譲らなかったし、結果的におチビちゃんの意見が採用され、「おミヨ」はアンサンブルに参加しないこととなった。
やった、と喜んだのも束の間、結局四季を辞める方向にはこれっぽっちも近付いていない。私はいったい何をやってるんだろう、という虚しさを解消できないまま、いよいよ公演が始まってしまった。
(第24回 了)
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