女の人がいる。古い羊と書いてコヨウさん。弟がいて名前は詩音。詩音は結婚して家を出てゆき、古羊さんは実家に一人で住んでいる。孤独なわけではない。寂しくもない。お勤めに出かけ、淡々と日々を送っている。それでも事件は起きる。とてもささやかな。そしてまた日々が過ぎてゆく。第6回金魚屋新人賞授賞作家、片島麦子さんによる〝じん〟とくる女の人の物語。
by 文学金魚編集部
#3(下編)
妙な電話がかかりだしたのは五月の連休を過ぎたあたりからだった。
古羊さんがいるいないにかかわらず電話は鳴った。いなければ留守番電話は無言のまま、いたとしても受話器の向こうはしんと静まり返っていた。古羊さんはしばらくその沈黙につきあい、完全に向こう側の気配が消え去ってからそっと受話器を置いた。
「君もしかして」
と、男はあいかわらず不味そうな顔で土鍋の中身を咀嚼しながら古羊さんに訊いた。
「何ですか」
古羊さんが問うと、男は間を置き、「いや、いいんだ」と口ごもった。
「この蒟蒻うまいな」
ごまかすようにつけ加える。
男と古羊さんは差し向かいでモツ煮込みを食べている。モツはやわらかくとろりと煮えて、口に入れればたちまち溶け出すほどである。それなのに男は蒟蒻を褒める。普段料理を褒めることなどないくせに、そう云ってくちゃくちゃといつまでも蒟蒻を噛んでいる。云い出せない言葉を吐き出そうか、飲み下そうかというようにいつまでも噛んでいる。
「君もしかして」
「はい?」
「僕の家に電話なんて、かけないよね」
言葉を吐き出すと同時に蒟蒻を飲みこんだ。
「かけませんよ」
古羊さんはけろりとした顔で答えた。男は瞬間探るような視線を走らせたが、「そうか、だったらいいんだ」と、もう何も残っていないお椀に視線を落とした。
「つぎましょうか」
「ああ、頼むよ」
男のお椀が古羊さんへと手渡される。
「今日はいつもよりたくさん召し上がるんですね」
「……そうかな。いや、蒟蒻が美味いんだ。それでかもしれないな」
古羊さんと男はしばらく黙ってモツ煮込みを口に運んだ。近頃かかってくる妙な電話のことを古羊さんは口にしなかった。男はお椀の中身がなくなると、課せられた役目を終えたようにふうとため息を吐き、それからわざとらしくエヘンゴホンと咳払いした。
「どうかしました?」
「ああいや、どうも喉の調子がよくないみたいだ」
「それはいけませんね」
「そうだな、よくないな。悪いが今日は帰ることにするよ」
そう云って男は猫背の背中をさらに丸めるようにして、そそくさと帰っていった。
その次の日からだった。古羊さんが誰かの視線を感じるようになったのは。
たとえば仕事の帰り。ふと気がつくと誰かに見られているような、そんな気がしないでもない。振り向くと、電信柱の影に何かが引っ込んだ気配がする。最初は気のせいかとも思ったが、日が経つにつれ、はっきりとその気配は姿を現した。
意識してから四日後には電信柱から半分の姿が、その翌週には振り向くと目が合うほどの距離にその人物は立っていた。男の妻だった。
女はそもそも隠れるつもりなんてなかったのかもしれない。あとをつけはじめた時点で古羊さんなんぞに気づかれているのだから、尾行者としてあまりにお粗末だ。わざと気づかれるようにやってるとしか思えなかった。
ふり返って目が合っても、女は何も云わず立っていた。その距離を詰めるような真似もしなかった。古羊さんが歩きだせば、そのままそこでぼんやりと見送っている。けれども振り向くまではずっとあとをつけているらしく、だからふり返った時の距離はいつも同じで、無表情なのも変わらなかった。
女は腰ほどもある長い髪をしていたが、水分も油分もなくパサパサと乾いていた。乾いていて、容易に風に嬲られていた。わずかな風にも抗うことができずに、古羊さんが見る時には大抵女の長い髪は四方八方へと飛び散らかっていた。
あの女も昔はうつくしい髪をしていたのかもしれない。しっとりと濡れたような艶やかさで男を包み込むこともあったろう。どこかの国の昔話でも思い出すかのように古羊さんは考えると、女の髪を嬲らす風が、自分の髪や爪や唇からも何かを奪い去る気がして切なくなった。
男が古羊さんの家に現れたのは翌々週のことだった。
五月の半ばを過ぎたばかりというのに、すでに夏の暑さと、梅雨の湿気臭さをあわせ持ったみたいな一日だった。男はスーツの上着を手にかけて、まくり上げたワイシャツ姿で玄関に現れた。すでに額と首すじに汗がじっとり浮かんでいる。
古羊さんは黙って上着を受け取り、居間の鴨居にかけた。同じように黙って家に上がった男は土鍋の中を覗き込む。
「おっ、冷や汁か。なつかしいな」
普段の仏頂面には珍しく、弾んだ声を上げた。
「召し上がったこと、ありましたか」
「僕の故郷ではよく食べたな。お袋が夏になるとつくってくれた」
「そうですか。こんな蒸し暑い日にはこういうのがいいかと思って」
「みょうがとシソのよい香りがするな」
「味つけは違うかもしれないですけど」
古羊さんと男は和やかに話をした。土鍋の中では氷を浮かべた冷や汁が出番を待っている。男が古羊さんの料理についてこんなにも話すのははじめてだった。けれども土鍋を挟んで向かい合う男の視線は常に古羊さんから微妙に外されていた。男は古羊さんの背後にある食器棚や壁にかけられたカレンダーを虚ろに眺めていた。
古羊さんは小さめの丼に麦を混ぜたご飯をよそうと、冷や汁を底からざっと混ぜてからその上にぶっかけた。男の前にひとつ、自分の前にひとつ置く。男は箸を手にとると、待ちきれない様子で口の中にかき込んだ。
古羊さんが一口二口と口に入れる間に、男は丼を半分以上一気に平らげた。そして箸を置いた。
「女房が、参ってるんだ」
えっ、と古羊さんは小さく声を上げ、箸と丼を手に持ったまま男の顔を見つめた。
「やめてくれないか」
男は低く乾いた声で云った。
古羊さんは眉間にしわを寄せた。トン、と音を立てて丼をテーブルに着地させる。箸をきっちり揃えて丼の上に置いた。その一連の行動を、古羊さんはしわを寄せたままやり終えた。
「判っているんだろう? 君にだって。最初は無言電話。日に何度もかかってくると女房は僕に訴えた。気味が悪いってね」
古羊さんは黙っていた。黙って、しわの溝を深くしていった。
「それだけならともかく」
男は大きく息を吐いた。
「あとをつけられている、なんて云うんだ。正直驚いたよ。君はそういうことをしないヒトだと思っていたから。気のせいじゃないかと女房にも云ってみた。そうしたら気のせいじゃない、つけてくるのはいつも同じ女だ、髪の長い眼鏡の女だとはっきり云い切った。なあ、君以外考えられないじゃないか」
それらはすべて古羊さんが、ではなくて、男の妻が古羊さんにしたことだった。だから古羊さんはそう云った。
「それはわたしではありません」
虚をつかれたように男は一瞬黙り込み、それからまた疲れたように同じ台詞をくり返した。
「なあ、だって。君以外考えられないじゃないか」
唇を引き結んだまま、古羊さんはじっと男を見た。やおら立ち上がると流し台に向かって歩き、右端から二番目の引き出しを開けて何かを取り出した。キッチンばさみだった。
取り出されたのが小さいとはいえ刃物の類であることに男はぎょっとした。ぎょっとしたが、すぐに平静を保とうと努力した。男の額に蒸し暑さのせいだけではない汗が光る。
古羊さんはキッチンばさみを手に椅子に戻った。そして顔の左側にある髪を無造作に手で掴むと、右手に持ったはさみでぱちんと切った。
「君、何を」
唖然とする男を尻目に古羊さんは、次々と髪を束にしてはぱちんぱちんと切っていった。顔の右側にある髪も切った。うしろも切った。
「髪の長い女はわたしではありません。今度、奥さまに訊いてみてください」
耳の下あたりで古羊さんの長かった髪は消えていた。ぱちん、と音のするごとに、切り離された髪の毛がはらはらと土鍋の中へ舞い落ちていった。
呆然とその光景に見入っていた男は、表情のない顔で、口だけをロボットのように動かした。
「汚いな」
「汚い?」
「そうじゃなくて、もう食べられない」
顎をしゃくり男は土鍋を指した。ひどく疲れた様子だった。
きれいな髪だと褒めたその唇で、男は今度は汚いと云う。身体から切り離された途端、「きれい」は「汚い」に姿を変える。古羊さんは判らなくなってきた。切り離されたのは自分の身体からじゃなく、男から切り離されたのだ、とも思う。
古羊さんは男とも自分とも離れた位置で立っている男の妻を想った。決して縮まらない距離で、しかし決して離れない場所で、ゆらゆらと揺れる女の髪を想い、切なくなった。
「もう来ないよ」
あっさり男はそう云って立ち上がった。疲弊しきったように見えたのに、身のこなしは軽かった。玄関に向かいかけ、ふり返る。口をつぐんだまま鴨居にかけた自分の上着に手を伸ばし、奪うように去っていく。
玄関を閉める音が響いても、古羊さんは動かなかった。座って、土鍋の中を見ていた。ぎざぎざの髪が古羊さんの頬にかかる。手を伸ばすようにカーブしている。カーブの先ではついさっきまで一緒だった筈の彼らの兄弟たちが溺れかけている。なす術もなく、薄まった冷や汁の沼へと沈んでいく。彼らが手をつなぐことはもうない。
ずいぶん時間が経ってから、瀕死の彼らを救い出したのは古羊さんの手だった。古羊さんは彼らをかき集めると、両手に捧げ持つようにして流しへと向かった。そして丁寧に洗った。
洗った彼らを手に、古羊さんは縁側から庭へと下りていった。それからしだれ桜の木の根元に小さく深い穴を掘ると、そこに埋めた。
笹信さんは二回呼び鈴を鳴らした。古びたこの家の呼び鈴がちゃんと鳴るのか信用ならなかったからだ。笹信さんは首を傾け、少し口を歪めたいつもの生意気そうな顔でドアが開くのを待っている。
「闇鍋ってしたことある?」
給湯室で出がらしの緑茶を啜りながら古羊さんが訊いてきたのは、一昨日の金曜日の午後だった。
「闇鍋って言葉、久しぶりに聞きましたよ」
「そう? わたし、したことないのよね」
「そんなの、莫迦な学生がするお遊びじゃないですか」
笹信さんは呆れたように云った。
「じゃあ、笹信さんはしたこと、あるんだ」
感心したようにも、挑発したようにも聞こえるモノ云いに、「ないですよ」と笹信さんは憮然として答えた。
「子どもじゃあるまいに」
「ふうん」
古羊さんは口を尖らせた。そしてふっと遠い目をして呟いた。
「やったらテンション、上がるかしら」
「上げたいんですか」
鋭く笹信さんが訊き返した。そういうのを聞いていないふりをするほど、笹信さんはお人よしではなかった。
「まあ、ねえ」
やはり虚空を見つめたままの古羊さんにちょっとだけ同情して、
「だったらやってみたらいいじゃないですか」
と促した。
「じゃあ、明後日の日曜日、家に来てください」
急に焦点を笹信さんに合わせて力強く誘う。
「あたしが? 行くって?」
素っ頓狂な声を上げる笹信さんに古羊さんは当然のように云った。
「あら、だって。ひとりじゃ闇鍋にならないじゃない」
そりゃそうだけど、と笹信さんは思い、でもなんであたしが古羊さんの家に行かなきゃいけないのかさっぱり判らない、と首をひねりつつ仕方なく、「古羊さんのそういうとこ、なんかすごいっす」と返事した。
そういう経緯で笹信さんは古羊さんの家の玄関前に立っている訳だが、両手が塞がっているのではやく開けてほしいと願っている。呼び鈴を押したのだって、無理やり上げた右ひじで押したのだ。玄関はわりとすぐ開いた。
「いらっしゃい」
「どうも」
会社以外で顔を合わすのははじめてなので気恥ずかしいような心持ちで笹信さんは挨拶した。古羊さんは笹信さんではなく、笹信さんの右手を凝視している。
「それを鍋に入れるの? 溶けちゃわないかしら」
顎に人さし指をあて、心配そうにしている。
「こっちは違います。食材はこれ、こっちのほうですから」
左手のビニール袋を持ち上げる。中身は紙袋に隠してあるから何が入っているかは判らない。そうしてくるようにと云ったのは古羊さんのほうではなかったか。それに闇鍋のルールを、鍋に入れるのは食べられるモノだけ、スリッパとか自転車のチューブとかは駄目だから、とまじめな顔で宣言したのも古羊さんなのである。だったら右手に持っているケーキを入れたって違反じゃない。第一、スリッパとか自転車のチューブなんかを入れる闇鍋なんて漫画の世界でしか見たことないけれど。
「これはその、あれです」
笹信さんはケーキの箱を古羊さんに押しつけるように渡した。
「おみやげかしら」
とぼけているのかいないのか、笹信さんはいらいらと続けた。
「誕生日だから、呼んだんじゃないんですか」
云われてみて古羊さんは思い出した。今日が自分の誕生日だということを。
笹信さんは履いてきたスニーカーの紐を緩めるのに手間どりながら、もう、と思った。もう、古羊さんはこれだから。
「かわいそうだから来てあげたんです」
スニーカーを乱暴に脱ぎ捨てて、笹信さんはずかずかと家に上がっていった。
土鍋の中には何だか判らないモノが次々に放り込まれていった。こんなの初体験だ、と土鍋は思う。怖いような、わくわくするような変てこな感じ。薄めにつくっておいただし汁がみるみる濁っていくのが判る。美味しい料理のできる予感の欠片すらない。あらゆる具材はてんでばらばらに足し算や引き算をくり返している。
暗闇の中のこの状況を土鍋は存分に楽しんだ。そして闇鍋とはいえ、土鍋であるところの自分の本領が久しぶりに発揮されていることを誇らしく思った。
「この、硬くて噛みにくいの、何ですか」
笹信さんの、苦労して噛み砕いている気配が伝わってくる。
「ビーフジャーキーかしら」
のほほんとした古羊さんの声が暗闇に響く。
「じゃ、これは? ぶにょぶにょした、甘いの」
「桃缶、かしらね」
しばらく笹信さんは黙って咀嚼し、飲み下す。
「古羊さん」
「なあに」
「なんかあたし、腹立ってきました」
「そう? 楽しいわよ」
再び沈黙の中、女二人がもごもご口を動かすひそかな音だけが聞こえてくる。それは闇の中に、何か別のモノが蠢いているように聞こえなくもない。
古羊さんのほうはずるずると何かを啜る音に変化している。啜っても啜ってもなくならないような気がして、古羊さんは笹信さんに訊ねた。
「これは何かしら。とても細い麺のような」
「そんなのあたし、入れませんよ」
「そう?」
「素麺とか、春雨とか、古羊さんが自分で入れたの、忘れてるんじゃないですか」
「そうだったかしら」
首を傾げ、それから古羊さんはずずっと啜り込む。何か判らないそれらをすべて身の内におさめなければならないような気になってきた。
暗闇の中、古羊さんはずるずると、一心に啜り続けている。
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