月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第一幕(後編)
わたしは立ち、ダイニングへの階段を上った。吹き抜け越しに、リビングの会話は漏らさず聞こえてくる。
「好女子姉さんには、反対されちゃったんだけど」
言いよどむ夾子に、わたしは階上の手摺りから身を乗り出した。
「なんなのさ、じれったい」
上から見下ろすと、長椅子に好女子と夾子、一人掛けのソファに月子と、三つの頭が直角三角形の頂点を成している。
苦もなく細身を保っているのはわたしだけで、他の三人は、好女子、月子、夾子の順にもはや太めの部類だ。月子をさらに二まわり膨らませ、知性と威厳を取り除くと、なぜか腹違いの好女子そっくりになるのには笑ってしまう。双方とも父親似とは言えず、父の女の趣味が変わらなかった、と軽口を叩かれる所以だった。
「結婚しようと思うの」
夾子がそう告げるのを、紅茶ポットに湯を注ぎながら聞く。
「誰と?」
月子の口調は平板で、軽蔑的に聞こえた。
わたしは盆をかかげて階段を下りながら、「誰と?」と問い直してやった。やや意外そうなニュアンスを加え、英語劇教室の台詞直しの要領だ。
「あのね、病院の同僚で」
やや安堵したように、夾子は答えた。
「ドクターなのね」
万事に賢い姉は、親身な感じを添えて尋ねた。
「そんならよかばってん、」
好女子が口を出した。「夾子にドクターが捕まえきるもんかね。男の看護婦てだもん」
「男の看護婦?」
月子はオウム返しに呟いた。「あのね。看護師って言うのよ、今は」
「師って、何の先生ね?」
「あんたねえ、」
厳しくたしなめようとした月子に、「患者さんな、どんな師に便の始末ばしてもらうね? あっちもこっちも、せんせにばかり囲まれちゃ、うっかり歳もとれんね」と、好女子は吐き捨てた。
後にも先にも、好女子が月子を黙らせたのは、このときしか記憶にない。
実際、看護婦という言葉が使えなくなってから、ナースという片仮名をよく耳にする。以前、看護士と呼んだ男性ナースは看護師と書き換えるしかないが、患者さんに直接触れ、世話をする仕事の内実をむしろ侮辱している、弁護士を弁護師にしろとは言われないが、などといまだにぶつぶつ囁かれている。
「で、いくつぐらいの人?」
四つのカップに紅茶を注ぎながら、わたしは訊いた。
「二〇歳」なかば独り言のように、夾子は呟いた。
「二〇、ですって?」
月子の台詞に含まれた驚きのニュアンスは、今度は過剰だった。
「そぎゃんこつまでは、聞いとらんだった」
好女子も呆れ果てた顔で言う。
「なんて。二〇てね」
「初老の男性看護師って、あんまり聞いたことないものね」
わたしはとりあえず、フォローに努める役回りとなった。
「で、入籍するつもりなの?」
我に返ったように、月子が確かめた。
「あんた、人一倍苦労して、やっと医者になって、今さら結婚しなくても」
「そぎゃんたい、お金もかけて」
ここぞとばかり、好女子は持ち合わせてもいない分別を振りかざす。
「だいいち、相手の本性は見極めたつね?」
「見極めるって」
夾子は振り返った。「ずっと一緒に働いてるのよ」
「ふん。倍以上の歳の女医と結婚したがる男の看護婦って、どんな人間?」
「そんな言い方、やめて」
夾子は好女子を睨んだものの、気弱くうつむいた。
「ま、結婚したいのは夾子なんだから。相手を責めても仕方ないわ」
そう呟く月子の言葉尻を捕らえ、「そぎゃんね、」と好女子は心底馬鹿にしたように言う。
「逆玉のチャンスを逃せっても、無理たい」
「玉って、なんね」気がつくと、わたしは戦意満々で口を挟んでいた。
「夾子との結婚が、玉の輿って。思い上がりにもほどがあっと」
「そりゃ楡木子姉さんは、ね」
好女子は薄笑いを浮かべた。
その舌なめずりしそうな顔を、わたしは今でも忘れられない。
「人間を診るんでなしに、動物ば扱う人と結婚した変わり者だけん」
なるほど、とわたしは頷いた。
「それが言いたかったわけね」
この腹違いの愚妹は、いつかその言葉を使ってやろうと、機会を窺っていたに違いない。
「あのね、文彦さんはね、」怒りで声が震えるのを抑えきれなかった。
「あんたみたいな低次元な人間より、亀と話してる方が幸せなのよ」
「ふん。だったら、楡木子姉さんも亀並みってわけね」
好女子はすぐさま言い返した。
こんなときばかり頭の回転が速いとは、どういうことだろう。
いや、違う。こんな台詞は準備していたに決まっている。
そもそも好女子が落第した県立高校で、卒業まで主席だったのは月子だし、ずっとミスの座を占めていたのはわたしなのだ。
亀だろうと豚だろうと、容貌を侮辱すれば仕返しは簡単だった。が、その造作はすぐ脇に坐る月子とほぼ同じときている。
「ねえ、やめてよ」
夾子は掌を合わせて懇願していた。
「彼は経済的理由で、高校中退して看護学校に入ったの。そこらの大学より難しいのは知ってるでしょ。一度で受かったのよ、優秀なの」
「無論、そうでしょうよ」月子が突っぱねた。
「放射線技師だって、今は下手すりゃ医者より高給取りだもの。だからね、看護師がどうこう言ってるんじゃないの」と、長姉の威厳そのもので言い切る。
「自分のしていることが、わかってればいいんだけど」
「冗談じゃない」
突然、好女子が頭を振った。
「結婚なんかしたら、美希はどうなるの。引き受けた以上は、責任持ってよ」
「ついに本音が出たわね」
この報復の機会を、わたしは見逃すわけにいかなかった。
「子供に責任持つのは親でしょ。まさか我が子の面倒を夾子に見させるために、結婚に反対してるんじゃないでしょうね」
「あら。子供のない人に説教されることはないわ」
こういうときの好女子の図太さは、まさに瞠目すべきものだ。
「母親として、いつだって美希のためを思っとるけん。美希に熊本は土地柄が合わんもん。横浜の水で体調がよくなったつよ」
「土地柄だの、水が合うだの、院長の妻とやらにしては非科学的ね」
わたしは肩をすくめてみせた。
「なん、ちっとばかり注目されたからって、教育のプロ面してから」と、好女子はせせら笑う。
「どぎゃん理論ばこねたところで、それの正しかこつを証明するには立派に子ば育てなん。空しかこつ」
「そう、だったら、」わたしも覚悟を決めた。
「可愛い娘が熊本の我が家で、母親と一緒にいると気が変になる、ってのはどういうことを証明してるの?」
「美希は気が変じゃないわよっ!」
好女子は頭を掻きむしった。
「またそんなこつば言うて、楡木子姉さんな、一族に汚名ば着せっと。もう許さんけん、決して許さん」
「は、一族てね」今度はわたしが落ち着き払い、鼻で嗤う番だった。
「田舎の町医者一家ふぜいに、そんなご大層な言葉、いつから使うようになったかねえ」
わたしの知るかぎり、それこそが妹にとって致命的な台詞だった。
好女子の顔色は文字通り、すうっという音が聞こえるように青ざめた。
無言で立ち上がると、腰を激しく振りながらリビングを横切り、凄まじい音を響かせて玄関を出ていった。
夾子もまた、慌ててその後を追った。実際のところ、好女子だけでは最寄り駅の場所もわからないに違いなかった。
月子は黙って、ソファの背に頭をもたせかけていた。
「ごめんね、姉さん」
月子は視線を外したまま、首を横に振る。
「だから来たくなかったのよ。こうなる気がしていたもの」
そうだろうか、と、ふと思った。
わたしと好女子の喧嘩は、今に始まったことではない。
歳の離れた月子は、子供の頃から格の違いを漂わせていた。
九大医学部に現役合格した優秀な長姉は、妹たちを睥睨するとともに細かな気配りもしていた。母に対してはやはり距離感があったが、それは実母の記憶がそうさせるに過ぎなかったはずだ。
それが妹たち、同腹のわたしに対してすら冷たい印象を与えるようになったのは、いつの頃からだろう。
「あの子はどうして、ああなのかしら」
その姉がふと、昔のように物思わし気な口調で呟いた。
「好女子のこと?」
「あれはもう今さら」
月子は空のティーカップを掌で温めるようにして苦笑いした。
後添えの母の最初の子である好女子は、なんのかの言っても甘やかされ、近所でちやほやされていた。そのせいで、おめでたい体裁屋になったのだ、と二人でよく悪口を言い合ったものだ。
「いちいち取り合うあんたが悪いの。そうじゃなくて、夾子よ」
そうだった。
わたしは自己嫌悪に陥った。
夾子の話はどこかに吹っ飛び、わざわざ皆を集めた骨折りが無になってしまった。それは確かに、わたしが仕掛けた喧嘩のせいだ。
月子はゆっくり頭を振った。
「十四年も浪人して、やっと医大を出たと思ったら、好女子の娘を引き取って世話して。それが今度は、ガキみたいな男を抱えようなんて」
「若い男を追いかける血筋って、言われるかもね」
姉はただ、嫌そうに眉をしかめた。母に関する冗談はまるで通じない。
「まあ、苦労性なのよ」
わたしは肩をすくめた。「生まれつきの性格はどうしようもないわ」
「あんたもよ」と、月子は息を吐く。
「昔から、火中の栗を拾いたがる。死んだ弟のこと、本当に書いたの?」
わたしは曖昧に頷いた。
とはいえ無論、さっき言ったような書き方をしたわけではない。
「あれは今で言う乳幼児突然死よ」姉はきっぱり言った。
「あんたが落っことしたこととは関係ないって、検死報告も出てる。こればかりは好女子の言うとおり、不特定多数が読むものには気をつけなさい。人の口は怖いんだから」
人の口は怖い。
もう、たくさんではないか。地方の開業医だった実家で、わたしたちはさんざんそれに振り回されてきた。
「田舎の町医者一家ふぜい」という言葉が好女子を深く傷つけるのも、地元の短大を出て産婦人科医に嫁いだ本人の過去と現在、両方の体面と劣等感に関わるからだ。
「後妻でん何でん、医者どんには違いなかけん、玉の輿と思いなはって嫁入ったところに、やっぱり劣り腹の娘たちな」
そんな近所の陰口をしかし物ともせず、夾子は国立大医学部を十四年間、受験し続けた。父親っ子で、彼女の憧れは月子だった。そのせいか、この末の妹に対しては母が違うことは意識に上らない。
父が亡くなった年、夾子は初めて私立医大を受け、親族皆でそこへ押し込んだ。
三〇分ほど経つと、月子はわたしにタクシーを呼ばせた。
昔の姉を思い出させたのはほんの一瞬だった。月子がここに残ったのはただ、下の妹二人が完全に消え去り、気が落ち着くのを待つためだったようだ。彼女がそそくさと戻った先は、夫と二人で建てた鉄筋五階の医院だ。そこは確かに彼らだけの巣で、故郷とは何のしがらみもない。
わたしはティーセットを片づけ、もう一度、ハニーサックルのインセンスに火をつけた。
リビングに広がる、伸びやかな甘い香り。
血縁のうっとおしさの残滓を一掃するかのようだ。
数十年前、継母に男児が生まれたのは、よくある話で、月子が婿養子を迎えて間もなくだった。遠慮するかたちで姉夫婦は実家を出たが、その男の子が亡くなっても、もはや帰って来ることはなかった。
故郷と距離を置いたことが月子に自由を与えたのはわかる。が、母が行方知れずになってなお、姉の冷たい無関心は理解を超えている。
実母が亡くなったのは月子が十歳過ぎ、わたしが一歳の頃だ。月子と違い、実母の記憶がないわたしには、継母のフミがすなわち母だった。
インセンスが消えかかっている。もう一本取り出し、火を点けた。
ハニーサックルが三本。
それが今日一日のストレスの量に匹敵する。
翌朝はよく晴れていた。
珍しいことに、午前中からリビングで原稿に集中できた。
隔日の英語劇教室は、土曜はオフだ。たまたま依頼原稿も途切れ、こんなタイミングを逃すと、まとまった仕事はできない。
新築のこの家を舞台代わりにと思いつき、一年前から始めた児童英語劇教室は、マスコミに取り上げられて生徒が増えた。
学生劇団の女優上がりのわたしは多少、テレビで映えるのか、取材は後を絶たなかった。また脚本の執筆に四苦八苦し、物を書くのに慣れているせいか、雑文の依頼が相次いだ。ここへきて本業とするオリジナル脚本も、老舗の演劇雑誌が掲載を検討するという。
まさに瓢箪から駒、という状況だった。
小銭稼ぎのサイドビジネスと割り切っていた英語劇教室の台本も、そうなると手は抜けない。ギリシャ悲劇を適当にアレンジするのは当初のままだが、どの子の親にも不満を抱かせないように気を使う。
昼食もそこそこに夕方までパソコンに向かい、教室の準備がどうやら一段落すると、ダイニングでお茶の用意にかかった。ビタミンCたっぷりのローズヒップティにしよう。
電気ポットの湯が沸く間、今朝から新聞を取り込むのも忘れていた、と思い出した。
ベランダを出ると、夕暮れどきの空気はひんやりと気持ちがいい。
今日はいつになく調子が出ている。お茶で気分が変わったら、夜にかけてオリジナル脚本の手直しに取りかかろう、と考えた。
演劇雑誌の編集部に見せたのは、北九州の母校の大学劇研に提供していた作品の一つだった。
幼なじみの男と、再会した女の愛憎劇。
自信作なだけに感触は悪くなかったものの、女の激しい怒り、抑えつけていた感情が、今ひとつ伝わりきらないと言う。
何かしらの仕掛けなど、発想の転換が必要だった。
狭い庭から玄関に回った。朝刊の入った木枠の隙間には、すでに夕刊も窮屈そうに詰め込まれている。
郵便受けに美容院と宅配寿司のチラシ、電気代の請求書と、封をされていない白い封筒が入っていた。
わたしは脇に新聞を挟み、封筒の中の薄い紙を取り出した。
「人殺しの家族め」
ワープロ文字でただ一行、そう書かれていた。
(第02回 第一幕 後編 了)
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