「世に健康法はあまたあれど、これにまさるものなし!」真田寿福は物語の効用を説く。金にも名誉にも直結しないけれど、人々を健康にし、今と未来を生きる活力を生み出す物語の効用を説く。物語は人間存在にとって一番重要な営為であり、そこからまた無限に新たな物語が生まれてゆく。物語こそ人間存在にとって最も大切な宝物・・・。
希代のストーリーテラーであり〝物語思想家〟でもある遠藤徹による、かつてない物語る物語小説!
by 遠藤徹
3.エコバッグ(後編)
家に戻ってエコバッグのなかのものをテーブル出しているとき、真田は小さな封筒が入っているのに気が付いた。クマのマスコットがあしらわれたかわいらしい封筒である。
「あ、さっきの」
そう気付いて苦笑した。いったいいつの間に袋に入れたのだろう。二人の間には一メートルくらいは距離があったはずなのだ。
「ってことは、あの子はただ者ではないってことか」
そう呟いて封筒を開けた。なかには、小さな紙が入っていた。
「危険が迫っています。セミナーはもうおやめなさい。 楓花」
「楓花・・・」
その名を見て、真田は軽く動揺した。それは一瞬のことであったが、軽いめまいすら覚えたような顔つきになった。
「そんな馬鹿な。ほんとに生きているのか?・・・」
戸惑いの表情を浮かべた真田だったが、彼は心を鎮めるすべをよく心得ていた。日常生活を営むということだ。さっそく包丁とまな板を取り出し、まずはフライパンを用意した。皮むき器でジャガイモの皮を取り、にんじんを乱切りにし、タマネギをくし形に切った。豚肉も食べやすいサイズにカットした。ショウガを細かく刻んだものをゴマ油で炒め、そこに素材を投入して炒め、だし汁を注ぎ込む。だし汁に関しては真田にはこだわりがある。昆布と鰹節と干し椎茸の三種を一・五リットル入るボトルに入れてそこに浄水を注ぎ込み、冷蔵庫で一昼夜おいたものを使っている。出汁をとった後の昆布、鰹節、椎茸はじゃこや油揚げといっしょに炒めて佃煮にしたり、細かく刻んでお好み焼きの生地に練り込んだりして使っている。
調理に励みながら、真田は小さく呟く。
「だいじょうぶだよ、楓花。覚悟は出来ているから」
携帯が鳴った。
煮込みの態勢に入った鍋をとろ火に変えた。
「はい、真田です」
「先生、大変です」
背後でスタッフたちの悲鳴が聞こえた。
「どうしたのかな。セミナーは明日だろう? どうして今日君たちがそこにいるのかな?」
通常会場となるホールは当日の数時間というかたちで借用するので、前日にスタッフがそこに居るということ自体が奇妙なことなのだった。
「先生、虫ですよ、虫。大量の虫が場内に溢れているんです」
「ほお、どういうことかな」
皆が混乱してパニックに陥っている時だからこそ、真田は落ち着いて喋った。もともと聞いているだけで心が落ち着くとされる低音の声だが、そこにさらなる抑制が加えられた。おかげで電話をかけてきたスタッフもやがて平常心を取り戻した。
彼の話によると、警備員からスタッフに夕方問い合わせがあったということだった。その日のイベントが終了し、皆が引き上げた後、巡回していた警備員がホールの客席中央に巨大な箱が置かれているのに気がついた。
箱は、きれいに包装され、ピンクのリボンがかけられていた。そこにプレートが添えられており、「真田寿福先生へ」という宛名書きとともに、「セミナーの時に開けてください! ここからきっと新たな、そしてすてきな物語が紡がれますよ!」と書かれてあった。それで、翌日ホールを借用する予定だった会の主催者に連絡が入ったのだった。むろん、時間外にそのようなものが置かれているのは許容されないから撤去されたしという趣旨であった。
箱がかなり大きいとのことだったので、数名のスタッフが会場に赴いた。
「ファンからのプレゼントかもしれない」
そういうスタッフもいたが、
「でも、このご時世だ。悪意あるいたずらという可能性もある。名乗りもせず、隙を見て運び込んだところも怪しいじゃないか」
そんな、もっともな疑念を呈した。
「ぼくはデパートで働いてたことがあるから、包装を元に戻すことが出来ます。だから、一応中身を確認しておきましょう」
そういうスタッフがいた。だから、ほんとうにサプライズプレゼントだった場合のことを考慮して、丁寧にリボンと包装紙を剥がした。すると、まだ誰も蓋に手をかけないうちに、ぽーんと蓋が開いた。包装紙が外されると自動的に開くように仕掛けが施してあったようたった。
悲鳴があがった。
まず大量のゴキブリが溢れ出してきた。その中にムカデや巨大なナメクジも含まれていた。なめくじはゴキブリの体に付着したまま、次々と運び出されてくるのだった。さらには、真っ黒い渦となって蠅が、さらに轟音を立てて大量のスズメバチが飛び立った。最後に毒々しい色の翅を持った巨大な蛾も飛び出した。立ち会っていた警備員は悲鳴を上げて逃げ出した。
「殺虫剤、殺虫剤!」
そう叫んで飛び出していった。
「とりあえず避難だ」
リーダーがそう指示を出したので、スタッフたちも警備員に続いてホールを出た。すでに、害虫駆除の会社に連絡を入れて至急で対処してもらうよう要請はしておいた、とのことだった。
「ありがとう。それは大変だったね」
真田は、電話してくれたスタッフをねぎらった。
「前もって確認してくれたのはほんとうに英断だったよ。まあその結果、君たちの心に大きな傷ができてしまったかもしれないね。その辺は今度、スタッフの諸君と物語セラピーをして対応したいと思ってる。心の傷はともかくとして、体には害はなかったんだね」
「まったく、許せませんね、海原泰山のやつ」
スタッフは憤っていた。
「いやいや、待ってほしいな。決めつけはよくないよ。なにも彼がやったとは限らないわけだから。証拠もないのに、疑いをかけるのはやめておこうよ」
「でも、他に考えられないじゃないですか。先生に悪意を抱いている人物なんてそんなにはいないんですよ。先生はお気づきじゃないかも知れませんけど」
「そう言ってもらえるのはうれしいよ。でも、とにかく証拠がないうちは疑わないようにしようじゃないか」
「わかりました」
「もし明日その箱を開いていたら、あれだったね」
「ええ、大パニックだったと思います」
「二〇〇二年の京橋駅マンホール事件ってのを知ってるかな?」
「いいえ、なんですかそれ」
「大阪の京橋駅にあるマンホールの隙間から数匹のゴキブリが出てきたんだよ。それで通報を受けた駅員がかけつけて、その隙間から殺虫剤を撒いたんだ」
「はい」
「そしたらね、なんと数百匹のゴキブリがぞわぞわぞわああってマンホールから一気に溢れ出してきて、駅構内が大パニックに陥ったんだよ」
「うわあ、想像するだに恐ろしいですね」
「ところがね、これはYOUTUBE画像としてネットに上がっていてね」
「そうなんですか」
「それを実際に見てみると、以外にしょぼいんだよ」
「どうしてです?」
「駅構内が結構広いのと、ゴキブリが素早いせいだね。一気に拡散してしまうから、ぞわぞわ感があまりわかないんだ」
「はあ、そうなんですか」
「つまり、現実に起こった事件よりも、こうして物語として語られたものの方がより迫真性と生々しさを帯びるってことなんだよ。物語っていうのは、こんな風に現実を越えていく力を持っている。現実を塗り替える力をもっているってことだよ。かつて誰もが手軽に動画が取れてしまうといういまのような時代じゃなかった頃には、こうやった現実は物語として増幅されて伝わったということさ」
「なるほど、そうかもしれませんね」
「つまり、もし明日会場で虫が放たれていたとしたら、その出来事は京橋駅事件をしのぐ規模の物語となっていたということさ。わたしのセミナーに負のイメージ付けをし、負の徴づけをするには格好の素材となっていただろうということ。それが、そのメッセージに籠められた意味だったと思うな」
「つまり、相手は物語の力をよく知っている人物だと言うことになりますね。つまり海原・・・」
「だから、それはやめておこうよ。いまのところはね」
電話をしている間、真田の脳裏には、はがきで送られてきた一人の読者からの作品が再現されていた。
「見覚えのあるスナック菓子の袋。
子供の頃からよく食べたお菓子だ。
友人の家に呼ばれて、いまテレビをみながら談笑している。目の前には空っぽになったビールの缶が並んでいる。
「でさあ、亜里砂がさあ」
久仁子が、笑いながらスナック菓子の袋に手を突っ込む。
「ああ、あれでしょ。彼氏ぶん殴ったってやつでしょ」
「そう、それよ。しかも、大学のキャンパスのどまん中でよ」
「へえ、なにがあったの」
遅れてきた私は、久仁子の向かい側にいる梓の隣に座りながら尋ねた。
「二股ってやつ?」
おどけた調子で、梓が説明してくれる。
「ほら、亜里砂の彼氏ってあれじゃん。なんつーの、尻軽?」
「いや、それは普通、男にはつかわないでしょ。チャラ男とかいうんじゃないの」
「まあ、なんかそういう感じのやつでさ」
「へえっ」
何か言おうとしたけど、わたしはそこで絶句してしまった。
スナック菓子の袋から引き出された久仁子の指先に、粉まみれの黒い虫がくっついていたからだ。
「ちょっつ、それ、やばいって」
わたしは、最初どん引きした。それから、虫嫌いの久仁子が悲鳴を上げると思った。
黒い虫は、カメムシのような形をしていた。触覚が二本ぴろぴろうごめいていて、黒い羽を開いたり閉じたりしている。けれども、六本の脚で、しっかり久仁子の指先にしがみついたまま、飛び立つ気配はなかった。
「え、そうね、やばいっちゃやばいよね」
でも、久仁子はわたしのどん引きの意味にも気づかないかのように、そのまま指先を口元に持って行った。虫が口の中に入った。
「ええっ」
しゃりしゃりと音を立てて、久仁子は虫を噛んだ。
「ちょっと、何やってんのよ。あんたいま、自分がなに食べたかわかってんの?」
わたしは、立ち上がって、久仁子の手からスナック菓子を奪い取った。
「ぎょえええっ」
袋の中をのぞき込んで、卒倒しそうになった。
「これ、虫じゃん。虫わいてんじゃん。なんでこんなもの食べてんのよ。病気になるよ」
「あれえ、芽依。あんた、まだ熱あんじゃないの」
梓が、わたしの額に手を当てた。
「うーん、こりゃ平熱だわ。どう考えても。なにかなあ、薬? なんか、変な薬処方されちゃったとか?」
「これあれだよ。普通のスナックだよ。どっからみたって、スナックでしかない」
「そうよ。見てて、わたしも食べるから。しかもいっぺんに三つ」
梓が、わたしの手から袋を奪い取り、カメムシ状の黒い虫を三ついっぺんにつかんで口に入れると、しゃりしゃりしゃりとうまそうに噛みしめた。そして、ビールを一口ゴクリと飲んだ。
「これ、あれだね、コンソメ味がきいてるね」
「そうなのよ。うすしおもおいしいけど、わたしはやっぱりこっちね。ほら、いいから、あんたも食べなよ芽依。虫なんかわいてないって。だってさっきコンビニで買ったばっかりなんだよ」
久仁子が、袋に手を突っ込んで、手のひら一杯の虫をわたしに向けて突き出した。
「ほらほらほら。大丈夫だから、食べなって」
「やめてよ。冗談だとしたら、ひどすぎるわ」
わたしは悲鳴をあげて、久仁子の部屋から逃げ出した。」
電話を切ると、真田は鍋の様子を確認し、カレー用の鍋にカレールーを溶かし入れた。一気にカレーの臭いが小さな部屋のなかに充満した。
(第11回 了)
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