世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
二十七、質問タイム
店長は今迷っている。まず間違いない。俺の首筋の痕は、そこで黙々とTシャツをたたみ直している安藤さんが残したのか。そう訊こうかどうしようか、すぐ目の前で迷っている。
俺だって同じだ。ついさっきまで安藤さんとしていたのか、店長に確認しようかどうか迷っている。別に真相なんか知りたくない。ただ波風が立った時の安藤さんを少し見てみたいだけ。
悲しいかな俺たち二匹のオスはどこか似ていて、こうして向かい合っている様は滑稽だ。もし彼女の反応が見られるなら、「はい、これは道玄坂のホテルで安藤さんにつけられたものです」と嘘をついたっていい。結果どんな反応をするかは全く予想がつかない。意外と慌てふためくかもしれないし、俺たちを相手に突然逆ギレするかもしれない。どっちにしても似合うだろうなと思う。美人は得だ。
ふと店長の目線が下がる。もしかしてヘソの下の赤黒い痣に気付いたのかな。いや、もう安藤さんが全部話してたりして。そんな想像のせいで軽く背筋が伸びた。
「ちょっと、お茶買ってきます」
先に動いたのは向こうだった。くるりと向き直り足早に外へ出る店長の背中を、安藤さんは静かに見つめている。結局俺は波風を立てなかった。その理由はひどくつまらない。この狭い職場でわざわざ働きづらくしてもなあ……。それだけ。きっと店長だって同じだろう。
つまり俺たちは助平なだけ。単にぐちょぐちょがしたいだけ。だったら安藤さんはどうなのか? こればかりは本人に訊いても無駄だ。例えば今、嘘をついてでも波風を立てていたら判明したかもしれない。
「店長、今日はすぐに帰ると思います」
ドアの方を見ながら安藤さんが言う。感情のこもらない声だが、元々こうだったかもしれない。道玄坂以前の彼女の声を、少なくとも今は思い出せない。
「何か用事があるのかな?」
「お迎えですよ、娘さんの」
「え? お迎え?」
「はい、幼稚園の」
店長に娘がいる、というか、まず結婚していたことを知らなかった。いや、前に聞いたことがあったかもしれないが、感覚的には初耳だ。馬鹿みたいに口を開けたまま、一応「へえ」とだけ発しておく。
「今日は奥さんが羽根を伸ばす日だから、友達何人かで中華街に行くって言ってました」
安藤さんがこっちを振り向き、涼しげに微笑んでみせる。俺は慌てて口を閉じた。
「私、中華街って行ったことないんです。っていうか、ちゃんとした中華料理を食べたことがないんですよね」
「……好きなのは何?」どうにか言葉が出た。「中華料理で」
「うーん、難しいですねえ……、食べたことがないのは本物の北京ダックです」
「本物?」
「はい」
それから彼女は群馬の実家の近所にある中華料理店の「北京ダックもどき」という鳥もも肉を使ったメニューの話をした。その店の中で一番、そして自分の中華料理経験上もっとも美味しい料理だという。可愛らしい話だが、記憶をたどりながら話すその姿は何かをごまかしているようにも見える。
「ニセモノであんなに美味しいんだから、本物はその上いくんだろうなって」そう言い終えると脚立を引き寄せ腰を下ろした。「麻婆豆腐、好きなんですよね?」
何で知っているのかと考える必要はない。この間、道玄坂で自白剤を飲んで答えたはずだ。
「そうそう。店長の奥さん、すごく胸が大きいらしいですよ」
絶妙なタイミングで眼鏡を外しながらの一言だった。やはり彼女の顔は美しい。
しばらくしてお茶を片手に買ってきた店長は、バックヤードに二、三十分入っただけでそそくさと帰ってしまった。安藤さんの言うとおり、幼稚園へお迎えに行くのだろう。四歳になる娘の名前は「すみれ」というらしい。彼から積極的に子どもの話をしたがるとは思えないが、それも自白剤で聞き出したのだろうか。そんな軽口を叩きたかったが、この店に「自白剤」という単語は似合わないから諦めた。
それと店長が一度も俺と目を合わせないまま帰ったのは偶然だと思いたい。この店にずっといるつもりはないが、あと数ヶ月で辞める気もない。まあ、彼も妻子持ちなら変に熱くなることはないだろう。四歳の娘に巨乳の奥さんなら尚更だ。
その店長から帰り際に頼まれたパソコン作業を、安藤さんは黙々とこなしている。俺は一切ノータッチの業務だ。「ネットにアイテムをアップ」しているらしいがそれ以上のことは知らない。唯一俺が知っているのは、この店のホームページが壊滅的に地味なことだけだ。
「結構売れてるの? ネットの方って」
パソコンの画面から顔を上げた安藤さんは、「いやあ……、多分あんまり……」と苦笑いをしてから「今日はここまででいいや」と椅子から立って身体を伸ばす。今頃店長は可愛い娘との時間を楽しんでいるのだろうか。案外、心ここに在らずでぼんやりしているのかもしれない。
「あの、今日ここ終わってから予定ありますか? 今調べたら三茶から中華街って一時間くらいなんですね」
「中華街? ああ、北京ダックってこと?」
「いや、それは今日じゃなくていいんですけど」
「ごめんね。今日はちょっと予定があって……」
忘れずに「マスカレード」へ寄って鍵を返してもらわないと、朝まで路頭に迷うことになるし、ナオが今日も家に泊まっていく可能性だってある。
「ああ、はい、大丈夫です。なんか、すいません」パソコンを閉じた彼女は、笑顔を浮かべながら言葉を続けた。「もしかしたらデートだったりします?」
一瞬嘘をつこうかと迷ったが、後々面倒になるので素直に頷いてみる。おお、と大袈裟に反応しながら「何人かいるんですか? 彼女さん」と質問を重ねる安藤さん。
「いや、ひとり」
「じゃあ、過去に複数持ちの経験は?」
「複数? 同時にってこと? いやあ、それは……」
これじゃあ自白剤の時と同じだな、と思ったタイミングで運良くお客様御来店。内心安堵しながら「いらっしゃいませ」と声を出す。両手にショッピングバッグを下げたカラフルな髪のカップルだ。だが当店は御眼鏡にかなわなかったらしく、早足で店を一周したかと思うとすぐに出て行ってしまった。
「えー、じゃあ複数はナシなんですね」何事もなかったように安藤さんは話を戻す。「ありそうな気がしたんだけどなあ」
次に訊かれたのは経験人数だった。そんなもの、数えようと試みたこともない。確実なのは最後に記録を更新した女性が、質問者の安藤さん自身ということだけ。一応考える振りをしながら思い浮かべていたのは安太の顔、ではなく下高井戸のアパート、自称アトリエだった。数はあそこでずいぶん稼いだはずだ。
「よく覚えてないけど、普通じゃないかな」
そう濁そうとしても安藤さんは許してくれない。今度は複数プレイの経験を訊きたがる。正直なところ面倒くさいが悪い気はしない。やはり美人は得だ。まだ生々しい道玄坂のホテルの301号室での記憶が疼き出す。「まあ何度かは」と答えてみたけれど、安太の部屋では大抵そうだった。別々におっ始めても、結局最後は混ざっちまうんだ。
「あ、やっぱりあるんですね。じゃあ外国の人とは?」
パッと浮かんだのは韓国のミンちゃん。和歌山に引っ越して堅気になる予定の右田氏はまだ連絡を取っているのだろうか――。思いがけず記憶の断片が繋がった。そうだ、安太を脅していた半半グレの忰山田が群馬だったんだ。安藤さんが群馬出身と聞いた時から、何となく引っ掛かっていたのはこれだったのか。
「あのさ、地元に忰山田って苗字の人、いなかった? カ・セ・ヤ・マ・ダ」
たいした期待もせずに訊いてみた。答えは当然ノーだったがすっきりしたので、ミンちゃんだけではなく安太の部屋に連れ込んだフランス人、「フェラティオ、シマショウカ」と起き抜けに言ってきた女のことも喋った。「その女、超ヤバいですね」と笑う安藤さんを見ながら思う。分かってはいたが、俺のぐちょぐちょには結構な割合で安太が絡んでいる。
客足が途絶えたこともあり、その後も彼女からの質問は続いた。道具を使ったことがあるか。撮影をしたこと、またはされたことがあるか。年齢がとても離れた人との経験はあるか……等々。
正直に答えたり答えなかったりしたが、頭の中にはずっと安太のことがあった。ほとんどの話に絡んでいるから仕方ない。そしてその気配は安藤さんの質問タイムが終わり、増え始めた客の相手をしている時も、まだぼんやりと残っていた。
パソコンで作業をしていた時から、安藤さんが何とはなしにスマホを気にしているのは分かっていた。誰かからの連絡を待っているのだろう。店長からか、それとも恋人からか。
一昨日の夜、彼女はホテルに入る前のカラオケボックスで、確かに付き合っている人がいると言っていた。あれって店長のことだったのかな。さっきあれだけ色々答えたんだから、訊けば教えてくれるだろう。そう踏んで「あのさ」と言いかけたタイミングで太腿に振動を感じた。先に連絡が来たのは俺の方らしい。
仕事中ごめん/さっき母から連絡が来て、これからまた実家に行くことになりました/仕事も早退です/今から鍵、渡しに行って大丈夫?
ナオからのメールだった。あいつがここに来る、という事態は想定外だ。出来れば遠慮したい。半径十メートルの中に安藤さんとナオが入った瞬間、ヘソの下の赤黒い痣が爆発したりしないだろうか。もちろん断る訳にはいかないから「大丈夫」と返事を送る。すぐに「二十分後に行きます」と返ってきた。そうか、「マスカレード」からここまでは二十分なのか。
なるべくなら二人を会わせたくないので、頃合いを見計らって店の外に出た。客は三人。安藤さんだけで大丈夫だろう。数分待つとナオの姿が見えた。
「ごめん。ちょっと遅れたね」
「いや、全然。っていうか、お母さんの様子はどう? 大丈夫なのか?」
分かりやすくナオの顔が曇る。ポケットから出した鍵を俺に渡し、自分のバッグから作ったばかりの合鍵を取り出した。
「これ、作らせてもらいました」
「うん。っていうか、大丈夫そうなのか? お母さん」
「……お父さんが病院に運ばれたんだって」
無言のまま息を呑む。もう「大丈夫か?」とは訊けない。早く行ってやれ、と肩をポンと叩く。きっとナオだって状況を完全には把握していないはずだ。
「ありがとう。また落ち着いたら連絡する」
「ああ。まずは自分がしっかりな」
小さく頷くとナオは駅に向かって歩き出した。三軒茶屋から渋谷に出るつもりだろう。俺はしばらくその場に立っていたが、あいつは一度も振り返らなかった。
「今日は色々訊いちゃってすいませんでした」
店を閉めて帰る間際、安藤さんはそう言って頭を下げた。ナオは今夜、自分の家にも俺の家にもきっと帰れないだろう。中華街、付き合ってもいいかな。そう思わなくもない。もしそうしたら、きっとまた朝まで一緒にいるだろう。
「明日はオープンからですよね?」
鍵を閉めながら安藤さんが尋ねる。そうそう、と答えた俺の声は乾いていた。
「私、オフなんですけど、また顔出すかもしれません」
「うん、分かった」
「あの、中華街じゃなくてもいいんで、また付き合って下さい」
今日これからでもいいよ、とは言えなかった。近いうちにね、と微笑み下北方面へと歩き出す。さっきのナオを見習って一度も振り返らないつもりだ。もし安藤さんがさっきの俺みたいに立ち尽くしていたら、きっと決心は鈍る。一時間後には中華街で一緒に北京ダックを食べているだろう。
歩くこと四、五分。目についたコンビニに入って気持ちを落ち着ける。イートイン・コーナーでは学生風のカップルが、肩を寄せ合いスマホの画面に見入っていた。どうにか中華街を振り切ったのは、ナオのことだけが原因ではない。安藤さんの質問タイムの時からずっと、もちろん今だって頭に安太が浮かんでいる。中華街で北京ダックを食べるには最悪のコンディションだ。
ただ、こんな状態だからこそ思い付くこともある。昨日の電話で冴子は京都から明日帰ると言っていた。少なくとも今夜、下高井戸の安太の部屋にはいないし、訪ねてくることもない。「おめでとう」と告げるなら今夜がベスト。店を閉める準備をしながら、そう思い付いた。もちろん当の安太がいない可能性もある。もう駒場のコンビニに出勤した後かもしれない。でも、物は考え様。案外そのパターンこそが大当たり、いや格好の逃げ道だったりして……。
下北方面に歩いてきたのは間違いではない。あのまま安藤さんと歩いていると、せっかくの思い付きを無視してしまいそうだった。だから逆方向に来ただけだ。これから三軒茶屋の駅を目指し、世田谷線で下高井戸まで行く。
ただその前に再びロング缶を一本。気持ちをあと少しだけ軽くしたい。ロング缶とベビーチーズを買うまでは良かったが、イートイン・コーナーの入口には「飲酒禁止」とある。まあいいや。あの学生風のカップルの隣でビールを呑むのは、さすがに気が引ける。
多分そんなに久しぶりではないはずだが、下高井戸の踏切周辺の景色はどこか懐かしかった。その感覚が緊張に変わりそうだったから、もう一度ロング缶の力を借りる。まさか今日ここに来るとは思っていなかった。本当、想定外だ。ベビーチーズを齧りながら、口の中でモゴモゴと練習してみた。
「賞を獲ったんだろ? おめでとう。実は新宿の美術館で見てきたんだ」
普通のことしか言っていないつもりだが、物凄く変な言葉のような気もする。おめでとう、という気持ちだけ無言のまま届いたらいいのに。
安太のアパートへの道のりはさすがに足が覚えている。午後九時過ぎ。段々と近付くにつれ、人通りは少なくなり街灯の数は減る。結構暗い。女を連れ込む時は大体タクシーで、安太はアパートの前でなくこの辺りで車を降りた。いつか理由を尋ねたら、遅い時間の車の音は近所迷惑になるからと恥ずかしそうに答えたっけ。
その角を曲がれば、あの築四十年以上の木造アパートが見えてくるはず。もうそろそろだ。やはり湧き上がってきた緊張感を抑えられないまま歩いている。と、太腿に振動を感じた。スマホを取り出すとナオからの電話。急いで出る。
「もしもし、落ち着いたか?」
「ああ、うん。まあ、ちょっとはね……」
「今、病院?」まさかと思いつつ、頭によぎるのは最悪の事態だ。「お母さんと一緒か?」
「うん」
早く答えを聞きたいが焦らせてはいけない。俺は一旦立ち止まって電柱にもたれかかった。こんな場所で男がひとり佇んでいると妙に目立つ。
「お父さんね、居酒屋で呑んでてぶっ倒れたんだって」
「え?」
「で、救急車で運ばれたの。急性アルコール中毒」
(第27回 了)
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