風邪ひいているしゃぼん玉あるかしら
春光をゆく暗闇をゆくごとく
摩天楼だろうか蜃気楼だろうか
桜散る見えないものに触れながら
夏帽に亡き人の手の記憶あり
ソーダ水こぼれてすこし濡れる宇宙
月野ぽぽな「見えないもの」
句誌を読んでいると、どうしても俳壇では一般的ではない書き方の俳句を探してしまうところがある。簡単に言うと、上手い俳句とはどういうものなのか、を考えてしまうのだ。
現代俳句の神様である虚子流に言えば、上手い俳句、優れた俳句は「上善は水の如し」ということになるだろう。つっかかりがなくてスラリと読める、しかし詳細に吟味すると味わいがあるということだ。
それは確かに一理ある。虚子の俳句は淡い。基本は写生であり、写生の徹底の中でほんのりと作者の主観が表現される。思想的にも技巧的にも「私が、私が」の強い自我意識表現とは無縁だった。
それは少なくとも大正から昭和初期の俳句界では正しい方向性を持っていた。虚子のほとんどエクリチュールの零度と呼べる淡い俳句から、離反したとはいえ、秋櫻子を始めとする数々の俊英が育っていった。虚子俳句がなければ現代俳句の基礎となった新興俳句などは生まれなかっただろう。虚子写生俳句が現代俳句の基盤になっているのは間違いない。
ただ大正・昭和初期の現代俳句は虚子「ホトトギス」との対立関係にあったという、その構造をもっと考えてみるべきだろう。現代は常に変化している。俳句もまた現代と無縁ではいられない。現に東日本大震災、コロナ禍などを表現した俳句はたくさん書かれている。しかし表現として食い込むものが少ない。虚子は関東大震災は俳句にならないとあっさり切り捨てたが、その方が正しいのではないかと思ってしまう。時事ネタでは人間の苦悩が表現の中心になる。花鳥風月、つまりは四季の移り変わりを表現の中心とする俳句と相性が良くない。
今現在の俳句表現は、急速に虚子的俳句に揺り戻っている。もう少し正確に言えば虚子プラス秋櫻子である。秋櫻子は虚子に離反したとは言え、基本は虚子「ホトトギス」門である。彼の句法は風景の内面化だ。花鳥風月的な風景を写生するのではなく、作家の自我意識フィルターで風景をモディファイして表現する。それがじょじょに新興俳句の強い自我意識表現になっていったわけだが、そうなると秋櫻子や誓子は引いた。新興俳句と距離を取った。
現在書かれている俳句の多くは秋櫻子的な句法の延長線上にある。虚子を神格化する俳人は多いが、虚子ほど徹底した写生俳句はほとんどない。比喩的に言えば虚子と新興俳句の中間表現で、花鳥風月の内面化によって作家の自我意識を表現しようとする。そこに虚子的なるものの強さがある。基本は花鳥風月ということである。
月野ぽぽなさんの俳句は明らかに俳句界の大勢とは違う。ただ慎重に一時期流行した口語俳句と距離を取り、現代的花鳥諷詠俳句とも距離を取っている気配だ。一つの書き方を完成させているのかもしれないが、これはこれで表現に限界があるような気がする。虚子的な俳句基盤に無駄に抗うことなく現代を表現するのはなかかな難しい。
季語には二つの要素があります。一つは四季の国の繊細な感情移入を容易にする表現技法です。もう一つは俳句文芸の根底にある自然随順の思想です。じつは無季俳句の誕生は現代俳句の思想的エポックなのです。福島原発事故が象徴するように、自然破壊を進めた人間は四季の循環から逸脱しています。二十世紀以降、自然随順は絵空事です。それが無季俳句の思想、ものいわぬ反省の哲学です。厳しい現実に対峙する時、無季俳句が生まれるのは必然なのです。無季こそ現代の裸の心臓が匂う俳句かもしれないのです。
乳母車押すふるさとは水の彼方 42歳『幻燈』
幼くて漂白の毬抱いてくる 55歳『海程』
震える手はるかな星へ起きあがり 60歳 未発表
(林田)紀音夫には十三歳からの有季定型の長い修行時代があり、それらの俳句を捨て去ったあとに無季の独自の文体を創った凄みがあります。それは、季語と文語定型の快美からの遁走でした。立ちすくむことを選んだのです。朗読にも句碑にもおよそ不向きなその俳句は、孤独な一人が一人へつぶやく口碑なのです。
恩田侑布子「宙吊りの玻璃―未曾有の戦期文学 林田紀音夫 連載 偏愛俳人館 第6回」
「二十世紀以降、自然随順は絵空事」であり、そんな「厳しい現実に対峙する時、無季俳句が生まれ」たという恩田侑布子さんの指摘は正しい。「無季俳句の誕生は現代俳句の思想的エポック」である。
ただ一方で俳句は「季の国の繊細な感情移入を容易にする表現技法」であり、「俳句文芸の根底にある自然随順の思想」に従順な表現だということはまったく変わらない。そこに俳句に現代詩などの表現を取り入れても一時の新し味で終わってしまう理由がある。
俳句には普遍的と言っていい基盤があり、簡単に言えばそれは花鳥風月――つまりは「自然随順の思想」である。冬の後には春が来るのであり、雨の後には晴れ、夜はいつか明けるのだ。その大いなる世界の循環性の前では個など芥子粒である。四季の移ろい、つまりは虚子が説いたように花鳥諷詠に終始すればそれで良いということになる。
しかし一方で現代では「自然随順は絵空事」である。現代社会には大いなる自然の循環性に棹さすような苦しみ、矛盾が満ちている。それらは自然の循環性に抗うような人間的意志がなければ乗り越えられない。しかし俳句ではそれが難しい。作家が俳句で強い自我意識を表現すればするほど、技巧的にも内容表現的にもそれは俳句文学を逸脱してゆく。
恩田さんは「多様性の点から無季否定派がいてもいいですが、専横に任せれば一種の全体主義です。文法を含めた表現狩りは俳諧精神を萎縮させ、俳句という文学を衰弱させましょう」とも書いておられる。この地点からが現代俳句のアポリアであろう。
恩田さんが林田紀音夫論で書いておられるように、優れた無季俳句は決して俳句基盤を壊そうとしていない。むしろ従来的な季語に代わる作家個々の〝絶対季語=絶対言語〟を見出す試みである。そんな絶対言語は従来の季語と同義の強さを持っているからこそ、季語必須の俳句界以外の一般読書界で、山頭火を始めとする無季俳人の句が愛されるのである。問題は形式にはない。俳句思想をどう原理的に捉えるかである。
岡野隆
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