女の人がいる。古い羊と書いてコヨウさん。弟がいて名前は詩音。詩音は結婚して家を出てゆき、古羊さんは実家に一人で住んでいる。孤独なわけではない。寂しくもない。お勤めに出かけ、淡々と日々を送っている。それでも事件は起きる。とてもささやかな。そしてまた日々が過ぎてゆく。第6回金魚屋新人賞授賞作家、片島麦子さんによる〝じん〟とくる女の人の物語。
by 文学金魚編集部
#4(前編)
詩音はここのところ憂鬱だった。
何が、と訊かれても自分でもよく判らない。四十半ばにして衰えを感じさせぬ外見やぜいたくな暮らしぶり、会社内の評価もあがる一方である。妻との関係も概ね良好。息子の慧が小学校に行くのを嫌がるというような愚痴は聞くが、子どもとは大抵気まぐれなモノだろうし、それが今の自分にとってさし迫った問題ではないことを詩音は判っていた。
じゃあ、何なんだろう。
その答えのヒントを口にしたのは同僚の吉之助だった。
「あの子ちょっと、まともじゃないよな。あの子……卯喰って云ったっけ」
「そんな名前の子、センターにいたかな」
変わった名前だ、と詩音は思った。それが女の子の名前なら、僕が知らない訳がないと思うんだけど。
「いるさ。研究室は別だけど、実験動物の管理をしている若い子だよ。おかっぱで、眼鏡かけて、化粧気も愛想もない」
吉之助はけっこう酔っていて、グラスを持ったまま、ひじで隣の詩音を突くものだから中身がテーブルにはねこぼれた。
「さすがのお前でも手を出しそうにない」
「失敬だなあ」
詩音はおしぼりでさっとテーブルの上を拭う。照明にぴかぴかと光っている黒檀のカウンターテーブルを見てほんのり微笑む。
「僕がいつ、誰に手を出したって?」
「そういう余裕ありげな態度、ほんと腹立つわ」
口調とは裏腹に、吉之助はにやにや笑いを浮かべている。
詩音はそれを見て、ちょっとだけかわいそうな気持ちになった。学生時分にバスケットボールをやってたという吉之助は背も高く体格もいい。顔も悪くなく、それなりにモテる男だった。友人としてそばにいても違和感ない存在である。だからこんな風にして酒を飲みながら軽口を叩いたり、女の子の噂話などをしたりするのだ。
でも対等に立つのとは違う。悲しいことに。
それは吉之助のほうも承知していて、でもぱっと見は同じように見られたくて、あんな笑顔を浮かべてしまう。詩音にはほんとうの意味でかなわないことを知っているから、おもしろがってにやにやしながらも、下卑た表情が抜けきらないのだ。
「手を出すんじゃなくて、出されるんだよ」
詩音はおだやかに云った。
「またまた、これだよ」
吉之助がおどけたように肩をすくめる。またグラスの中身がこぼれやしないかと詩音はすばやくテーブルに目をやったが、今度はこぼれなかった。
「ほんとにさ……」
「いいよなあ、お前は」
よく通る声で吉之助が詩音の言葉を遮った。
「リサさん文句云わないんだろ。奥さん公認の浮気なんて、聞いたことないぞ。少しぐらいモテる旦那のほうがいいって、どんだけできた嫁さんだ?」
「リサにそう云っておく。喜ぶよ」
「おう」
嬉しそうに吉之助が答える。リサのことが前から気になるらしく、ちょくちょく話題に出してくるのを詩音は知っている。吉之助は独身だし、リサと万が一そういうことになってもあまりもめることはないだろう。公認、と云うのとは少し違うかもしれないが、詩音とリサの夫婦関係において、そういうことはさして気にならないというだけだ。リサは詩音が、優しく賢く見栄えのよい夫であれば文句はないのである。できた奥さんだと傍から思われているのなら、それだけで満足するに違いない。
悪い奴じゃ、ないんだけどな。
詩音はグラスを傾けながら、吉之助をちらりと見た。
単純でおおらかで、おおらかに見せようとするあまり卑屈に見えて。だから、判りやすくていい奴なのだと詩音は考える。さっき云いかけた詩音の台詞を奪いとったのだって、たぶん、会話の主導権を握っていると見せたいがため、わざとなのだ。
ほんとうに、詩音は自分から手を出したことなどなかった。云い寄られるのは常に詩音のほうで、断らなければ事はいつの間にか済んでいる。しばらく関係が続いたとしても、女たちはいつかは自然に去っていく。新しい恋人をつくったり、結婚したり、仕事に生きたり、趣味に没頭したり。少しだけしあわせになった彼女たちを見て、詩音はやれやれ、と思う。慈善事業でもした気になって、ちょっといい気分にもなる。
でもそれは単純な無料奉仕では終わらない。
もし時間がかかったとしても、巡り巡って詩音のもとに幸運という名の贈りモノが届けられる。たとえば昇級した女性上司から目をかけられるとか、結婚相手の男性が有名なパティシエで紹介してもらい、個人的に親しくなれるとか。
そういった仕組みに気づいてからは、詩音は相手の女性をなるべく選りごのみしないよう努めている。慈善事業というか、先行投資みたいなモノだから。
詩音が微笑めば世界は微笑み返す。詩音にとって世界とは、今も昔も変わりなく、自分を中心にまわっている。
「でさ、その卯喰って子がさ、センターの女子たちに無理やり誘われて合コンに参加したらしいのな」
何度か寄り道した挙句、やっと吉之助は卯喰という女の子の話に戻った。
「それで質問タイムになって、何をしている時が一番楽しいか、みたいな話題になった訳。みんな一応さ、料理とか旅行とかかわいらしく答えていたんだが、よりによって卯喰さんが、マウスの頸椎脱臼です、と答えたんだと」
「ケイツイダッキュウ、ねえ」
「だよな。そりゃ引くわな。でもいっせいに引いたのは女子たちのほうで、参加した男どもは言葉の意味すら判らなくて、逆に食いついてきたんだって。で、また、卯喰さんがまじめな顔で丁寧に説明したらしいんだわ。マウスの頭と胴体を右手と左手の指の股にそれぞれ挟んで一気に引き離し、首を折る絶命方法です、って。そんなことをよ、素人相手に。時間差でドン引きだよ」
詩音もさすがに顔をしかめた。歪めた顔もまたかっこいいんだよな、こいつは。吉之助は苦々しく一瞬感じた。
「変わってるね、その子」
「だろ。ちょっとどころか、けっこうクレイジーだよ。実験動物相手に毎日過ごすとあんなになるのかねえ」
製薬会社でラットやマウスなどを使って臨床実験すること自体は別に珍しいことではない。実験動物の管理者である卯喰さんは、毎日大量の彼らの世話、管理、処分を行う立場にある人である。処分は一匹ずつなら頸椎脱臼、多数の場合はクロロフォルムなどの薬剤を使うのが一般的だ。首を手折る作業が一番楽しいなどという女の子とはいかなるモノか。
「おかっぱで、眼鏡かけてるって云ったっけ」
「ああ。何、お前、興味持ったの?」
「いや、ちょっと」
詩音はそう云って口をつぐんだ。もしかしたら自分はその子を知っているかもしれないと思ったのだ。ただ単に名前を知らなかっただけで、センター内ですれ違ったり、実験動物の研究室に足を運んだりした時に顔を合わせた覚えがある、姉の若い頃の面影を彷彿とさせる女性が卯喰さんのことではないか、と詩音は疑った。
古羊さんに詩音はずいぶん長い間会っていない気がする。一体いつ以来だろう。センター内でその人物を目の端に捉えるたび、詩音の胸にちくりと罪悪感が針を刺す。
気になることならまだあった。その子を意識するようになってから気づいたのだ。
どうやら向こうもこちらを意識しているらしい。
他人から意識されることなど詩音には日常茶飯事で、むしろ当たり前であるのだが、その子の場合は意味が違っていた。意識して、詩音は避けられていた。卯喰さんとおぼしき女性は、詩音の姿を認めると露骨にそっぽを向いたり、急に角を曲がったりするのだ。
それだ、と詩音は確信した。
自分が誰かに避けられている、ひょっとしたら嫌われているのかもしれない、という事実に詩音は改めて心を痛めた。それも姉に似た女性に、だなんて。こんなこと、あってはならないことだった。
憂鬱の原因が今度こそはっきりした。だが詩音には、彼女に何かした覚えがなかった。
もしかして、それがいけなかったのだろうか。
詩音は考え直してみた。卯喰という女の子は相当変わりモノみたいだし、勝手に僕から無視されたと誤解しているのかもしれない。だから怒ってすねて、あんな態度をとるのだろう。
だったら僕のほうからひと言二言話しかけてやろうじゃないか。優しく微笑んでみせれば一発だ。そうすれば変な誤解はとけるだろう。意味もなく女性から嫌われるなんて、僕には到底耐えられない。
「意外にモノ好きだったんだな、お前」
考え込む詩音を見て、吉之助がそう云いながらまた、にやにやと笑った。
給食のおばさんのような白づくめの恰好にマスクをした女性が、ラットのケージの前で何やら入力作業をしている。帽子を被っているのでおかっぱかどうか判断しにくいが、眼鏡もかけてるし、あの子が卯喰さんだろう、と詩音はあたりをつけた。動物たちを管理するのに清潔を保つ必要があるため、この部屋の職員はみんな同じ服装をしている。吉之助に特徴を聞いたはよいが、探すのに少々手間どったのはそのためだった。
卯喰さんらしき女性がケージの前から離れるまで詩音は待った。
クリーンルームから出て、帽子やマスクを外し、手を洗いはじめた彼女に詩音は近づいた。気配を察したのか、卯喰さんは中腰で詩音を見上げた。みるみる眉間にしわが寄る。
やっぱり似てるな。
こんなに気の強そうな表情ではないけれど、卯喰さんは姉にどことなく似ていた。眼鏡のせいもあるとは思うが、それだけじゃない。
「何か?」
出しっ放しの水の勢いを切り裂くように、鋭く卯喰さんが云った。
「ああ、いや。大変な仕事だなって感心して見てたんだ」
まずは優しく労いの言葉をかけてみた。こういう風に詩音が云ってみせると、大抵の女たちは「そんな……」などと嬉しそうに頬を赤らめるのだ。
でも卯喰さんはますます険しい顔つきで答えた。
「仕事って、どんな仕事も大変だと思いますけど」
「え、まあ、そうかな」
どうも調子が狂う。詩音はふいに逃げ出したくなってきた。何を僕はのこのこと、こんなところに来てしまったんだろう。
そう思いはしたが、そんな態度は微塵も見せず、詩音はゆったりと微笑んでみせた。それからガラス越しに、隣の部屋にいる実験動物たちへと悲しげな視線を送った。憂いを含んだとびきりの表情が卯喰さんに見えるよう角度を調整しながら、遠い目をしてひとこと呟く。
「かわいそうだよね」
その瞬間、卯喰さんの両腕に鳥肌が立った。
卯喰さんは乱暴に紙タオルで両手を拭くと、「出ていってください」とおそろしく冷え冷えとした声で云った。詩音は訳が判らなかった。何がこの娘を怒らせたのか、まったく判らない。
「ごめん。何か僕……」
「いいから、出ていってください」
「理由を説明するべきだ」
詩音は年長者らしく振る舞うことにした。卯喰さんは詩音より二十歳も年下なのだ。ここであっさり出ていくのはプライドが許さなかった。
「……嫌いなんです」
卯喰さんがぼそっと答えた。云わされているのがずいぶん口惜しそうで、奥歯を噛みしめるぎりりという音が聞こえそうなほどである。
「わたし、あなたのような人間が嫌いです。近寄ってほしくないです。なんていうか……気持ち悪いんです」
一気に云い切った。
詩音は衝撃のあまりめまいを起こしそうになった。僕のことを嫌い、どころか、気持ち悪い、だって!
生まれてはじめてぶつけられた言葉に詩音は呆然とし、これは何か悪い夢ではないだろうかと現実を疑いたくなった。夢の中で僕は今、こんな冴えない女の子から、いわれなき石の飛礫を投げつけられているのだ。
「失礼します」
卯喰さんの声は詩音の耳を素通りしていった。詩音はそれどころではなかった。自分を立て直す作業に必死だったのだ。
詩音の頭の中で、卯喰さんのさっきの言葉は急速に分解されていった。分解したモノをそれぞれ解析し、ふるいにかけ、てきとうな棚にしまう。一連の作業を終えるまで、詩音は動かなかった。
作業を終えてなお、詩音の頭の中では整理しきらないモノがいくつか転がっていた。とげとげのウニのような形をしたそれは、風もないのに転がって、詩音のうつくしい脳みそを傷つけた。
「頭が痛い」
詩音はひとりごちると、卯喰さんが洗っていた水道で意味もなく手を洗った。
放っておけばいい。
頭では判っているのに、詩音はますます卯喰さんのことが気にかかった。まるで恋でもしているみたいだった。
センター内のカフェテリアで昼食をとっている卯喰さんを見かけると、詩音はまっすぐに近づいていった。途中、何人かの女性職員から意味ありげな視線を送られても、微笑み返すことすらしなかった。
「やあ、どうも」
許可も得ずに向かいに座る。卯喰さんはひとりだった。
「……お疲れさまです」
まわりに人がいるからか、卯喰さんはぼそぼそと云い、箸を動かした。この間のような勢いはなく、こうして見るとどこにでもいそうな小柄で地味な女の子だった。飼育用のケージに入れられたマウスのように、何十匹、何百匹といる中で他と見分けがつかないほどの平凡な娘なのだ。
急に詩音はおおらかな気持ちになった。この間の自分に対する失言を取り消してあげてもいいくらいだが、それでも一応真意を確かめてからにしようと考える。
「この前だけど、僕のこと、気持ちが悪いって云ったよね」
「云いました」
「どうしてだろう?」
詩音は余裕のある笑みを浮かべて訊いた。
質問に対して卯喰さんは誠実に答えようと努力した。箸を止め、宙を睨み、ふっと目元を緩める。
「血が通ってるように見えないからでしょうね、きっと」
「それはちょっと心外だな。だって君、合コンの時、こう云ったそうじゃないか。マウスの頸椎脱臼をしている時が一番楽しいって」
「それはちょっと違います。充実しているのは何をしている時か、と訊かれたのでそう答えましたけど」
同じことじゃないか。詩音は少し鼻白んだ。けれども外見上は平静を保ったまま、卯喰さんに訊ねた。
「客観的に見てもだよ、君と僕、どちらが冷血な人間か、判るよね?」
卯喰さんは表情を変えないで、箸で皿の上のからあげをひとつ持ち上げた。
「わたし今、からあげを食べてます」
「見れば判るよ」
「できればこの鳥だって、わたしは自分の手で絞めて、首をはねて逆さづりにし血を抜いてから、しかるべき処理のあとに食べるべきなのです。わたしが話しているのはそ
ういうことです」
「血を抜くって……」
「食べているのは、血が流れている生きモノですから」
詩音は顔をしかめた。卯喰さんの掴んでいるからあげを、突然生肉に錯覚しそうになった。やっぱりこの子はだいぶいかれてる。
「あなたのような人間は、それこそ血も流れていない気がするんです。何だかつくりモノみたい。だから気持ち悪くて、近寄ってほしくないんです」
「………」
詩音は言葉を失った。卯喰さんの云うことがまるで理解できない。詩音から見れば、卯喰さんのほうが違う言語を話す宇宙人なのだった。
「かわいそうだね、ってこの前云いましたよね?」
「云ったね」
「それより前にも一度、同じ台詞を云ったこと、覚えてますか」
「そう……だったかな」
詩音は覚えていなかった。その時もこの前も、たぶん自分は感じたままに云ったのだろう。実験動物としての彼らの運命を憂えることの、一体何が悪いというのか。自分が心優しい人間だと証明することの、何が。
「あなたが云いますか」
卯喰さんは冷笑を浮かべていた。
「新薬の研究に動物の臨床実験は不可欠です。わたしたちが日々飲んでいる薬は彼らの犠牲によって成り立っている。わたしはそのことを忘れたくないんです。だからあの子たちを自らの手で縊る瞬間に、少なくともわたしなりの責任を果たせた気になれるんです」
「でもそれと、動物たちを憐れむこととは違うだろうと僕は思うけれど。君にはその、彼らに対する愛情のようなモノが少し足りないんじゃないのかな」
諭すように詩音は云ったが、内心ではもうどうでもいいと思っていた。頭の中で卯喰さんの言葉を分解、解析することもとうに投げ出していた。
「わたしは動物が大好きです。でなければこんなこと、とてもできません」
卯喰さんはそう云って、食べ終わったトレイを持って立ち上がった。詩音は立たなかった。座って、食べこぼしのない白い丸テーブルの表面をじっと見ていた。
客観的には僕は正しい。間違ってなんかいない。でも卯喰さんは別のことを話していた。もっと奥の、本質的な、たとえばきらきらと光る川面ではなく、川底の泥の中に埋もれた石ころについての話だとか。
詩音はずっと昔に見た、まっ暗な土手を思い出しそうになり、慌てて頭を振った。
(第4章 前編 了)
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