世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
三十七、クレプトマニア
半裸で布団に包まれながら起きた。身につけているのは、サラサラしていない自分のトランクス。その中で痛いくらいに反り返っているのは、やらしい夢のせいではない、と思う。寝る前に安藤さんと顔を見ながら電話していたことも関係ない、はずだ。
心当たりがあるとすれば、それは山本寛十郎。特にやらしい感じではなかったが、たしかにさっきまで彼女の夢を見ていた。これは夢だと気付きながら夢を見続ける、あの変な感じがまだ残っている。でも覚えているシーンはひとつしかない。俺が安太のことを尋ねている場面だけ。
「いつ頃会うのが良いでしょうか?」
「出来るだけ早いうちに、そうして下さい」
そんな内容の会話を、場所や言い回しを変えながら、何度も彼女と繰り返していた。どうやら他の答えも聞きたかったらしい。本当はもっと色々な質問をしていたような気もするけど自信はない。寛十郎は黒いチャイナドレスを着ていたはずだが、それも自信はない。その場にイグアナのオシュマレー先生はいなかったが、夢だと気付いているから気にならなかった。もしかしたら、そもそも映像のない夢だったのかもしれない。
「いつ頃会うのが良いでしょうか?」
同じやり取りを繰り返す中、俺の声は段々と聞こえなくなるが、寛十郎はちゃんと答えてくれる。
「出来るだけ早いうちに、そうして下さい」
不思議だ。今こうして寒い寒いと身体を縮こまらせながら思い出そうとしても、寛十郎の顔は出てこない。浮かぶのはたくさんの画面に映るオシュマレー先生の方だけ。気難しそうな顔がゆっくりと動く。あの占い部屋で流れていた、たどたどしいピアノの音もくっついている。
……いや、違う。これはオシュマレー先生じゃなくて、ただのイグアナだ。
以前、安太から似たような話を教えてもらった。俺が思い浮かべたリンゴと、安太が思い浮かべたリンゴは、どちらもリンゴだけど同じリンゴではない――、だったかな? リンゴリンゴリンゴ。一気に頭の中がリンゴだらけになる。でも多分、そういう話だ。俺が今浮かべているのはイグアナだけど、オシュマレー先生と同じではない。イグアナイグアナイグアナ。俺、いったい何を考えていたんだっけ? 気付けば反り返るほど硬かったのが嘘のように萎えていた。
「もしかして、一人でしてたんですか?」
聞こえてきたのは、寝る前に安藤さんから言われた言葉だ。そういえば、いつもと違う眼鏡をかけていた。
一人でしてみようかな。黒いチャイナドレスを着た、元々男だった女を想像してみる。ちっとも寛十郎に似ていない。胸はこんなに大きくなかったし、顔もここまで整っていなかった。正解は思い出せなくても、間違っていることは分かる。……あれ? これと似たような話も安太から聞かなかったっけ? そう思ってしまったのが運の尽き。頭の中には巨乳チャイナドレスがいるのに、結局萎えたまま時間ばかりが過ぎていった。
そういえば連休ですね、と安藤さんが笑った。どうして笑ったのかは分からないが、顔を向けて俺も笑ってみせる。いつもの赤いフレームの眼鏡。昨日の細長い黒フレームを知っているから、なお眩しい。
「あれ、そうだっけ?」
「えー、大丈夫ですか? もしかしたら寝不足なんじゃないですか?」
店長はまだ来ていないのに、しらばっくれるから更に眩しい。これからバックヤードでさせてくれないかな。そんなに時間はかからないはずだから。
「今日が土曜だっけ?」
「やっぱり寝不足なんでしょう? 今日は金曜ですよ」
どういうつもりなんだろう、と思いながら「あれ、そうだっけ?」とペットボトルのお茶を口に含んだ。客はまだ一組も来ない。来たのは宅配屋だけ。曜日をちゃんと分かっていたのは学生の頃までだ。そう言うと安藤さんは「はあ?」と大袈裟に顔をしかめ、月曜が何の祝日かを教えてくれた。
何でもかんでも連休にしたがるから、祝日がズレて分かりづらいと文句を垂れていたのは安太だ。素直に同意しなかったら「若者ぶりやがって」と笑っていた。試しに同じことを安藤さんに振ってみる。
「バイトしてると休日関係ないですもんね」
そう言って彼女は俺のお茶を飲んだ。もちろん何も言ったりしない。さっき届いた衣料のチェックを済ませてから、そのお茶にまた口をつける。
「すいません。先に休憩もらってもいいですか?」
「どうぞ、いってらっしゃい」
財布を持って出て行った安藤さんと入れ違いで、店長が姿を現した。
「お疲れ様です」
互いに頭を下げる。自分の女房が酒を呑みながら店に電話をかけてきて、「バイト君」相手に長々と愚痴っていることをこの人は知らない。
「荷物、届きました?」
「はい。さっき二箱来たんで、両方ともチェックだけはしておきました」
「二箱ですか。なら、あと二箱届くと思います」
そう告げた後、安藤さんのことを気にするでもなく店長はバックヤードへ入っていく。しばらくぼんやりと空になった段ボールを潰していたが、ふと思い出して声をかける。
「店長、すみません。よろしいでしょうか? ちょっとお話があるんですけど」
返事が来るまでに変な間があったのは、どこか後ろめたいからだ。俺は澄ました顔で近所の小学校の一件を伝えた。予想外に反応が鈍いので「もし問題なければ、セッティングしますけど」と付け加える。
「あ、そうしてもらえるなら、助かります。どうしても時間が読めないこともありますから……」
単に面倒がっているだけだろう、という本音は仕舞ったまま「では、連絡があったらそう伝えておきます」と頭を下げると電話が鳴った。また酔っ払った奥さんからなら面白かったが、そこまでうまくはいかない。雑誌への広告掲載を勧めてくる、ありがちな営業電話だった。
今日はもう戻りませんから、と店長が店を出た後、示し合わせたように再び入れ違いで安藤さんが戻ってきた。
「今、店長に会わなかった?」
そんな言葉を呑み込んだのは、彼女がコンビニの袋からペットボトルのお茶を出し、俺の顔を見ながらカウンターの上に置いたからだ。無理矢理バックヤードでぐちょぐちょする気もないけれど、一旦落ち着きたかった。やはり「出来るだけ早いうちに、そうして下さい」という寛十郎の言葉が引っかかっている。まずそれをクリアしないことには落ち着かない。ぐちょぐちょも中華街も、それからゆっくり味わえばいい。
「じゃあ俺も休憩にしようかな」
「はーい」
銀行で金を下ろした後、出来るだけ人の多いざわついたところを目指した。静かなところで安太に電話をするのは気乗りしない。そう、今から連絡をするのは冴子ではなく安太。その方がまだ可能性がある、はずだ。自分の妹を説得する自信はこれっぽっちもない。
結局どこかに留まるのではなく、歩きながら電話をかけることにした。これが一番ざわついている。「どうした?」と訊かれたら「占い師に言われたんだ」とかましてやろうかな。そんな風に思っていたくせに情けない。ツーコールでつながった瞬間、驚いて言葉が出なかった。
「……もしもし?」
安太の声は聞こえないが、この雰囲気は室内だ。歩きながらかけて正解だった。
「今、大丈夫?」
そう続けようとした瞬間、「あっ!」と慌てた声が聞こえた。ガサガサというノイズが続く。安太の声だとは思うが自信はない。一瞬、ひるんでしまった。
「ゴメン! 今ちょっと、アレでさ、後でまたかけ直すから、じゃあまた!」
ノイズの切れ目にそれだけ告げて電話は切れた。ダメだったか、と思わずその場で立ち止まる。素直に受け止めるなら、忙しいところだったんだろう。でも、安太のことだ。もしかしたら今、ホッと胸を撫で下ろし、ゴロンと床に寝そべって、そのまま居眠りをする気かもしれない。
何だよ、と喉の近くで呟いてみた。どこか安堵しているという自覚をごまかすため、口の中で何度も呟きながら、店の方へと足を向けた。今こそ寛十郎のアドバイスが欲しいところだ。こんな時、ヒトは占いにはまるのかもしれない。
安藤さんはレジカウンターの中に座り、さっき買ってきたペットボトルのお茶を飲んでいた。戻りましたー、と声をかけたけど様子がおかしい。返事もしないし顔色も悪い。
「どうしたの? 具合悪い?」
「あの……」彼女は緊張した表情のまま、小さく口を開いた。「お客さん……」
「無理して喋らなくていいから」
カウンター越しに話しかけたが、視線がなかなか合わない。ちょっとまずいかもな。俺は「大丈夫?」と声をかけながら、彼女の隣に移動した。
「あのさ、ちょっと奥で休んでたら?」
返事はなかったが、カウンターに置いた俺の手に、安藤さんは自分の右手を重ねた。真っ白でつるつるだけど、驚くほどひんやりとしている。
「もし具合が良くないみたいなら、今日はもう帰っても大丈夫だから」
「……いや……」ひんやりした手に少しだけ力が入る。「大丈夫です……でも……」
「でも?」
「さっき、見ちゃったんです」
ようやく目が合った。
「何を?」
「あの……万引き、されちゃいました」
俺が外に出て間もなく、その客はやって来たという。背が高くて上下黒にニット帽の二十代前半・専門学生風の男。いらっしゃいませ、と声をかけた安藤さんが不審に思った理由は、五分過ぎてもずっとドアの近くにいるから。
「ほら、あの辺りって今、小物とか女子モノ並べてるじゃないですか。それなのにずっと離れないから、どうしたのかなって感じで気になっちゃって」
少しずつ安藤さんはいつもの調子を取り戻していった。真っ白でつるつるな手が温かくなっていくのを感じながら、俺はうんうんと相槌を打っている。
「あと三分経っても動かなかったら、声かけようって思ってたんです」
「声かけるって?」
「なんか適当に、こちらの商品お安くなってますよー、とか。だからシャツとか畳み直す振りをしながら近付いたんですよ」
そろそろ三分になるというタイミングでコトは起きた。男は安藤さんに背中を向けながら、ドアのすぐ脇に置いてあるバンダナを掴み、そのまま外に出ようとしたのだ。
「多分、私が近付いてきたから焦ったんじゃないかな」
「焦った? そいつが?」
「はい。だって濃いピンクのバンダナですよ? 絶対使わないと思う」
そんな色だから遠目でも分かる。安藤さんは思わず「ちょっと」と口走ってしまった。男は振り返り、無言のまま睨みつけ、そのまま外へ出て行ったという。
「私、初めてだったんですよね」
「まあ、ここは万引き少ないからなあ。俺も今まで二、三度しかないかも……」
「いや、万引きじゃなくて」
「え?」
「あんな風に人から睨まれるっていうか、攻撃されそうになるのが経験なくて、なんかすごいショックだったんですよ」
勘違いをした恥ずかしさもあり、俺は重なっていた手をゆっくりと外した。ありがとうございます、と微笑んだ安藤さんは、昨日あんな電話をしたからこそ、いつもよりも美しい。
位置的にちゃんと映っているかどうかは微妙だが、一応店内に防犯カメラはある。「店長に報告だけしとこうか?」と訊くと、少し悩んでから「それ、ナシでもいいですかね?」と彼女は答えた。
「多分、そんな大事にはならないと思うんですけど、でも万が一、あの万引き男に何かあったとしたら、仕返しされるかもしれないじゃないですか。そういうの、何か怖いんですよね」
安藤さんの言う通り、きっとそんなことにはならないだろうが、その「怖い」という感覚は理解できたし、彼女に何かあっては俺も困る。だから店長には報告しないことにした。もちろん商品の数量は管理しているので、「知らないうちに万引きされた」という形で処理される。
「それでいいかな?」
すいません、と軽く頭を下げて彼女は目の前のお茶を飲んだ。そのペットボトルを受け取り、「大変だったね」と口をつける。「もしかして、一人でしてたんですか?」という昨日の言葉を思い出してみた。そういえば、今度家に来たいって言ってたよな、どうしようかな……。そんな俺の顔をじっと見つめながら、「どうしたらいいんですかね?」と安藤さんは尋ねた。もちろん、俺の家に来るという話ではない。
「またさっきみたいに万引きを見つけちゃったら、どうしましょうか?」
俺の数少ない経験からすれば、ひとりの時は「無視」、その場に店長がいれば「報告」だ。ただ、報告をした時も店長は警察を呼ばなかった。呼べば呼んだで、調書を作るのに協力したりと時間がかかるから面倒くさいらしい。
「だから無視しちゃっていいと思うよ。ゴキブリが出た時みたいに」
「ええ! 私、そっちは無視しないです。怖いけどちゃんと見つけて殺します」
その言い方が妙に面白くて、思わず笑ってしまった。笑わないで下さいよお、と立ち上がった安藤さんは、顔をクシャクシャにしながら全身を伸ばす。今まで溜め込んだ緊張を一気に追い出しているのだろう。
「そういえば、さっき休憩から戻ってくる時、表で店長に会いました」
今日戻らないって、という俺の答えには反応せず、「万引きしても捕まらないって、なんか変な感じしますよね?」と彼女は背中を反らした。思った以上に柔らかい。
「でも、私も泥棒猫なんですよねえ」
身体を弓なりにしたまま彼女は呟く。泥棒猫。そんな言葉、映画やドラマではなく、コントでしか聞いたことがない。まず思い浮かんだのは、店長の奥さんの声。あのだらしなく崩れた声は、「この泥棒猫!」と罵るのに向いている。
「先輩も彼女さんいますしねえ」
トウコさんといる時のように、安藤さんは俺を「先輩」と呼んだ。呼ばれた俺が考えていたのは、少し前に見た深夜のドキュメンタリー番組のこと。クレプトマニア――窃盗症という精神障害がテーマだった。窃盗がやめられない彼、彼女たちは、金銭の為に盗むわけではない。盗む瞬間のスリル、成功した時の歓びがその原動力だという。
似てるなあ、と思った。今、安藤さんのペットボトルに口をつけながら、漠然と思った。誰に、という話ではない。とにかく似ていると思った。
(第37回 了)
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