世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
二十八、咳
「大丈夫なのか?」
「大丈夫も何もお酒抜けるまで待つしかないんだって」
「そうなんだ。あの、ほら、何だっけ……、あの胃洗浄みたいなのは……」
「ああ。私もそれ言ったのよ。そしたら薬を飲み過ぎた訳ではないからって言われちゃった」
高校の頃、大勢で花見をしていたら呑み過ぎでぶっ倒れた女がいた。場所は井の頭公園。そいつが救急車で運ばれた後も、残った連中で呑み続けていたはずだ。たしか付き添ったヤツが胃洗浄をしていたと言っていたが記憶違いだろうか。
「あ、ごめん。ちょっと呼ばれた。また連絡するね」
おう、と返事をする間もなく唐突に電話は切れた。連絡するね、と言っていたが結局俺には何もできない。どんなに励みになる言葉をかけても、ナオの父親の容態が良くなりはしないだろう。電動自転車に乗ったオバサンがちらっと俺の方を見ながら通り過ぎた。やはりこんな場所で立ち止まっていると目立つ。
スマホをポケットに戻しながら角を曲がった。ほどなく安太の木造アパートが見える。一番最近ここに来たのは、忰山田率いる半半グレたちが何度もドアをノックした日の深夜、近所の人が通報して警官が巡回しに来た後だった。あの時はタクシーを使ったんだよな……。
目で確認する限り、二階の一番奥の安太の部屋に変わりはない。何度も女たちを連れて帰って来たあの頃のままだ。でも確実に違うことがひとつある。だから今もひょいひょいと階段を上がり、老朽化で音がひしゃげたチャイムを鳴らせない。大丈夫、昨日電話で話したとおり、冴子はまだ京都にいる。そう思ってはいるが、万が一の可能性は否定できない。部屋から「はーい」とあいつの声が聞こえるところを想像しそうになって、慌てて考えを逸らす。俺はこの件に関してとても臆病だ。
「賞を獲ったんだろ? おめでとう」
一度口を動かしてからアパートの階段に足をかけた。こうやって練習しておかないと、いざという時にうまく喋れない。鉄骨階段の塗料は派手に剥げ落ちていた。さすが築四十年。今まで気付かなかったが一段上るごとに結構な音がする。それは上りきった後も同じだった。通路も一歩前に出る度にギイギイとうるさい。
一番奥にある安太の部屋までは三部屋あって、どこも窓から灯りが洩れている。多分どの部屋の住人も、今誰かが二階に上がってきたと察知しているだろう。それくらい静かだ。どこかの部屋のカレーの臭いを嗅ぎながら一番奥まで。安太の部屋の窓は暗かった。もうコンビニのバイトに出たらしい。やっぱりダメだったか、と思いながらもその場を動かなかったのは未練のせいではない。古臭い木目調のドアの向こう側から何か聞こえたからだ。ギイギイと音を立てながら、もう一歩だけ近寄ってみる。間違いない。咳だ。部屋の中から苦しげな咳が聞こえる。
――なんだ、風邪ひいてるのか。
何故かふと気持ちが軽くなった。風邪なら仕方ねえなあ。そんな感じだ。きっと理屈は通らないが構わない。何の躊躇もなくチャイムを押してみる。
ビーンボーン。
相変わらずのひしゃげた音色。俺はさっき練習した「賞を獲ったんだろ? おめでとう」という言葉も忘
れて安太が出てくるのを待った。少しニヤけていたかもしれない。あれ、中に音が聞こえてないのかな。そう思ってもう一度チャイムを押した。
ビーンボーン。
でも安太は出て来ない。それどころか咳も聞こえなくなってしまった。仕方ないからドアに耳をくっつける。ひんやりと冷たい。息も殺してみたがやはり聞こえない。二十秒数えたがダメだった。あとはもうドアをノックして「俺だよ、俺」と伝えるだけだ。きっとその声も他の部屋には筒抜けだろう。手間かけさせやがって、とまたニヤけた瞬間、ひとつの可能性が頭に閃いた。もしかしたら、中には冴子がいるのかもしれない――。
安太の具合が悪いと知ったあいつは、京都から急いで戻って来た。なかなか咳が止まらない安太を看病していたら、誰かがアパートの階段を上ってきた。しかも部屋の前まで来てチャイムを鳴らした。きっと俺だと思った。バレたらまずい。だから安太は咳を我慢して、俺が諦めて立ち去るのを待っている……。そんな可能性が浮かんじまった。
やべえな、と一歩退く。安太は今、咳を我慢して苦しんでいて、冴子は早く帰ってくれないかなと俺のことを疎んでいる。うん、これはやべえ。
俺はわざと足音を鳴らしながら、安太の部屋の前から離れて階段を下りた。ギイギイという音は、ちゃんと安太と冴子の耳に届いているだろうか。邪魔して悪かったな。好きなだけ咳をしろ。なかなか治らないなら病院行け。そう念じながら階段を下りきった。ノケモノは早く去らなければいけない。内側では苛立ちと寂しさがぐちゃぐちゃに混ざっている。重い感情だ。どういう名前なのかは分からない。
あーあ、と息を吐きながらアパートの敷地を出た。微かにドアを開ける音が聞こえた気がする。安太か冴子が様子を探っているのだろうか。もちろん振り返らなかった。それが俺の為だし、あいつらの為だ。
さっきナオと電話をしながら寄り掛かっていた電柱を通り過ぎる。スマホを確認したがあいつからの連絡はなかった。
「賞を獲ったんだろ? おめでとう。実は新宿の美術館で見てきたんだ」
結局言えなかった言葉を小声で繰り返してみる。このまま下高井戸の駅まで行ってやろう。おめでとう、おめでとう、おめでとう。もしナオから電話が来たらそこでやめればいいし、駅に着いても電話がなければ、呟いたまま歩き続ければいい。どうせ家までは十分ちょっと。大したことない。おめでとう、おめでとう、おめでとう――。
結局、おめでとうと言い続けながら俺は家に着いた。さすがに安太へ届いただろうか。そしてナオは、あいつの父親は大丈夫だろうか。こっちから連絡をするのもアレだから、スマホを充電しながらコンビニへ酒を買いに行った。ロング缶を三本飲んだことを忘れている訳ではないが、ひとまず外に出たかった。今の俺にスマホは必要ない。
財布だけ持って外をふらついていたのは約一時間。でも何も買わなかった。コンビニにも行かなかった。下北まで行けば「大金星」はまだ開いているはずだが、それも行かなかった。本当は酒を呑みたい訳ではないと、どこかで気付いてしまったからだ。何も口に入れないまま、通過する世田谷線を眺めたり、盛り上がっている居酒屋に舌打ちしたり、人気のない急な坂道を息を止めたまま歩いたりしていた。こういう一時間は本当に長い。家に帰って来た時、三時間くらい経ったと思っていたのが恥ずかしい。
ナオからは一度電話がかかってきていた。充電したてで微かに熱いスマホを耳にあて、残されていた留守電を聞く。
「もしもし、連絡遅れてすいません。時間が遅いこともあるので、大事を取って入院するそうです。お母さんが付き添うと言っているので、私も一緒にいようと思います。今日は色々ごめんね。あと、ありがとう。明日の朝、また連絡します」
病院の中からだったのか、ずっと小さな声のまま吹き込まれていた。ごろんと寝転がりながら「助かった」と思う。今はあまり喋りたくない。喋った瞬間、余計なことまで吐き出してしまいそうな気がする。別にナオに限った話ではない。相手が誰であっても、多分俺は喋りたくないはずだ。
さあ、このまま寝てしまおう。明日は仕事、オープンからだ。布団は要らない。もし欲しくなったら後で敷けばいい。ただ、枕は必要だから引き寄せて頭を乗せた。電気も消す。さっき威勢よく「誰であっても」と言ってはみたが、そこに当てはまる人の数は多くない。順番に顔を浮かべてみても、すぐに一周してしまうだろう。だから何も考えない。案外難しいその作業がすんなり出来るようになったのは、世田谷線の音が聞こえなくなって少し経った頃。その後一時間は眠れなかったはずだが、もしかしたら二、三十分だったかもしれない。こういう一時間は案外短い。
目覚めたのは布団の上だった。でも敷いた記憶はない。念の為に確かめると、玄関の鍵はかかっていた。つまり、これは自分で敷いたということだ。もう一度考えてみたがやはり記憶はない。これ以上頑張っても思い出せないだろう。まあ眠れたんだからいいや、と枕元のスマホを見る。午前五時五分。あと少しで下高井戸行きの始発の音が聞こえてくる。さすがにまだ早いと目を閉じた。
もう一度目覚めたのもまた布団の上だった。さっきと比べて部屋の中が明るい。何時だろう、と確かめる必要はない。明るくなった部屋の中にはナオがいて、「そろそろ九時だけどまだ寝てていいの?」と教えてくれたからだ。
「うん、大丈夫。もう少ししたら起きるけど」
そう答えた俺に「本当かなあ」と笑いかけながら、するっと布団に潜り込んでくるナオ。着ているTシャツと短パン、どちらも俺の物だ。
「いつ来た?」
「少し前」
「病院から直接だろ?」
「うん。でも何で?」
ナオからはほんの少し病院の匂いがする。素直にそう伝えると、「嘘でしょ?」と自分の手の平をクンクンと嗅いだ。クンクン、クンクン、クンクン。布団の中に広がるその音のせいか、段々と身体が熱くなり汗ばんできた。そっとナオの手を掴んで誘導する。あ、と思わず声を出すほど冷たかった。
「まさか寒いか?」
「ううん。全然」
「でも、手が」
「朝だからじゃない?」
「そんなもんか?」
そう言いながらも誘導はやめない。俺の欲求を理解しているナオは、自分から引っ張り出し、指の腹で触れてから、そろそろと形をなぞってくれる。遠慮なく情けない声を出すと、一瞬手の動きが止まった。クンクンが途絶えた代わりに、押し殺した息遣いが身体をずっと熱くさせている。次は俺の番だ。そうしないと攻める前に終わってしまう。さあ、攻守交代。とにかく舌が乾いて千切れるまで舐めつくしたい。布団に包まれているせいか、いつもよりも白く見える焼けた肌。まずは裸に剥かないと。だけど不思議だった。もうナオは何も着ていなかった。いつもの場所にユリシーズがいるだけだ。
「あれ?」
「どうしたの?」
「いつ脱いだ?」
「じゃあ、もう一回着る?」
問いかけるだけの会話を続けながら、俺はナオに吸いつき、ちょっとずつ唇をスライドさせる。もちろんその間も指先は休まない。お互いに少しずつ湿ってきているが、まだまだ。まだまだ野蛮になるには早すぎる。擦り付けながら、つまみながら、唾でベトベトにしながら、俺はナオを征服しているという錯覚を楽しんでいた。溺れているのを楽しむ感じ。足がつかなくなる場所まで行ってみる。波がふわっと助けてくれるのを待ちながら、自分でもバタバタと動いて、気付けばまた元の場所。
「なあ」
「ん?」
「一番いいだろ? なあ?」わざと幼稚な質問をしてみた。「一番だろ?」
「何の?」
「え?」
「何の一番? 今までした中での一番? それとも全部の中での一番?」
考える余裕はない。焦らしているつもりが、俺の方がいっぱいいっぱいだ。このままだともう少しで限界が見えてしまいそう。押し上げるようにして脚を開かせ、その間で膝をつく。まだ冷たい腿の付け根を手繰り寄せ、形を合わせにかかる。どちらも準備が出来ているのは一目瞭然だ。でもおかしい。いざ押し込もうとする度に頼りなく萎えてしまう。もう一度もう一度と試すうちに膝が痛くなってきた。ナオの方は大丈夫だ。見れば分かる。指先で確かめるまでもない。
「どうしたの?」
「ん? 大丈夫だよ」
「本当に?」
「え?」
「一番いいんじゃないの?」
「……」
「ねえ、どうなの? ねえ、ねえ」
一旦歯車が狂うと厄介なのは何度も経験済みだ。ここからバイアグラのジェネリックでもないだろう。だから何とか押し込みたかった。侵入できれば何とかなるかもしれない。でも、ダメだった。万遍なくヌルヌルなのに、入口が見つかると途端に芯が消えてしまう。ちっとも奥まで入っていかない。
「ねえ、それなーに?」
「ん?」
「それ。そーれ」
ナオの視線は俺のヘソから数センチ下にある。自然と鳥肌が立った。あの赤黒い痣が無防備に晒されている。しかも確実に前より大きくなっていた。
「いや、分かんない。ちょっと前からなんだけど……」
「ちゃんと答えて」
脚を全開にしたままナオは斬り込んできた。ヌルヌルの向こうにある真剣な顔。すっかり縮こまった俺は視線のやり場に困りながら言い訳を考える。
「本当は一番じゃないってことなの? っていうか、他の人ともしてるの?」
「……」
また病院の匂いが漂ってきた。こんな状態なのに、ちっともやらしくない匂い。当たり前だ。これがやらしかったら病院は大変なことになる。
「ねえ、聞いてる? 他の人ともももももももしてるの?」
頭の中にはっきりと安藤さんの顔が浮かんだ。赤黒い痣が熱を持ち始めている。不安になってユリシーズを探したが、ナオの左腕には見当たらない。
「どうなの? してるの? 他の人とももももももも」
桃は出なかった。それだけではない。声も聞こえなくなった。ナオは口をパクパクさせている。俺の耳がおかしくなったのだろうか。
「……あれだけ言ったのに、まだ分からないんですね」
また声が聞こえてきた。どうやら耳は大丈夫みたいだが、その言葉がまずい。あの日、道玄坂のホテルで安藤さんから言われたのとまったく同じじゃないか。いや、あれはたしか夢だったんだ。あの後、彼女に起こされたんじゃなかったっけ……。とりあえず「ナオ」と呼びかけてみるが反応はない。無言のままずっと赤黒い痣を見続けている。
「……もう一度言いますよ」
「……」
「私で最後にしておきなさい」
え、と口を開いたタイミングで、バタバタと派手な音が聞こえた。この顔目がけてユリシーズが飛んできている。手で振り払ったが羽音はちっとも止まない。数秒遠ざかった後、油断する間もなく両方の耳に急接近してきた。思わず大きな声が出る。ごめん、と謝ったのかもしれない。瞬間、ビクッと身体が震えて一気に目が覚めた。喉はカラカラで膝は痛い。夢と現実の境目で、俺は土下座をしていた。もちろん服は着ていない。真っ裸だ。
そのまま身体を前に崩し、枕元のスマホで時間を確認する。八時ちょっと過ぎ。本当に夢だったんだ、と裸のまま全身を伸ばす。念の為確認すると、赤黒い痣はずいぶんと薄くなっていた。色々と考えるのは後にしよう。転がって仰向けになると、何度か続けて咳が出た。木の枝が折れる音に似た乾いた咳だ。
(第28回 了)
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