女の人がいる。古い羊と書いてコヨウさん。弟がいて名前は詩音。詩音は結婚して家を出てゆき、古羊さんは実家に一人で住んでいる。孤独なわけではない。寂しくもない。お勤めに出かけ、淡々と日々を送っている。それでも事件は起きる。とてもささやかな。そしてまた日々が過ぎてゆく。第6回金魚屋新人賞授賞作家、片島麦子さんによる〝じん〟とくる女の人の物語。
by 文学金魚編集部
#4(後編)
それから詩音はなるべく卯喰さんに近づかないようにした。彼女は自分の世界の住人じゃない。だから卯喰さんに嫌われようと、気味悪がられようと、それは僕の汚点にはならないのだ、と詩音は理屈づけた。
卯喰さんのほうも前から詩音を避けているのだから、お互いが注意深く過ごしていれば近づくことはない筈だった。けれども注意するということがもう意識せずにいられないことでもあり、詩音の憂鬱が完全に消え去る訳でもないのだった。
さらにはそんな詩音をおもしろがって、吉之助が余計なことを云う。
「お前、あの子に振られたのか」
「どうしてそうなる」
ふだんはゆったりと構えてしゃべる詩音が珍しく早口で不機嫌そうに答えると、吉之助はちょっと目を見開いた。
「だって、いつも逃げまわっているじゃないか」
「僕が?」
「そう見えるぞ。それとも何かされたのか。ストーカーまがいのこととか、あの子ならしそうだものな」
「いや」
詩音はそう云って目を伏せた。まつ毛が驚くほど長い。
「何もしてないし、何もされていない」
ため息を吐きながら、巻き毛に指を絡ませる。
吉之助は心の中で叫んでいた。俺と同じ中年のおっさんのくせして、どうしていちいちそういうのが似合うんだこいつは。くそ。
けれども浮かない顔でぼんやりしている詩音の顔を眺めているうちに、これはまた、と思った。これはまた、もしかして。
「いよいよ本格的なのか」
「何がだ?」
突然、吉之助は思いきり声を上げて笑いたくなった。にやにや意味ありげな笑いではなく、高らかな、心からの笑い。何をしても勝てない詩音に今ならできそうな気がする。だって、これは、ただの。
「片想いだよ」
詩音は力なく笑った。詩音に先に笑われたので、吉之助の笑うタイミングは失われた。あまりに莫迦莫迦しくて詩音は笑ったつもりだったのだが、何故かとても痛々しく吉之助の目には映った。あんなクレイジーな地味女に片想いするなんて、詩音はどうかしてしまっている。
笑うかわりに吉之助は云った。
「かわいそうだな、お前」
なぐさめようと、肩をぽんと叩く。詩音は小刻みに震えていた。男にしては華奢で中性的な身体つきの詩音の肩は吉之助には小さすぎた。俺はこれまで何をこいつと張り合ってきたのだろう、吉之助は詩音を不憫に思い、守ってやりたいという欲求すらむくむくと湧き上がってくるのだった。
でもそれは大きな勘違いだった。詩音は屈辱で震えていたのである。
かわいそうなのは吉之助で、実験動物で、卯喰さんである筈だった。あるいはリサであったり、ある時は古羊さんであったり、するのだ。自分以外のモノすべてに詩音はそういう愛情と憐憫の情をもって接してきたつもりだった。だからよもや自分がかわいそうなどと他人から、それも吉之助風情に云われるすじ合いはまったくない、断じてない。
詩音は憂鬱を通り越して怒りを禁じえない事態に慄いた。この元凶が卯喰さんであり、そうなると彼女が違う世界の住人であることを認めてなお、無視する訳にはいかなくなってきた。
これはゆゆしき問題だぞ。
心を落ち着けて考えようと詩音は思った。吉之助のもとを無言で離れ、センター内をふらふら歩く。よい考えはいっこうに浮かんでこなかった。浮かばないまま、足は自然と卯喰さんの所属する研究室へと向かっていく。デスクで何か作業をしている卯喰さんの白衣のうしろ姿が目に入っても、詩音の頭は清潔なまっ白い光で満たされているだけだった。
「近づかないでくださいっ」
卯喰さんは背中で小さく叫んだ。
振り向きもせずにどうして僕と判るのか、詩音は不思議だった。やっぱり宇宙人なのは卯喰さんのほうなのだった。
「ねえ、君」
詩音は卯喰さんに訊ねてみたかった。君と僕、正しい世界にいるのはどっちなのか。警告を無視して音もなく背後に忍び寄ったヒトの気配を感じて、卯喰さんはがばっとふり返った。
「今大事な……」
卯喰さんは何か云いかけて、そのまま固まった。そこにいたのが詩音であることに、予想以上に至近距離でいたことに、はじめて気づいたみたいだった。そして自分の手元を見て悲鳴を上げた。
「きゃああ」
実験用チューブ埋め込み用に手にしていたカミソリの刃先から、赤い血が落ちていく。ぽとり。詩音の腕から流れ落ちた血が続いて、ぽとととと。滴る血液のあざやかさに卯喰さんはめまいを覚え、その場に倒れ込んだ。
幸い傷はたいしたことなかった。
医務室で手当てを受けた詩音は、隣の部屋のベッドで横になっている卯喰さんを見舞うことにした。卯喰さんはまだ寝ていた。
近くの丸椅子を右手で引き寄せて詩音は腰かけた。左腕には白い包帯が巻かれている。振り向きざまに切られたために、傷は浅いが範囲は広かった。ぐるぐるに巻かれた包帯が痛々しく、眩しいくらいだ。実験室にある刃物で切られはしたが、未使用品だったことから感染などの恐れはないらしくほっとした。縫うほどの傷でもないだろうというのも助かった。
倒れた瞬間に片手で抱きとめたので、卯喰さんのほうは怪我の心配はなかった。だから放って帰ってもよかったのだが、詩音はそうせず、卯喰さんが目を覚ますのを待つことにした。
卯喰さんは眼鏡を外され、布団を胸のあたりまでかけられていた。こけし人形のような髪がシーツに広がっている。こうして眺めてみると、ずいぶん幼く見えた。
うう、とかすかに唸ってから卯喰さんは目を開いた。わずかに身じろぎし、自分を見下ろしている人物が詩音だと判ると、慌てたように布団を鼻のへんまで引っ張り上げる。
「具合はどう?」
優しく声をかけると、卯喰さんは目をぱちくりさせた。詩音の左腕に視線を移し、包帯に目を止めると眉根を寄せた。
「眼鏡、とろうか」
「大丈夫です。あの、伊達眼鏡なので」
案外しっかりした声を出したので、詩音は安心した。それにしても、この子も伊達眼鏡なんて。どうしてみんなわざわざ意味のないことをするんだろう。自分の顔を隠したいと考えたこともない詩音には、卯喰さんや古羊さんの気持ちなど永遠に判りはしない。
「わたしのことより、怪我の具合は」
「ああ、平気平気。ちょっとかすった程度だから」
「すみませんでした」
卯喰さんは身体をひねって詩音にどうにか頭を下げた。その云いかたがほんとうに申し訳なさそうで、詩音は卯喰さんのことを気の毒に思った。
「いや、近づくなって云われたのに、安易に近づいた僕も悪いんだ」
「そんなことないです。作業に夢中になっていたわたしのほうが不注意でした」
押し問答のように、僕が、いやわたしが、とやっているうちに、何となく二人は笑い合っていた。
「でもわたし、少しだけですけど、ほっとしたんです」
しばらくして卯喰さんが云い出した。ずいぶんやわらかい声音だった。
「何がだい?」
「血が……」
「血?」
「ちゃんと流れてるんだなって。赤い血が同じように流れてる、この人、生きてるんだなって」
何故か卯喰さんは頬を赤らめていた。
「緑色の血でも流れてると思った?」
冗談めかして云いながら、詩音の頬はわずかにひくついた。嫌な予感がしていた。
「いいえ、ごめんなさい。わたしの……勘違いだったんです。あなたはとても優しい人なだけなのに」
恥じらう様子を見せまいと、そっぽを向きつつ云う卯喰さんに対して、詩音は、やれやれ、と思った。こういうシチュエーションなら慣れっこである。何十回、何百回と自分のまわりでくり返されてきたことのひとつに過ぎない。
いまや世界は完全に詩音のもとに戻ってきていた。それはとても喜ばしいことであるのだけれど、何だか少しモノ足りないような気もしていた。
やれやれ僕は、結局この子ともそういうことをしなくちゃいけないんだろうか。
詩音は卯喰さんに気づかれないようにそっとため息を吐いた。
それはちょっと、ご免かな。
まだ向こうを向いている卯喰さんの跳ねた黒髪の先から、どこか古臭い、かびた畳のような匂いが漂ってくるような気がして、詩音はうつくしい眉をひそめた。
会社内での偶然の刃傷沙汰はちょっとした噂になった。
おもしろおかしく脚色を加え、噂を広めた人物が誰であるかは云わずもがなである。ただしその人物の思惑とは裏腹に、周囲の女たちから同情を集めた詩音がますますモテたことだけは云い添えておく。
ただひとり、リサはおかんむりだった。
モテはいいのだ。けれどもキズモノは困る。もめごとの類、それも会社の中で女から刃物で切りつけられるなどは論外だった。父の耳に入ると面倒だし、夫の出世にも響くだろう。すてきな旦那さんを持ったすてきな奥さま像が壊されることだけは、リサには我慢できないことなのだ。
近頃のリサをいらつかせる原因は他にもあった。息子の慧のことだった。
去年あたりから、慧は扱いにくい子になっていった。学校にあまり行きたがらず、暗い顔で黙り込むことも多い。自分と詩音のような親から、どうしてそういう子ができあがってしまったのか、リサには理解できない。慧は中学校の入学式にも出ず、気合いを入れて入学式用に新調したワンピースに袖を通すことができずにリサはつまらない思いをした。
詩音に相談した時も、「子どもなんて気まぐれなモノだから」と取り合ってくれない。
「そのうち行くようになるさ」
「そうかしら」
「男の子にはそういう時期があるんだよ。じき抜けるさ」
何もかも判ったような口ぶりで云うので、そういうモノか、とも思う。リサはひとりっ子で男の子の気持ちはよく判らない。夫がそう云うのなら、そうなのだろう。じっと家で思い悩むことは得意ではなかった。外に出て自分を磨いたり、誰かと会って褒められたりうらやましがられたりしなければ、リサは生きていけないのだった。自分の価値は、他人から与えられた評価なしでは成立しないと彼女は思う。
そういう意味で、詩音は申し分ないパートナーだった。優しくて見栄えがよく、仕事もできる。周囲からの評判も上々の男であることが、何よりもリサを喜ばしてくれる。だからこそこの一件が、リサの癇に障ったのは云うまでもない。何故もっとうまく立ちまわらなかったのかと、夫を責めたい気分にもなる。
「誤解なんだよ」
詩音は何度もそう云った。偶然の事故で、狙って刃物で切りつけられた訳ではない、そもそもあの子とはそういう関係でもないのだ、と。
「ほんとうに、たまたまなんだ。たまたま僕がうしろに立った時に、あの子が驚いて振り向いたんだよ。そうしたら手にしていたカミソリが僕の腕にあたってしまった、それだけのことなんだ」
「じゃあ、どうして噂になったりするのよ」
「それは……僕にもよく判らないけれど」
リサに責められると、詩音は口ごもった。噂を流した人物を庇っているのか、ほんとうに判らないのか。夫は案外鈍感だ。誰からも愛されるという天性のモノを持っている詩音には、誰かに嫌われたり妬まれたり貶められたり、そういうどろどろした感情の深さを推しはかる能力が欠落している、と常々リサは思う。
大事なところが足りないのよ、この人は。
裕福な家庭で何不自由なくわがままに育てられたリサだったけれど、自分の器量が十人並みで、頭のできもさほどではないことをよく知っていた。だからきれいになるためにお金と時間をかけ、自分でも努力した。己の才能がないぶん、できのよさそうな男性を探し出すことに奔走し、こうして結婚までこぎつけたのだ。簡単に他人からの評価は得られない、得られるのは努力したモノだけ、それは自分の中に他人への妬みやそねみが絶えずくろぐろと渦巻いているからこそ判ることなのだ。
夫には、詩音には、それがない。
たまに夫を危なっかしいと思う。それが今回の一件につながったのではないかとリサは反省する。少し自由にさせすぎたのかもしれない。あたしがちゃんと見張っておかなければ。夫をすてきな旦那さんにさせておくために、管理が必要になってきたという、これは警告に違いない。
「あなた、ちょっと最近おなかが出てきたんじゃない?」
「そうかな」
詩音は少し不安になって、姿見の前に立った。
「やめてよね、そういうの。恰好悪いから」
「判ったよ」
新たな憂鬱の芽の出現の気配に、詩音は明日から腹筋をはじめようと決心する。芽ははやいうちに摘んでおくに越したことはない、そう考えて、他に何かするべきことはないかと家の中をぐるりと見まわした。
詩音の視線は慧の部屋のドアを素通りし、鏡の中の自分に舞い戻った。
腹筋を毎日五十回、いや百回かな。
きびしいリサの視線を背後に感じながら、詩音は考えた。
やれやれ、しあわせそうに見せるのもラクじゃない。
(第4章 後編 了)
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