世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
三十八、逃げても無駄
スマホの画面にはニュースの見出しが並んでいる。地方議員の汚職、芸能人の麻薬疑惑、老舗小料理屋が閉店した理由……。国内のニュースは暇つぶしに最適だ。
「犯人、また来たりしませんかねえ。ほら、ドラマとかでも言うじゃないですか、現場に戻ってくるって」
ドアの隙間から上半身だけ出し、外の様子を偵察するくらいに安藤さんは回復している。
「私、好きなんですよね、刑事ドラマとか。ほら、日曜の午後とかによくやってるじゃないですか。見出すと最後までいっちゃうんですよね」
二流大学の准教授が、中学生に猥褻な行為をして逮捕。四十代の主婦が、元同僚に六千回も無言電話をして逮捕。八十代の爺さんが、役所で職員に暴力を振るって逮捕。スマホの画面に次から次へと現れる容疑者たち。悪いことをしたから当然だが、もしこの人たちがクレプトマニアのような心の病だとしても、やはり逮捕されて当然……と言えるのだろうか。多分ありふれた、そしてきっと難しい問題だ。
「ワンパターンだからいいんですよね。あまり難しいヤツだと興味失せるっていうか」
そう、難しいヤツはダメだ。病気だろうが何だろうが犯罪者は罰を受けろ。精神鑑定なんて必要ない。遺族感情も関係ない。死刑は死刑。簡単じゃん。
「どうしたんですか? あれ、もしかして具合良くなかったりします?」
安藤さんはお茶を二口飲んで、俺の顔を覗き込む。匂いがいやらしい記憶を揺さぶり起こす。俺たちは病気かもしれない。でもそれは何の言い訳にもならない。
「ん? いや、大丈夫……」
こんな風に、何もしないことにさえ疼いたり湿ったりするのが何よりの証拠だ。逃げても無駄。救いようがない。
あの、という彼女の言葉に重ねるように「電話しなくちゃ」と言ってみた。別に今でなくてもいいけれど逃げたかった。正確には逃げられるかどうか試してみたかった。
「電話?」
「うん、小学校に」
不思議がる安藤さんに昨日の話を伝えると、「へえー」と大袈裟に驚かれた。本当は二、三日後に昨日の先生――名前を思い出すまでに少しかかったあの五十嵐先生から連絡をもらうはずだったが、それは内緒にしておいた。俺の方から連絡をするのはどこか恥ずかしかったが、店長の許可を取り付けたと早く伝えたい気持ちに嘘はない。
「もしもし、お忙しいところ、すみません」
本当に忙しいかどうかは分からない。小学校に電話をかけるのは初めてだ。安藤さんはしゃがみこみ、微笑みながらこっちを見ている。
キンキン声のオバさんから「少々お待ち下さいませ」と言われて一分弱、頭の薄い五十嵐先生が電話に出た。店長の許可が取れたことを伝えると、低く噛み締めるような声で「本当にありがとうございます」と感謝された。きっと彼は今、深々と頭を下げているに違いない。
ではまた打ち合わせをいたしましょう、と改めて連絡先を交換してから電話を切った。その間ずっと安藤さんは同じ姿勢のままだった。
子ども好きなんですか、なんて彼女は尋ねたりしない。俺の想像力なんて情けないほどタカが知れている。すっと立ち上がった後、ゆらゆらと何歩か退きながら「あの、交通事故って見たことあります?」と投げかけてきた。まったく想像できなかった質問だ。
ある、とは言わなかった。でも、ある。まだ小学校に入る前、母親のいとこを乗せた車にトラックが突っ込んで視界から消えた。目を閉じたのか、本当に消えたのかは分からない。その車がタクシーだったかどうかも思い出せない。ただ、母親のいとこは亡くなった。もう長い間、母親は何も言わないし、俺も何も尋ねないままだ。冴子は多分この話を知らない。
「私、実はあるんですよ。見ちゃったんです」
「いつ? 小さい頃?」
ふふふ、と彼女は笑ったような声を出した。結構最近かなあ、と呟いた顔はとくに笑っていない。
「最近?」
「実は、ここの遅番の前だったんです」
「え、もう働いてたってこと?」
はい、と彼女は笑ってまたしゃがみ込んだ。その日、家を出て一つ目の交差点で、オートバイと衝突した車が電柱に突っ込んで火を噴いたという。
「意外と音は地味だったと思うんです。ボコッみたいな感じで。でも本当に怖くて。なんか心臓と胃が両方苦しいような感じになっちゃって……」
「だけどちゃんと来て働いたんだ。あのさ、その時って俺いなかったよね?」
「ですね……はい。それで、私、その日のうちになっちゃったんです」
「ん? 何に?」
「……泥棒猫に」
バイトを始めてそろそろ三ヶ月、まだ梅雨が明け切らない季節だった。何とか働いてはいたが、まだ安藤さんの中には車が火を噴く映像や、ぶつかった瞬間の鈍い音が残っている。
実は事故の後、足がすくんでその場を離れられなかった。目撃者は自分以外に三、四人。でもそういうことに慣れているのか無関心なのか、みんな立ち止まることなく立ち去ってしまう。こういう時は一一〇番だっけ? それとも一一九番? いや、それがどっちかを思い出すより、早く私もここから離れなきゃ。
そう思い数歩歩き出した時、男の低い呻き声が聞こえてきた……ような気がする。あれは道に放り出されていたオートバイの運転手の声かも、と勝手に浮かんだ考えを振り払いながら、何とかその場を立ち去ることが出来た。
でも内側にはまだ記憶の断片が残っていて、身体の節々に緊張を強いてくる。だから程なく店長から「具合悪そうだけど、熱測っとく?」と言われた時も、うまく言葉が出て来なかった。あのオートバイに乗っていた人、もうこの世にいないかもしれない――。そう思うとまた心臓と胃がじんわり痛み出す。あの時ちゃんと一一〇番だか一一九番に連絡しておけば、と後悔したわけではない。目の前で人が亡くなったかもしれない、という可能性が理屈抜きに恐ろしかった。
「でも、不思議なんですよね」
「……不思議?」
「はい。時間が経つと、その怖さみたいなものが薄れていって、ゾクゾクした感じだけが残るんです」
「……」
「凄いことがあったな、ってことだけが残るような感じ……って分かります? その原因は消えちゃったけど、まだ震えてるみたいになるんですよね」
その震えが続く中、安藤さんは店長を食事に誘い、その帰りにそういうことになる。何となくすぐにバックヤードでおっ始めたのかと思っていたが、さすがにそれはなかった。店長、案外しっかりしてるじゃないか。
「別に店長のことがどうこうって訳じゃなかったんですよね。もちろんイヤじゃなかったけど、それよりもやっちゃいけないコトを、やってみたくなっちゃったって感じかもしれないです。今振り返ると」
俺はうんうんと頷きながら、トウコさんのことを思い浮かべて聞いていた。今、安藤さんが話しているのは理由のようで理由ではない。ただの過程だ。逃げても無駄なんだよ、と思いながらペットボトルのお茶を飲む。
「それ、ください」
しゃがんだまま手を伸ばす安藤さんに手渡すと、「変な話ですいません」と微笑まれた。何に対しての「すいません」かは分からない。俺はバックヤードでの二人のぐちょぐちょも見ているし、きっと彼女もそれは知っている。難しく考えちゃダメだ。難しいと興味失せるぞ。
「ちょっと甘えてもいいですか?」
音もなく立ち上がった安藤さんが、ぐっと手を伸ばし、目の前のガラスの筆立てから黒いマジックを一本取る。輪ゴムが何本も巻かれたこれ、元は牛乳瓶だな。
「紙ってどこでしたっけ?」
「紙?」
「A4の」
「ああ。えっと、プリンター用紙なら奥かな」
はい、とマジックを持ってバックヤードに入っていく後ろ姿を目で追いながら、俺はそっとベルトを外す。どこでするつもりかは分からないが、どっちみち時間はあまりない。
「これ、貼っておきますね」
彼女が手にしたプリントには「すぐに戻ります」の大きな文字。俺は軽く頷いてバックヤードに入り、とりあえずシャツと靴を脱いだ。
時間がないと分かっているのに、梱包用の紐で手首を縛ってしまった。机の上の安藤さんは抵抗するでもなく、その綺麗な顔を軽く歪ませながら唇の周りを濡らしている。
「ダメです、ダメ……」
「何が?」
「絶対声出ちゃうから」
床に落ちている、さっき脱がしたばかりの下着を取り上げ口に突っ込んだ。少々乱暴だが仕方ない。ドアに貼った「すぐに戻ります」の貼紙は守らなければ。試しにぴんと伸ばした舌先で脇に触れてみる。安藤さんはギャッと潰れ気味の声を出した。これだとまだ大きい。
「もっと噛んで」
「?」
「これ、しっかり噛んで」
口に突っ込んだ下着を指でつまむ。「分かったか?」ときつく尋ねると、激しく身をよじらせた。
「ちょっと待ってろよ」
時間がないと分かっているけど、やりたくなったから仕方ない。俺は靴下だけの姿でバックヤードから出た。この店の中でほぼ全裸になるのは初めてだ。
軽く息を殺しながら、さっきカウンターに置いたベルトを手に取る。と、コツコツとドアをノックする音がした。思わず小さく声が出る。さっき小窓のブラインドも下ろしていたから、中を覗く手立てはないはず。そう分かってはいるけれど、一瞬にして縮こまってしまった。情けない。
ベルトを片手にその場でしゃがみこんでみた。カウンターの下から顔を出し、入り口の様子をそっと伺う。特に動きはない。最悪店長でなければどうとでもなる。大丈夫だろう、とほぼ全裸の俺はバックヤードに戻る。そこには机の上で両手を縛られ、口に下着を突っ込まれた安藤さん。不安そうにこっちを見て、モゴモゴと呟いている。たった一瞬で縮こまったものは簡単に戻った。これはこれで情けない。
腰骨辺りを持ってひっくり返す。予想どおり、真っ白な尻はほんのり赤みを帯びていた。そこ目掛けて持ってきたベルトを振り下ろす。もちろん最初は軽く。でも安藤さんは激しく反応した。逃げ出そうとしているのかと思うくらい、バタバタと身体を動かしている。おとなしくしろよ。もう一回、もう一回、と振り下ろす度、段々と力を強くしていく。さっき店長の話をしたから、こうやって乱暴にしているのねと勘違いするならそれでいい。俺にだって理由は分からない。やりたくなったから、は理由のようで理由ではない。ただの過程だ。
十回ほど振り下ろしてから、またひっくり返す。興奮からか恥ずかしさからか、それとも単に苦しい体勢だったのか、安藤さんの顔はたった一、二分で疲れ切っている。
「どうした?」
「……」
なあ、と肩に手を添えて上半身を起こす。両手を縛られ机に腰掛けている安藤さんは軽く汗ばんでいた。想像以上に肌が熱い。尖っている部分や、へこんでいる部分を舐めると激しく首を振り、口から下着を引っ張り出すと「ダメです、ダメです」と可愛らしく訴える。
「時間ないから、ほら、足開いて」
「ダメ、声出ちゃうから」
「我慢しろよ」
「できないの、ねえ、できないから」
うっすら噛み跡の残る下着を口に突っ込んでから上半身をまた倒し、恥ずかしそうに広げた両腿を抱えるようにして挿し込んだ。ベトベトだからちょっと押せば奥まで入る。中のくびれに擦り付ける度、ぐううと低く唸る安藤さん。このままだと下着を噛み切るかもしれない。縛られた両手首が小刻みに揺れ始め、ベトベトが段々と白濁し始めた頃、インターフォンの音がした。思わず二人とも動きが止まる。店長なら鍵を開けるだろうからと、俺はすぐにまた突き始めた。安藤さんはダメダメと首を振り続けているが関係ない。もう一度インターフォンが鳴ったタイミングで、俺はベトベトがキラキラした腿の付け根にぶちまけた。
結局バックヤードに入ってから二十分以上経っていた。俺は靴下以外も身に付けて、一足先に仕事へ戻る。まだ安藤さんは全裸のままで机の上だ。
少しの間、ぼんやりと椅子に腰掛けていたが、まだやらなければいけないことがある。さっきのドアノック、そしてインターフォンの正体が分からなければ落ち着かない。小窓のブラインドを元に戻し、「すぐに戻ります」の貼紙を剥がすと、ひらひらと二枚の紙が地面に落ちた。拾い上げると一枚はメモ用紙。神経質そうな字でこう書いてある。
――先ほどは御連絡ありがとうございました。また改めて御挨拶に伺います。 五十嵐
なんだ先生だったのか、と安堵しながらもう一枚を見る。これは宅配の不在連絡票。差出人から察するに、店長が言っていたあと二箱届くという衣料だろう。これもセーフ。とりあえず知らせてやろうとバックヤードに戻る。安藤さんはちょうど下着を履こうとしているところだった。
「大丈夫?」
「はい。でも、ちょっと履きづらいかも」
そう言って笑う安藤さんの無防備さに、貼紙を剥がしたことを軽く後悔する。今したばかりなのに、と思いながら近付いて強引に舌を絡めた。あきらめろ、逃げても無駄だ。そう心の中で宣告した。彼女に、ではない。俺自身にだ。
「ダメです、ダメ」
口の中に彼女の声が響く。そのまま舌を吸いながら「何で?」と意味のない質問を繰り返した。ほら、また肌が熱くなっているじゃないか。これ、本当にもう一度できそうだな――。
でもやはり、人生は思い通りにならない。安藤さんが履きかけた下着をまた脱がそうと、膝を曲げた途端に電話がかかって来た。俺のスマホなら無視したが、あいにく店電だ。舌打ちをぐっと堪え、小走りに電話へと駆け寄る。
「はい、もしもし、『フォー・シーズン』……」
「ちょっと!」
たった一言で誰だか分かった。この声、店長の奥さんだ。
(第38回 了)
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