月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第一幕(前編)
ハナウマ湾の空は薄曇りだった。
生温かい潮の香りはわたしの髪をなぶり、雲間からふと漏れた陽に、海面のさざ波が小魚の群れのように輝きはじめる。
昔、ハリウッド映画の舞台にもなったこの磯の生物たちは特別に保護され、捕ることはおろか触れることすら禁じられている、と繰り返し聞かされた。
まあ、そう言っておけば、向う見ずなわたしが色鮮やかなイソギンチャクに掴みかかり、刺されて大騒ぎする心配もないということだろう。
遠い岩場では、夫の文彦がかがみ込み、水中眼鏡を覗き込んでいる。わたしより六歳上、もう五〇は過ぎたが、泳いでばかりいるせいか贅肉らしいものは付いていない。
この湾で週末を過ごすのは三度目になる。わたしが来るまで単身赴任の身だった彼は、ハワイ島奥地の洞窟へしょっちゅう出かけていた。
海っ縁から離れると生きた心地のしない海洋生物学者にしてみれば、ホノルルから車で一時間ほどの浜に出かけるのは、それなりの妥協とサービス精神の現れだろう。
移ってきて四ヶ月、まだ原稿用紙に向かう気にはなれないが、コンドミニアム周辺の道を覚え、ドルでの買い物にも慣れた。地元劇団の公演を見に行き、図書館で資料に当たるぐらいには、心身ともに回復したところだ。
薄物の上着を脱ぎ、わたしも水中眼鏡を持って海へ入ってみる。
水が冷たいのはいつも最初だけだ。ごつごつした珊瑚礁と砂地が混ざった遠浅の海は、かなり歩かないと腰までの深さにもならない。
習った通りにシュノーケルで呼吸し、青いサファイアに似た魚たちに見とれる。水紋のような縞模様を持つ石鯛が優雅に身を翻してゆく。
どのくらいそうしていただろうか。
腰を伸ばして息をつき、夫の居場所を確認しようと振り返った。
と、高い崖の上から、白いお仕着せのボーイが緩い坂を降りてくる姿が目に入った。わたしたちが宿泊し、海の家代わりにもしている湾沿いのホテルの従業員だった。
ボーイは坂の途中で海辺を見渡し、観光客らから離れたわたしと、湾の隅で這い蹲り、踏み荒らされていない珊瑚礁を求めている文彦を見つけた。
どちらにしようか、というように一瞬迷った後、ボーイは遠くの彼の方へと近づいていった。
文彦はボーイと言葉を交わすと、メモらしきものを受け取り、チップを渡した。こちらへ合図を送り、椰子の木陰に置いた荷物からバスローブを取り出している。
わたしは水を掻き分け、ようやく砂浜に戻った。
「ちょっとホテルに帰る」
メモを片手に夫は言った。
「日本から急用の電話があったようだ」
ごま塩の無精髭がぽつぽつと目立つ、日に焼けた夫の顔には、特に表情はない。
「誰から?」わたしは訊いた。
「ローマ字で書かれているが、何だかよくわからないな。この番号にかけてみるよ。サムワン・ハズ・ビーン・デッド。誰か死んだらしい」
ここで待ってる、とわたしは言った。
彼は頷き、海を見やった。
「まだ引き潮だな」
潮が満ちれば、あの岩場の上まで水が来る。
浅い磯だが、思わぬ取り残しにあって慌てないように、と注意すると、彼はバスローブ姿で崖上へ続く坂を上っていった。
わたしは椰子の木陰へ戻った。ビニールバッグからホテルの白いタオルを出し、身体を拭く。
広い空にやや薄日が差しかけていた。
油断は禁物だ。日焼け止めを塗り直さないと、肩がひどいことになってしまう。
が、わたしはそのまま海辺に坐り込み、動かなかった。
いや動けなかった、と言うほうが正しい。
引き潮。
海を遠くへ押しやっている白い砂浜。
脇にそびえる岩の高い崖への連なり。
案内所周辺の観光客がやってこない、こちら側の視界は一枚の絵のようだ。陽に照らされた浜を小さな蟹が横切ってゆく。浅く砂を掻けば貝もいるだろう。夫がいた岩場の陰の辺りにはたいがい、奇妙な赤い縁取りのある金の星の形のヒトデが貼り付いている。
文彦が戻ったら、すべてを話そう。
わたしは唐突に決心した。
墓場まで持っていこうとしていたこと、もう二度と思い返すまいとしていたことを。
実際にはそれは、突然の心変わりではなかったかもしれない。
日本を離れ、緊張と恐れが薄らいだ後、再び抗うことのできない強い流れがそこへ向かわせていると感じていたのではなかろうか。
四ヶ月前、わたしは命からがら、ここへ逃れてきたはずだった。
長年にわたる母の行方不明、我が身に降りかかった災難、そしてさらなる肉親の死という悲劇に打ちひしがれた姿で。
それは確かに悲しみの仮面ではあった。が、その仮面の下で、わたしはやはり悲しんでもいたのだ。
そしてまたサムワン・ハズ・ビーン・デッド。
遺体が出たのだ。
しかも、こんなにも早く。
引き潮の遠い波打ち際は、ゆったりと美しく輝いている。
常夏のこの島で、あらゆる匂いは強烈に鼻腔をくすぐる。
潮の香に混ざるココナツオイルの甘ったるい匂い。熟したマンゴーに降り注ぐレモンの匂い。
遙か彼方から風に運ばれてくるそれらの香りもまた混ざり合い、記憶を蘇らせ、うち寄せる波のように、存在するすべてを揺さぶり続ける。
わたしは目を閉じた。
何事かを囲い込み、永遠に隠し続けることはできない。
あの十一月の晩。
四人の姉妹が顔を会わせた最後の機会となった。
あれからまだ一年と経っていないのが信じられない。思えば事の始まりもまた、横浜の自宅でのあの晩だったのだ。
始まりというのが何事かの終わりであり、結局は隠されていたものが露わになりはじめる、ということとすれば、だが。
「いいリビングじゃないの」
五〇の半ばを過ぎた月子姉さんには、さらなる貫禄が加わっていた。この長姉の認知を受けないかぎり、万事、本当には完了しない気がする。
「そりゃ楡木子姉さんは、センスも抜群だもん」
末妹の夾子が、我がことのように自慢してくれる。ピンクのスーツに髪を肩に垂らし、格好は少女めいているが、考えてみればもう彼女も四二歳だ。運動好きで骨太な体格に、厚い脂肪が付きかけている。
「なんか変な匂いのすっね」
自分では嫌味のつもりなのだろう、三女の好女子は熊本訛りを剥き出しにする。上京してくるたび、ホテルやデパートでは失笑ものの気取った標準語を使うくせに。
「別に、あんたたちのために焚いたんじゃないわ」
間髪を入れずに答えた。好女子を図に乗らせると、言いたい放題になるのだ。
「夕方の残り香よ。ハニーサックル、忍冬。朝はいつもジャスミン。目が覚めるから」
「ふん。一人暮らしで優雅なこつ」と憮然と呟き、好女子は革張りのソファにそっくり返る。
「ほんと、文彦義兄さんはついてないね」
取りなすように夾子がはしゃいだ。
「新築早々、勤め先が変わるなんて」
もう何度も来ているのに、夾子はブルーのカーテンや壁の貝飾りをさも珍しげに眺め、「ここも海辺のリゾートみたいなのに」と言う。
「まあね。内装のコンセプトはそんなところよ」
夫の両親の所有だった古い借家を壊し、建てたこの家は広くはないが、やや小高い丘にある。
一階の窓からも抜群の眺めと風通しを保つ設計が自慢だ。天井は高く吹き抜けさせ、間接照明を多用した。二階ダイニングの室内樹の影は、階段越しに階下のリビングにとどく。
文彦のホノルル大学への赴任は念願だったものの、新築年内に空き家にすると税金のロスが生じる。わたしだけやむを得ず日本に残ったはずが、一人暮らしの快適さは想像以上だった。
さらに自宅で始めた英語劇教室が思わぬ評判を呼び、そうなると税の縛りが解消しても、すぐさま夫の後を追う気は失せていた。
「さっきねえ、好女子姉さんと中華街で食事したのよ」
勤務医の夾子がわざわざ昨日から休みを取り、上京してきた好女子に付き合ったと言う。
常日頃、面倒見のいい末妹ではあるが、どことなく嫌な予感がした。
月子姉さんもそう思ったか、訝しげな目線で見やっている。
JR大森駅近くで医院を開業する月子は、今までこの家を見に来る暇もなかったほど多忙だった。それを今夜、拝み倒して呼んだのも夾子だという。
「餃子が美味しかったー。月子姉さんと楡木子姉さんも、来たらよかったのに」
空気を盛り上げるかのように、夾子は一段とはしゃいだ声を上げる。
「金曜は無理よ。英語劇の教室があるもの」
「えーえ、ごたいそうな先生だもんね」
ずっと不機嫌な好女子が、ついに口火を切った。
夾子は途端に、諦めたように黙り込んだ。
やはり、こいつが台風の目だ。
わたしは好女子を横目で見た。今回、夾子から知らされた好女子の上京は、どこか気象警報の気味もあった。
「なに、さっきから仏頂面して。わたしに言いたいことでもあって来たわけ?」
「そら、いくらっでん、あったい」
好女子は身体をねじ向けた。
「なんが教室、ね。医者以外も先生って呼ばんならんかね。がっこのせんせでもなかところに」
のっけから、なかなか痛烈なアッパーだ。
「それはそれは。ふん、またえらい張り込んだ服ば着てから、都に親の敵でもおるね?」
わたしはとりあえず、ぴしゃりと返した。こういうときには熊本弁に限る。好女子のやたら高価そうな、田舎仕立てのやぼったい花柄をじろじろと見てやった。「腹の突き出てから、中華街で食べた餃子が化けたっじゃなかね?」
めかし込んだ好女子に、それはややツボにはまりすぎたようだった。
「親の敵てちゃ、楡木子姉さんのこつよっ。あの新聞の記事は何ね?」
「どの新聞?」と、わたしは惚けた。
「最近、執筆依頼が多くてね。本来、せんせじゃなくて物書きだから」
「は。物書きてねっ。芝居の台本だけ書いとったらよか。母さんのこつば、あぎゃんして」
わたしは腕組みして立ち、「ああ、あれ」と頷いてみせる。
月子も夾子もソファに浅く掛け、無言のままだった。
「随筆の締め切りが迫っちゃってね。何も思いつかなかったから」
「そぎゃんこつで、家の恥ば」
「へえ、行方不明が恥なの」わたしは開き直った。
「皆が知っている、単なる事実じゃないの」
「うちの近所では誰も知っとらん」と、好女子は叫んだ。
「孫の世話しに、横浜におることになっとる」
「あんた、そんな嘘を」と、月子が呆れ顔で口を挟んだ。
好女子は振り向きざま姉を睨みつけた。
「月子姉さんな、黙っといて。いつも我関せずでしょうがっ」
いまや餃子というより、蒸かしたての肉饅めいた好女子の頬は、小刻みに震えさえしていた。
「あんたら三人、こっちに出てきてお気楽だろうが。うちの亮吉さんはね、熊本の産婦人科学会で役員ばしとらすとよ。県医師会にはまだ父さんの知人のおんなはる」
それがどうしたのよ、とわたしは呟く。
「ただでさえ噂のあっと」と、好女子は喚いた。
「父さんの亡くなってから、お母さんの、証券マンや鍋のセールスマンを出入りさせて」
「そりゃ営業には狙われるわよ。六〇過ぎて男と逃げたって話なら、むしろ信じたいわね。尊敬できるもの」事もなげに、わたしは言ってやった。
が、好女子の表情はさらに凍りついた。
「楡木子姉さんと月子姉さんな、自分のほんとの母親と違うけん、ふしだらしても構わんと思っとらすと。近所でその噂のあったけん、警察もなお相手にしてくれんもん」
「捜索願はちゃんと受理されたよ」夾子がなだめた。
「好女子姉さん、誤解しなさんな。楡木子姉さんの新聞に書いたつは、母さんの行方の手がかりの少しでも集まれば、って考えからたい。あたしはそう思った」
縋るように、わたしの顔を見上げる夾子に、つい肩をすくめた。
「まあ、近所にも隠してたんじゃ、行方なんかわかりっこないね」と、突き放した月子に、「言って回って、何のいいことのあるっ!」と好女子は噛みついた。
「全国版の新聞で公表したら、嫌がらせだの、悪戯電話だのしてくっとが、熊本ん者に限らなくなるだけたい」
「世の中の人間はね、」わたしはごく静かに応えてやった。
「そんなに暇じゃないのよ。あんたと違って」
「楡木子姉さんも心配しとらすとよ、」
激怒する好女子を抑え込もうと、夾子は声を張り上げた。
「母さんな、楡木子姉さんに話があるって言ったまま、いなくなったけん」
「は、心配ばしとらすと?」
好女子は、わたしを冷酷な目で見据えた。
「そぎゃん家族思いだったとは。なら、都合のよかこつばかり心配せんと、赤ん坊の弟ば殺したことも反省せんね」
「もちろん、反省してるわよ」
わたしの腸は煮えくり返った。この馬鹿が、いずれそれを持ち出すのはわかりきっていた。
「その件も、どこかに書いたと思うけど。ええと、週刊誌かしら」
姉妹たちは一瞬目を剥き、顔を見合わせた。
「抱っこして、わざと階段からつこけたら、三日後に死んじまった。あたしも子供だったから、叱られもしなかった、って」
「いいかげんにしなさい」
月子が押し殺した声で言う。
爆発寸前、要注意の兆候だった。
「好女子」と、姉は向き直った。「近所の目が気になるなら、そんな人聞きの悪いことは二度と言いなさんな」
「それから楡木子」と、鋭い視線が走った。
「何を書こうとあんたの勝手。だけど、これ見よがしに露悪的になる必要があるの?」
「そうよ、これ見よがしよ」
好女子は叱られても、へこむ神経すらない。
「ああ、かわいそうな赤ちゃん。産婦人科医として心が痛むわ」
「好女子姉さんは医者じゃなかでしょ」
うんざりした顔で夾子が呟く。
「なん、産婦人科医院の院長の妻として、たい」と、好女子は言い返す。
「それで何なの?」月子はもっとうんざりして首を振った。
「こんな喧嘩のために、わたしを呼びつけたんじゃないでしょ?」
「そうなの、実は、」
と、息を吸い込んだ夾子を、「わたしはもう聞いた」と好女子が遮った。
「それで上京してきたったい」
好女子の偉そうな物言いには実際、反吐が出る。
(第01回 第一幕 前編 了)
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