世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
三十六、画面の中
エレベーターの前でナオはスマホの画面を眺めていた。三十分前と変わらず廊下は薄暗い。遠くから見ると顔だけ光っているナオは、寛十郎とオシュマリー先生の話をどう受け止めるだろう。案外つまらなそうな顔で「へえ」と呟くだけだったりして。いや、もしそういう反応だとしたら、それって――。
「あ、お帰り。やっぱり延長気味だったんだね」
そうなのかな、と曖昧に濁してエレベーターに乗る。俺の心が外気に触れていないことくらい、ナオはとっくに知っているのかもしれない。
どちらが言い出した訳ではないが、何となくブラブラ歩くことになった。まだ時間は早いし、腹の中にはスペイン料理が溜まっている。
「私はまあまあだったかな」
「ん?」
「マダム・メタモ」
「メタボ?」
「メ、タ、モ。見てくれた占い師よ。まあ、たしかに太ってたけどさ」
販売機で水を買った。まだ満腹なのに口の中がパサついている。一口ふくんで「ブルドックみたいだったのよ、頬っぺた」と言うナオに手渡した。
「頬の肉っていうか、皺の具合がマンガみたいなのよ。タロットだったんだけどさ、やってる時、こうして俯くじゃない? その角度が絶妙にブルドックで」
「垂れてんのか?」
「そうそう」
この辺りを歩くのは久しぶりだ。もう少し行くと大きな通りにぶつかって、その沿いにはどこかの国の大使館があったような気がする。
「結果、あんまり面白いことは言われなかったんだけど、カードが手作りでね、その絵は良かったのよ。綺麗ですねって褒めたら、美大出たって教えてくれたの」
「いいけどさ、何しに行ったんだよ」
「ふふふ。まあ、ソレ込みで面白かったかな。で、どうだった? 山本寛十郎先生は」
何から報告するのが一番面白いかが、まだまとまっていない。うーん、と水を飲みながら考えると「別に言わなくてもいいよ」とナオが言う。
「占いって病院っぽいじゃない? ちょっとした精神科っていうかさ。だから、どうだったって訊くのも変だよね。結構な個人情報だし」
違う違う、と手を振ってみせる。外気云々の話をするのはさすがに抵抗あるけれど、それ以外の部分なら話したいし是非聞いてほしい。
「あの、寛十郎先生さ」
「うん」
「女だったんだよね」
「え?」
「いや、男だったけど今は女っていうか」
へえええ、と立ち止まって感心した後、ナオはペットボトルの水を飲み干した。
寛十郎のチャイナドレス姿や、大量の薄型モニターに占拠された部屋の様子、その全ての画面に映るオシュマレー先生の存在や、その正体がイグアナだと告げる度、ナオは楽しそうに笑い、驚き、コンビニに入って缶チューハイを買い、俺にも缶ビールを買ってくれた。
でも、というか、やはりというか、更にナオを驚かせたのは、口には出さない疑問や想いを、正確に読み取ってしまう寛十郎の能力だ。
「それ、本当?」
「うん、俺は喋ってないんだけど、会話は成り立ってた」
「ちょっと、騙してない? 本当なの?」
そんな内容のラリーを何度か繰り返し、もう一本ずつアルコールを追加したところで、寛十郎の話を受け入れたナオは「少しだけ家に寄ってもいい?」と笑いかけ、俺が答える前に通りかかったタクシーを止めた。もちろん問題なんてない。
道が分かる運転手だったので、手をつなぎ、目を閉じて、寝たふりができた。ナオも時折、手のつなぎ方や力の入れ方を変えながらそうしていた。車内には薄い音でラジオがかかっている。考えていたのは、外気云々の話をするかしないか……ではなく、二日前のことだ。俺がナオと夢でぐちょぐちょやっていた時、ナオも同じく夢で俺とぐちょぐちょやっていた――
この偶然の一致だって、寛十郎が人の内側を正確に読み取れることと同じくらい不思議な現象だ。もしかしたら、と考えてみる。あの程度の不思議なら、案外世の中にはたくさん転がっているんじゃないか? 本当は不思議じゃないことの方が少ない、というより、この世の中に不思議じゃないことなんてひとつもないんじゃないか?
結局、家に着くまでの約二十分間、俺は一度も眠くならなかった。
ナオが電気を点けたまま、あんなにいやらしかったのは、一昨日は夢の中でぐちょぐちょやったくせに、昨日の夜は何もしなかったからだ。
仰向けのまま自分で両脚を開かせ、その間でゆっくり腰を振りつつ答えさせたから間違いない。夢よりこっちの方が全然いい、と挿し込んでいる根本の部分を指で確認しながら、何度も何度も教えてくれた。
「本当か?」
「うん、本当だよ」
「じゃあ、もういっぺん、ちゃんと言ってみて」
「こうしてちゃんと入ってる方がいい、いい、いい」
部屋が明るいからベトベトしたところがキラキラ輝く。みるみるうちにナオの乳房は両方ともキラキラになった。指の間で先っぽを挟みながら、もっともっとと身体をべったり密着させ、何度か一番奥のところに触れた後、俺はキラキラした左の乳房にぶちまけて汚した。
瞬間、情けなく呻き膝をついたまま振り絞る。ナオは目を閉じながらこじ開けていた両脚から手を離し、そのまま出したばかりの濁りを指で掬って口の中に入れた。生き物みたいな舌が上唇を舐める。俺はユリシーズの青に視点を合わせながら、ゆっくりと長く息を吐いた。
ナオはベタベタをキラキラさせたまま、いつの間にか俺の下からすり抜けて風呂に入った。一瞬、場所を変えてもう一回とも思ったが、そうするには消耗し過ぎている。俺はそのまま横になった。骨が音を立てる。掌で膝を固定して両脚を開けば、さっきまでのナオと同じ体勢だ。別にこのまま寝てもいいんだよな、と九十度回転して耳を床につける。すぐに眠るのがもったいないくらい、その状態は心地よかった。
「ねえ、ちょっと、ねえ、そのまま寝ないでよ? 確実に風邪ひくよ?」
床についていない方の耳がナオの声を捉えている。大丈夫、と返事をしたつもりだが、ちゃんと声になっていない。こんな時、寛十郎ならすぐ分かってくれるのにな。明日は病院へ行く前に一度「マスカレード」へ寄らなければいけない、その準備をしなきゃいけないから今日はもう帰る――。そこまで聞いてようやく起きる気になった。耳を床から離して上体を起こすと、着替え終わったナオがいた。
「じゃあ鍵、頼んでいい?」
「それはいいけど、え? 今から帰るのか?」
「うん。今調べたらまだ小田急線間に合いそうだから。あと、これ」さっき脱いだ下着をナオがつまみ上げる。「持って帰って洗っとくよ?」
え? と聞き返してから気付く。そうだ、あれ、ナオが用意してくれたサラサラの下着だ。
「っていうかゴメン。喋ってたら間に合わなくなっちゃうから、じゃあね」
「うん、ダメなら戻って来いよ」
サンキュー、と言いながらナオはドアを開けて帰って行った。そこから十分以上はぼんやりとしたまま動けず、どうにか起き上がって鍵を閉めたタイミングで「間に合ったよ」という短いメールが来た。
裸のまま冷蔵庫を開けて、何日か前に飲んだコーラの残りを飲む。気が抜けていて美味かった。半分も入っていなかったので一気に飲み干す。もうそろそろ午前一時。俺の心は外気に触れていない。だからつるんとしていてとっても綺麗。そう寛十郎に指摘されたことは結局ナオに伝えなかった。
「なんだ、そんなことなの?」
そんな風につまらない顔をされそうで嫌だったからだ。あいつは多分、つるんとしていることを知っている。
……風呂、入ろうかな、でもちょっと面倒くさいな。
とりあえず椅子に座る。裸だから冷たい。便座に座ったあの感じだ。挿し込んでいた部分の周りは、ベトベトがガサガサに変わっていた。そうか、さっき風呂でやっとけば一石二鳥だったのか。このままだとガサガサがバリバリになって、熱いお湯で流さないといけなくなる。
年齢と共に色々と濁るから、ハハがババになり、チチがヂヂになる。そんな話を思い出す。いつどこで聞いたんだろう。学生時代の朝礼か、立飲み屋で耳にした与太話か、テレビ、ネット、雑誌の類か。答えが出る気配はない。一応立ち上がってみたものの、風呂には行かずスマホを確認しただけ。またすぐ椅子に座ったが、今度はあまり冷たくなかった。
大して悩むこともなく、安藤さんに電話をかけてみる。さっき消耗したせいでちっとも緊張していない。十回鳴らしたが出ないので切った。
もし出たらどうしよう、くらいは思っていた。これから中華街で何か食おうと誘ってみようか。午前一時。タクシーで安藤さんの家まで迎えに行って、そのまま出発すればいい。でもきっと、こんな時間じゃ店なんてほとんどやっていない。ダメか、中華街。じゃあ風呂でバリバリを流してこようかな、と腰を上げたタイミングで電話が来た。安藤さんからコールバック。やっぱり緊張しないまま出た。
「もしもし?」
「すいませんでした。電話出れなくて」
「こっちこそゴメンね。こんな時間に」
「あの、もしよかったらなんですけど、顔見ながら話すのってダメですか?」
普段なら絶対に断っているところだが、消耗している今なら大丈夫だ。
「いいけどさ」
「はい」
「今、裸なんだよね」
えー、と低い声で笑った後、「じゃあかけ直しますね」と電話は切れた。さすがに裸で電話するのはアウト、ステレオタイプの変態だったかな、と下着を探していると安藤さんがかけ直してきた。すぐに応答する。画面の中にはいつもと雰囲気の違うTシャツ姿の安藤さんがいた。
「あ、本当に服着てないじゃないですか」
「ああ、ごめんね。何か着てからかけ直すよ」
「ううん、そのままで大丈夫です」
大丈夫ってさあ、と言いながら安藤さんの眼鏡がいつもの赤ではないことに気付く。黒くて細長いフレーム。普段よりも少し幼く見える。
「で、どうしたんですか?」
そうストレートに尋ねられると困る。少し物足りなかったし、そこを何とかしてくれるのは安藤さんのような気がした。ただ、伝える言葉がなかなか出てこない。こういう時も寛十郎だったら話は早いのに。
「でも良かったです。私も話したかったから」
画面の中、胸の辺りから上が映っている俺は裸だ。そんな俺が照れ臭そうに微笑む。やっぱり見ただけでは心が外気に触れているからどうかなんて分からない……はずだ。安藤さんに訊いてみようかな。
「そこって自宅ですよね?」
「あ、うん」
「よかったら、グルっと回ってどんな家なのか見せてもらえませんか?」
いいよ、と了解して立ち上がり、スマホを持って小刻みに一周してみる。午前一時過ぎにいったい何をやっているんだろう、と可笑しくなった。
「ありがとうございます。なんか、予想したよりシンプルな部屋でした」
「シンプル?」
「はい。あと……」
「ん?」
「下も履いてないんですね」
あ、と画面の中の俺が慌てている。本当に慌てているかどうかはよく分からないが、こういう展開になることは分かっていたような気もする。
「家ではいつもそんな感じなんですか? なんて言うんでしたっけ……裸族?」
「いや、そうでもないんだけど……」
「もしかして、一人でしてたんですか?」
さらっと撃ってきた。そう思われても仕方ないが、それだと単なるステレオタイプの変態になっちまう。でも、真実を伝えればいいわけでもない。少し前までナオとぐちょぐちょしていたことは、言わないのがベターだしマナーだ。
「あの……今日ってオープン前にいらっしゃってましたよね? お店の中に」
こっちからも撃たれるとは思わなかった。まさか向こうから仕掛けてくるとは。まあ、この件に関しても本当のことは言わないのがベターだしマナーだろう。
「いや、店の前にはいたし、ほら、先輩の……えっと、アユカワさんにも会ったけど……どうして?」
嘘をつきながら、バックヤードでやりまくっていたあの姿、店長のを頬張りながら噎せている横顔が蘇り、足の付け根にすぐ血が集まった。画面の中のいつもより幼い安藤さんは、俺の嘘を見抜いているように見える。
「いや、だったらいいんです。なんか変なこと聞いちゃってすみません」
全然全然、と画面の中の俺は笑っている。そして、こっちの俺は痛いくらいに硬くなっている。画面の中の安藤さんを見ながら、道玄坂のホテルでのぐちょぐちょも思い出してしまった。
「あのさ、今度、本当に中華街……」
「はい。行きたいです。お願いします」
「うん、俺はいつでもいいから、安藤さん、スケジュール見えたら教えて」
「ありがとうございます。絶対に教えます。あと、もう一ついいですか?」
反り返った痛みを隠しながら「うん」と答える。画面を見る限り、うまく隠せているはずだ。
「今度、家に行ってもいいですか?」
俺の家? とわざとらしく笑ってみせた。画面の中の俺も同じくらいわざとらしい。本当は安藤さんだってTシャツ一枚しか着ていなくて、ベトベトがキラキラしているんじゃないのか?
(第36回 了)
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