特集タイトルの「金子兜太の真実」は、言ってみればジャーナリズムが好むキャッチーなネーミングである。もち兜太に限らない。特集タイトルはそういうものだ。
ただ兜太は平成三十年(二〇一八年)に九十八歳でなくなったので、兜太論を書きやすくなった面があるだろう。小林秀雄は「死んだ文学者の輪郭はハッキリしている」という意味のことを書いたが、確かにそうだと思う。生きている文学者は当たり前だが一個の活動体である。たいていの場合は壮年期に重要な仕事をして、その延長上で活動している。しかし原則を言えば生が尽きるまで新たな仕事を為す可能性を秘めている。もちろん気力体力が衰える晩年に優れた仕事を残した作家は少ない。むしろ「あー、やめときゃいいのに」という仕事をして、全盛期を知る読者をガッカリさせることの方が多いかもしれない。では兜太は読者を失望させたのか。これに関してはそれはなかったと言っていいと思う。兜太は最後まで兜太だった。立派なことである。
金子兜太は、戦後七十年余の歴史と戦争体験の貴重な生き証人であり、時代の牽引者、何よりも全人間的な生まの存在者でもあった。このような金子兜太の時代ともいうべき人気は、なぜ続いたのだろうか。
第一に、戦後俳句を担った著名俳人のなかでも傑出した生命力の持ち主であったことがあげられる。(中略)
第二に、文化交流メディアとしての行動力と資質を備えた語り部であったこと。(中略)
第三に、戦争と戦後俳句の生き証人としての体験を今日の問題として捉え返す見識の持ち主であり、その時代の体験者ならではの説得力が感じられたこと。(中略)
第四に、幅広い選句眼と感性豊かな鑑賞で、多様化の時代に方向性を打ち出せる数少ない指導者の一人であったこと。(後略)
安西篤「総論 金子兜太の生涯と俳句」
特集では兜太主宰の句誌「海程」の編集長を務められた安西篤さんが総論を書いておられる。必要十分な内容だが、安西さんが挙げておられる兜太人気のうち第二と第四は、兜太がやらなくても肩代わりしてくれる俳人がいくらでもいるはずだ。兜太で特筆すべきなのは第一の「傑出した生命力の持ち主であったこと」―長生きであったこと、それに第三の「戦争と戦後俳句の生き証人」―従軍派で生死の境を見た人だったことにあるだろう。特に第一の長生きであったこと=生命力の強さは兜太文学で大変重要な要素だと思う。
戦後文学にはマチョイズムの流れが確実にある。現存作家で典型的なのは石原慎太郎さんだ。作家として著名なだけでなく、参議院議員を長く務めた後に東京都知事を四期も務めた。最近は露出が少なくなったが、テレビなどに出演しても自宅のリビング、あるいは飲み屋でくだを巻いているオヤジのような乱暴さだった。次男の石原良純さんはタレントになったので、バラエティ番組で「ウチのオヤジがいかに横暴で非常識か」を面白おかしく語ったりもしていた。まあホントなのでしょうね。ただ慎太郎さんは絶大な人気を誇った作家であり政治家である。
僕は慎太郎さんが東京都知事に立候補した時に――ギリギリで立候補を表明した――高田馬場駅前を歩いていた。宣伝カーが「まもなく石原慎太郎が高田馬場駅前で演説します」とスピーカーで告知しながら走ってきた。ノンポリなので「へー」と思っただけだが、僕と同じ方向に歩いていたサラリーマンのかなりの人数が、踵を返して早稲田駅の方に戻っていった。あれは驚いた。「これは当選するだろうな」と思った。
慎太郎さんは昭和七年(一九三二年)生まれだから戦中派である。終戦時には中学生だから当然従軍して戦地を見たりしていない。しかし日本の敗戦と戦後の焼け跡は慎太郎少年の心に大きな傷として残った。よく知られているように慎太郎さんは昭和三十一年(一九五六年)三十二歳の時に『太陽の季節』で芥川賞を受賞して人気作家になった。ベストセラーとなり太陽族を生んだりもした。
『太陽の季節』は今読むとなんてことはない青春残酷小説である。ただこの小説が風俗的ブームにまでなったのは、『太陽の季節』に描かれた少年少女たちが小説の舞台となった湘南や東京の一部にしか存在しない特権的人々だったからである。金銭的にも性的にも彼らは自由で残酷だった。しかし日本のほとんどの地域はまだまだ保守的で、戦後復興という名の貧困から抜け出したとは言い難かった。
『太陽の季節』は今でも優れた戦後文学として論じることができるが、あの小説で描かれているのは登場人物たちの弱さに立脚した強さである。ただ弱さが強調されることはない。それは〝残酷〟という形の強さで覆い隠される。少女は弱者だがその死は攻撃的だ。少年は攻撃的だが自傷的だ。彼らはいわば弱さに蓋をして残酷に前を向く少年少女たちである。
この弱さから始まる向日的な強さが戦後マチョイズム文学の一つの在り方である。慎太郎はあえて金にも女にも不自由しない若者を主人公にしたと言っていい。しかし女は思い通りにならない。傷ついても主人公はサンドバッグを殴り続けるしかないのである。戦後マチョイズム文学の代表作家である三島由紀夫が、けっこうしつこく『太陽の季節』を論じている。
SNSが発展した今では、反・石原慎太郎の声の方が大きく聞こえてくる。老害、勘違い老人、不正政治家etc.と慎太郎さんを批判する声はネットに溢れている。しかし慎太郎さんは今でも多くの人たちに支持され愛されている。なぜか。彼が戦後を体現した代表的作家で政治家の一人だからである。戦後は敗戦の傷から始まった。それに抗うのは金であり豊かさであり肉体的強さであり立身出世であり、何よりも戦い続ける強い意志である。
社会に不満のある人は大声で叫んだりする。それが容易になった今ではSNSに「ベキちゃん」が溢れている。コロナなんだから今すぐ街をシャットダウンすべき、今すぐ給付金を配るべき、菅内閣は今すぐ総辞職すべきetc.である。しかし声が通りやすくてもたいていの場合、それはマジョリティではない。マジョリティはサイレント・マジョリティである。そう簡単に現状を変えられないことを知っている。また自己の生活等々を他者に頼ることでは変えられないことを知っている。
慎太郎さんはある意味、あまりにも攻撃的かつ露骨に物を言うマジョリティの代表である。「んなビンボーくせぇこと言ってるからビンボーになるんだよ、てめーでなんとかしろ」くらいのことは言いかねない。こういった露骨だが向日的な残酷さを持った精神性は戦後文学に満ちている。有吉佐和子や松本清張の戦後のどん底から這い上がる人間たちがそれをよく語っている。金子兜太も同じだ。兜太は俳句界では珍しい戦後マチョイズム作家だと言っていい。
兜太の俳句は戦後前衛俳句だが、その表現の斬新さはひとまず措いておく。兜太文学で一番問題になるのは社会性である。社会性俳句の提唱者として知られるのは言うまでもない。じゃあ社会性とは何かというと、それは作家の個々の人間存在に収斂する。作家ごとに社会性は違う。だから兜太「海程」は、少なくとも表現に関しては意外なほど締め付けが緩かった。
もちろん兜太は老獪な俳壇政治家である。虚子方式で有力門弟に結社を持たせ、それを「海程」ファミリーとすることで俳壇に君臨した。ただ自己の死とともに「海程」を終刊させたのはやはり兜太らしい。また兜太は長生きだったが老いを感じさせなかった。最晩年には『私はどうも死ぬ気がしない』という本を出して僕らを呆れさせたりもした。マチョイズムの人である。
しかし兜太は切れ者だ。晩年の写真を見るとビリケンさんみたいで鈍そうに見えるが頭がいい。自らのマチョイズムの危うさを知っていた。兜太が芭蕉でも蕪村でもなく一茶をほとんど研究対象にするほど愛したのは知的な理由からである。一茶は敗者で強者だ。兜太は学ぶ。強いだけのマチョイズムでは作品が魅力的にならないことを知っていた。
酒止めようかどの本能と遊ぼうか
よく眠る夢の枯野が青むまで
ここまで生きて風呂場で春の蚊を摑む
定住漂白冬の陽熱き握り飯
津波のあとに老女が生きてあり死なぬ
白寿過ぎねば長寿にあらず初山河
死と言わず他界と言いて初霞
まず勢いを持てそのまま貫けと冬の花
河より掛け声さすらいの終わるその日
陽の柔わら歩ききれない遠い家
兜太後半生の句である。読んでわかるように、兜太は九十八歳の長寿を保ったが晩年のない作家だった。本が出た時は呆れたが、『私はどうも死ぬ気がしない』というのは兜太の精神性そのものだった。肉体の方がもたなかっただけのことである。
兜太は高柳重信と並ぶ戦後前衛文学の双璧である。重信は六十歳で亡くなったので晩年がないが、九十八歳で没した兜太も本質的には晩年はない。「よく眠る夢の枯野が青むまで」は芭蕉辞世への兜太的挨拶だろう。枯れることはないのだ。
つまり兜太は重信と同様、俳句界では珍しい自我意識文学(自我意識俳句)の人である。その意味で俳句界の大勢を占める広義の有季定型写生派とは鋭く対立する。重信の多行俳句を真似しても得るものがないように、兜太社会性俳句を真似てもたいていは付け焼き刃で終わるだろう。本質的に独歩の作家である。
岡野隆
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