月刊俳句界の特集は「虚子と立子」である。んー、碧梧桐の次は虚子で、星野立子とセットかぁとちょいと考え込んでしまった。立子は虚子の次女。明治三十六年(一九〇三年)生まれで昭和五十九年(一九八四年)没。享年八十一歳。女流俳人として初めて俳誌「玉藻」を主宰したことで知られる。女流俳人の草分け的存在である。橋本多佳子、三橋鷹女、中村汀女と並んで四Tと呼ばれることもある。もちろん「ホトトギス」門の男性俳人の四S、水原秋櫻子、山口誓子、阿波野青畝、高野素十の四Sに倣った呼び方だ。
ただ俳句作品だけみれば、四Tの中で立子がしんがりにならざるを得ないのではないかと思う。しかし俳壇ではこういった評価は実質的にタブーである。「虚子と立子」という特集を見て「麗しき親子愛、麗しき師弟愛」と思う一方で、虚子が作り上げたと言わざるを得ない俳壇の常識が、俳壇外から見れば異様なものに映るだろうなと思った。〝俳壇の常識は世間の非常識〟であることが非常に多い。でも俳人たちはほぼ誰もそれを疑問視したり異を唱えたりしない。
事実として虚子の子どもたちが創刊した俳誌は世襲である。長男年尾が継いだ「ホトトギス」だけでなく、立子の「玉藻」、五女高木晴子の「晴居」、六女上野彰子の「春潮」もそうだ。江戸時代から俳句結社はあったがほとんどの場合、一門の有力俳人が宗匠を引き継ぐことが多かった。現代俳句結社も同じで、結社存続のために門弟たちが力を合わせることはあるが世襲はあまり聞かない。なぜ虚子系の句誌だけが世襲なのか、これはちょっと考えてみていい引っかかりだと思う。
しかしこの検証は難しい。虚子直系の子孫が俳壇で隠然たる力を持っている句誌「ホトトギス」の主宰なのだから当然ですな。まあ言葉は悪いが虚子お爺さまのおかげで今日の彼らがあると言っても過言ではないわけだ。名家ではご先祖様を敬うのが通例だが、高濱家も同様である。虚子という人を相対化して捉えることができない。また門弟はもちろん、「ホトトギス」と無縁の俳人にもそんな相対化を許さないといった雰囲気がある。虚子は無条件に神格化されていると言っていい。
もちろん虚子は俳壇に大きく寄与した。大正昭和初期に活躍した俳人たちは、ほぼすべて何らかの形で「ホトトギス」系だと言っていいところがある。では虚子の何がそんなに偉大なのだろうか。句誌を読んでいると「虚子先生」のオンパレードだが、虚子の偉大さは今ひとつ伝わってこない。江戸の人たちが芭蕉を無条件で俳聖とみなしていたように、多くの俳人にとって虚子は俳聖でいいのだという了解が固く成立してしまっているようだ。
僕は物好きなので、毎日新聞社から出た虚子全集(正確には選集)を文字通り頭から尻尾まで読んだ。正直に言えば実に退屈だった。虚子の俳句は平板極まりない。最初期を除けば有季定型写生一点張りだ。俳論も退屈。虚子の俳論の代表作は「花鳥諷詠論」だが、あれは講演の再録である。それまで考えていたことをしゃべっただけだ。虚子は俳句は四季で移り変わる自然風物を詠む表現であるという彼の直観的真理を話したのだが、なぜそうなのかは明らかにしていない。おしゃべりの再録なのだから当然ですな。小説も退屈。虚子写生文小説がとてつもなく面白いという人は、かなりの変わり者だろう。
面倒くさいので引用はしないが、虚子は散文エッセイでも写生文小説でも「私」を頻出させる。文章の最初が「私」で始まることが非常に多いのだ。俳人たちの神様である虚子を貶すときっと怒られるだろうが、「私」で始まる文章は典型的に下手な文章であることが多い。「私」が書いているのは当たり前である。だから書き慣れてくるとそれを省略するようになる。するとグッと楽になり表現が拡がる。エッセイなどでも作家は事実を書くとは限らない。「私」の体験などではすぐにネタが尽きる。フィクション混じりの文章を書く方が原稿を量産できるし内容も豊かになる。特に小説などを書こうとする場合はまず「私」を消すことを意識しなければならない。
ところが虚子は晩年になるにつれてむしろ「私」が強調される。虚子ファンなら最晩年の「古帯」という小説(全集では小説に分類されているがエッセイだろう)を読んだことがあるだろう。「私は使い古したものはある限界までそのまま用ふることにしておる。もう古くなったから新しいものに更える、ということはあまりしない」で始まる文章だ。
で、どんな内容かと言うと、虚子が使っているボロボロの古帯のことを「玉藻」に書いたら、それを是非欲しいという門弟が現れて、てんやわんやの騒ぎになったというお話である。古帯の取り合いでは治まらず、髪塚ならぬ帯塚を建立しようという話にまでなった。虚子は「一日も早く古帯の土中に葬られんことを希望いたしております」で文章を終えているが、まーハッキリ言えば、虚子ファンでなければ勘違いしたイヤなおじいさんという印象を持つのではないかと思う。最晩年の虚子は押しも押されぬ大俳人で、勘違いしていた面があるのは確かだと思う。
よく知られた話だが、秋櫻子が離反した際に虚子は彼唯一の時代小説『厭な顔』を書き、自分を信長に、秋櫻子を信長に謀反した武将栗田左近になぞらえ、「『左近を斬つてしまへ。』/と信長は命令した。」で小説を終えた。秋櫻子への強烈な圧力であり、典型的な俳壇政治である。作家個々の対立で済む小説文壇や自由詩の詩壇と、俳壇は違う。よくやるぜ、と思いますな。
ちなみに秋櫻子は虚子「ホトトギス」の写生主義に反発したわけだが、虚子の代表的俳論「花鳥諷詠論」にも激しく反発した。「俳句は最短型の詩であるから、小説戯曲の華やかさには比すべくもない。しかし(中略)自ら「不景気な顔を出して」というようでは、自分の価値を自分で落としているようなものだと思った」と書いている。
虚子は関東大震災が起こった時に地震は俳句にならないと言い、戦時中は戦争は俳句で詠むには適さないと言い、戦後の桑原の第二芸術論に対しては第二でも第三でも第十でもかまわん、俳句の性質は変えることができないと言い放った。
ある意味虚子の「花鳥諷詠論」は、彼の深い諦念と絶望から生まれている。俳句が日本を代表する文学だという確信は持っていたが、それは明治以降の近現代文学では刺身のツマ、文壇の隅に追いやられる小さな表現だろうとハッキリ言っている。この諦念と、それと正反対の自我意識が肥大化したような「ホトトギス」経営、その世襲などは裏腹のものとして繋がっているだろう。
虚子のイヤな面を書いたが偉大な作家は毀誉褒貶の吹きだまりである。ただ虚子の場合、薄っぺらい賛辞はいくらでもあるが、その負の側面も含めて全体像が論じられたことがない。そして虚子の全体像とは写生俳句の否定ではない。それをやれば結局虚子に負けることになる。秋櫻子以下、多くの俳句俊英が比喩的に言えば虚子有季定型写生俳句に戦いを挑んで敗れ去っていった。これも面倒くさいので詳細は省くが、間違いなくそうなる。
虚子嫌いと思われたかもしれないが、僕は少なくとも虚子の〝俳句は有季定型で写生〟という直観は正しいと思う。もちろんそれを規則化してゆくと様々な問題が起こる。俳句の堕落が始まると言ってもいい。しかし虚子が定義したように俳句は文学でなくお遊び文芸であっていい面を持っている。ヨーロッパ近現代文学に倣った文学の定義では、捉えきれない部分を持っているのだ。その端的な現象的表れとして虚子は重要な検討対象である。反発するにせよ賛同するにせよ、俳人さんたちはこれからも虚子に悩まされるでしょうな。
石段に悲話あり蟬のむくろあり
道草といふ空白の秋しばし
日の沈む速度で歩く桜どき
八月の黙禱ピリオドは一つ
重力は時空の歪み青林檎
極月の墨の香淡き奈良にあり
白山の姫を敬い田草取る
鴨川の時間の中の春の鴨
今日あたり誰かの忌日白椿
わが五月昭和のままの二重橋
直線はときどき曲がる冬銀河
光年の中に夢あり釣忍
長峰竹芳句集『直線』より
俳句界の句集評で、石井稔さんが長峰竹芳句集『直線』の長い批評を書いておられる(「収斂の先に」)。長峰さんは昭和二十七年(一九五二年)生まれで「鷹」や「草苑」を経て、結社誌「好日」を主宰しておられる。大変申し訳ないのだが、初めて長峰さんの句を読んだ。驚いた。こういった俳人がいるんだなぁと感心した。『直線』は第四句集だそうだ。孫引きで申し訳ないが、魅力ある俳人である。
岡野隆
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