世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
二十六、隠しごと
トランクスにTシャツ、ビーサン履きだが、外は暑くもなく寒くもなく静かだった。切れかけた電球のせいで薄暗い廊下。俺の部屋は一番奥だ。二階の住人で夜中に洗濯機を回す奴がいるけれど、今はそれもない。世田谷線だってとっくに終わっている。薄闇の中、「お兄ちゃん、今大丈夫なの?」というあいつの声も、「大丈夫、大丈夫」という俺の声も予想以上に響く。
「さっきね、電話したんだけど出なかったから、もう一度かけ直しましたー」
「ああ、ごめんごめん。ちょっと外で呑んでて」
「外ー? っていうか今も外でしょう?」
外は外だが玄関前、一歩戻れば家の中だが俺は「まあな」と応えた。そんな事より冴子の妙な明るさ、テンションの高さが気にかかる。お前の方こそ外で呑んできたんじゃないのか。そう問い詰めたい気持ちは後回し。まずは先に訊くことがある。
「どうだ、失踪の方は?」
ハハハ、と読むように笑ってから「お兄ちゃん、ありがとうね!」と冴子は一際大きな声で礼を言った。そうされてしまうとやりづらい。妹の似合わないノリに思うことはあるが、ボソボソと「で、何か用か?」と尋ねるのが関の山だ。
「何か用って、ちょっとお兄ちゃん、忘れちゃったのー?」
「え?」
もうイヤだあ、という冴子の声を聞きながら考える。こんな時間に家のドアの前で記憶を呼び戻す。でもダメだった。何も浮かばない。
「私、最初の時に言ったじゃない。半分経ったら一度連絡するからって」
「半分?」
「そう、半分。折り返し地点。今日で四十五日目。もう、ひと月半経ったの」
そんなこと言ってたっけな、と首を傾げながら黙っていた。階段を上る足音が聞こえたからだ。コツコツという音は多分ハイヒール、女性だろう。鍵を出す音、咳ばらい、ドアの開閉音。その間、冴子も黙っていた。
「……いや、すっかり忘れてるんだけど。そうか、もうそんなに経つか」
半分は嘘だ。「もうそんなに」経つことは分かっている。そして、あと一ヶ月半も残っていることだって理解している。今は下高井戸の安太のアパートからかけているんだろうか。この時間、安太は駒場のコンビニでバイト中だ。ヤツがいる時に冴子は電話をして来ない。そんな気がする。
「酒、呑んでるのか?」
「うん、ちょっとだけね」
「ほどほどにな」
「それ、私のセリフだよ」
フフフ、と今度はいつものように笑った。だからつられて笑いながら、「今、どこだ?」と自然に訊けた。いや、訊いてしまった。失踪人にする質問ではない。ごめんごめん、と打ち消しかけたが冴子は答えてくれた。
「今、京都」
遠いな、と間抜けなことを思った俺は高級ハイボールの飲み過ぎかもしれない。割り物は後から効いてくる。ずっと京都なのか、たまたま京都なのかを訊きたかったが、それも冴子が先回りして教えてくれた。
「一昨日着いたの。しかも飛行機。伊丹空港まで乗って、そこからバス。あんなに短時間の飛行機、初めて。でも新幹線より安かったんだよ?」
目的、滞在期間、初めてか否か――。質問が喉元で渋滞を起こし、その結果咽せてしまった。
「ええ? 大丈夫? びっくりさせちゃった?」
まあこんな風に明るく笑えるならいいか、と気が軽くなる。そういえば元々「東京を離れたい」と言ってたんだよな。この期に及んで俺が思い悩むことなんて、これっぽっちもないのかもしれない。こいつももう二十六歳だ。
「ちょっと替わってくれるか?」
気が軽くなったあまり、そう言いそうになった。安太と一緒にいると決まったわけでもないのに。
「こっちはねえ、テレビで見たとおりなんだよ、本当に。もう観光客だらけ。まあ、私もそうなんだけど。昨日はトウジに行ってきたんだ」
「ト・ウ・ジ……」
「うん、お寺さん。ヒガシのテラで東寺ね。高校の時に修学旅行で来て以来だよ。やっと来れたって感じ。あの時より超混んでたけどね」
「そうか。よく分かんないけどさ、楽しそうなら何よりだ。じゃあな」
そう言い捨てて電話を切ってしまいたかった。でも安太に「おめでとう」と伝えたい。だったらその前に、俺が二人のことを知っている――、正確には疑っていることを伝えなくてはいけない。それは気が重い作業だ。できれば電話ではなく、面と向かって確かめたい。
どうしようかと迷う。そして冴子は京都の素晴らしさを語り続けている。俺は相槌を打ちながら、何度かウトウトした。目隠し用のクリーム色の壁に視線を合わせる。二階から洗濯機を回す音がした。あれはさっき帰ってきた女だったのか。
「で、いつまでいるんだ?」
「明後日には帰るよ。本当はもっといたいんだけどね」
「そんなにいいのか、京都」
「うん。全然時間足りないよ。明日は金閣寺とか仁和寺を見に行く予定なの。でね、最初の日にね……」
背後でゆっくりとドアが開く。ナオが起きちまった。テンションの高い冴子の声は漏れ続けている。変な勘違い、しなければいいんだけど。そう思ったのが合図だったらしい。振り返る前に後ろから抱きしめられた。
Tシャツ越しだが分かる。ナオは服を着ていない。胸に回した手がトランクスの中へ滑り込むのは、電話の相手を勘違いしているからなのか。
「妹だよ」
そう言えば済むのかもしれない。でもウトウトしている俺はそのまま身体を任せた。ゆっくりとTシャツがたくし上げられ、背中を強く吸われる。二度、三度、四度吸った後、軽く噛み、その場所を丹念に舌先で撫でる。薄闇の中、自宅の玄関前で俺は反応し始めていた。遠くで車の音がする。ここは一階。クリーム色の壁があって良かった。
ナオの腕に誘われるがまま、ドアの方へと向き直る。上半身だけ裸、着けているのは水色の小さな下着一枚。焼けた肌に留まるユリシーズまで起きたかどうかは分からない。目線を下げて確認すると、ヘソの下の赤黒い痣は辛うじて隠れていた。ナオの薄い唇が迫ってきて口を塞ぐ。歯と歯が当たって音を立てた。
「……規則だと日本人はダメらしいんだけど、今回だけ特別にってオーケーしてくれて、本当にラッキーだったの。普通のホテルよりも全然安いんだよ。お兄ちゃん、ゲストハウスって泊まったことある?」
ううん、と喉で返事をした。口の中ではナオの舌が動いている。ようやく抜いたかと思うとまた挿して、の繰り返し。やっぱり電話の相手を知らない女だと勘違いしているんだろうか。今の「お兄ちゃん」という冴子の声、聞こえなかったのかな。
口の次は顎、その次は首。トロンとした目つきとは裏腹に、ナオの舌は勢いがいい。Tシャツの襟口から潜り込む。いやらしい音を隠そうと、スマホのマイクを指の腹で塞いだ。効果は謎だが、やらないよりやった方がマシだろう。
ぼんやりと話を聞きながら、京都には一人で行ったのかもしれないと思った。だったら安太は今、駒場のコンビニでバイト中だ。いや、分からない。もしかしたらこうして喋っている冴子を、後ろから抱きしめているのかもしれない。自分に隠しごとがあるせいで、他人を疑いやすくなっている。
想像しているとおりよ、という感じでナオが首筋に吸い付いた。まだ硬くなりきらない乳房をぐいぐいと擦り付け、俺の身体にしがみつきながら、痛みを感じるほどの強さで自分の痕を残したがっている。赤黒い痣と妙な反応を起こさないかな、と考えながら身体を預けた。
空いている左手で思い切りナオの尻を掴む。つるつるで気持ちがいい。次は爪の先でぷちぷちとつねってみた。そして中指で悪戯を仕掛ける度、首筋への吸い付きが微かに弱まる。水色の下着を半分ずらしたところで、ナオが後ろ手でドアを開けた。外でするのはここが限界、ということか。俺に異論はない。スマホをそっと地面へ置き、ナオの背中を押すようにして部屋に戻った。さっき帰ってきた時と同じだ。今日はこうなるはずじゃなかったのにな。予想なんて何の役にも立たない。
今度は俺が後ろから抱きしめる番だ。ナオは軽く膝を曲げ、零すように腕の力を抜いた。Tシャツを脱ぎ、赤黒い痣と綺麗な背中をぴったりとくっつける。中指で確かめた時は熱かったのに、背中はひんやりと冷たいから軽く鳥肌が立つ。数回、二階の洗濯機の音が小さく響いた。冴子はもう電話を切っただろうか。切った後、安太に微笑みかけただろうか。あいつの隠しごとは本当にそれだけだろうか。俺は太腿までずり落ちた水色の薄布を更に下ろし、乳房の硬度を丹念に確認する。この感じなら、あともう少しいける。初めてナオが甘い声をあげた。電話をしていた手前、我慢していたのかもしれない。
ビーサンを履いたままトランクスから引っ張り出し、腰を突き出して宛てがう。もうこれ以上焦らさなくていいだろう。足拭きマットに手をついたナオの息遣いは荒い。抉じ入れた瞬間、魂が抜けるような声を出して首を左右に振った。
後ろからだから、根元の辺りがいつもよりキツい。「いやあ、いやあ……」というナオの声が、外に置いてきたスマホに届かないかと気になる。いや、気にしない。そもそも気にならない。ふん、絶対気にするもんか。ナオが背中を反らす度、両方の脚が震える。結局最後に一番大きな声をあげたのは俺の方だった。
虫の交尾みたいな体勢のまま、二人とも玄関で少しだけ眠っていたようだ。本当に二、三分だけ。ナオはベトベトの背中のまま、フラフラ左右に揺れながらシャワーを浴びに行った。俺はガクガクの腰つきで裸足のままドアを開け、落ちているスマホを拾い上げる。Tシャツは脱ぎっぱなしのトランクス一枚。やっぱり暑くも寒くもない。もちろん電話は切れていたが、冴子からのメールが一通届いていた。
寝たっちゃんでしょ? /長電話でごめんね/風邪ひかないでよ!
やっぱりあいつ、結構呑んでたんだろうな。らしくない打ち間違いだ。たっちゃん、って誰だよ。寝てるたっちゃん、寝たっちゃん、か。
「マジで誰だよ」
俺は薄暗いドアの前でスマホを見ながら笑った。なんだか久しぶりに笑った気がする。さあ、とっとと寝てしまおう。今日途中であがった分、明日は早めに店へ行かなければいけない。そして夕方からは安藤さんもやって来る。何度もメールが来たあの感じからすると、きっと疲れるはずだ。心身ともに一度どっぷり休ませておかなければ。
家の中へ入って鍵を閉め、つんのめり気味に布団へ駆け寄り倒れ込む。シャワーは起きてからでいい。やり残したことは、安太への「おめでとう」だけだ。風呂場から出てきたナオの欠伸を聞きながら、俺は赤黒い痣を隠しもせずに眠った。
「ねえ、頭痛くない?」
さっきから何度も同じ言葉が聞こえている。その度に「大丈夫」と答えているはずだが、ちゃんと伝わっていないらしい。薄目で時間は確認した。もう少しで九時。そろそろ起きたいけれど、自分を甘やかし続けてこのザマだ。
「ねえ、頭痛くない?」
「大丈夫。っていうか、二日酔いだろ?」
「多分ね。薬局ってまだ開いてないよね?」
「十時くらいじゃないかな。俺、シャワー浴びたら仕事行くけど、少し寝ていくか?」
「うん。あ、でも鍵……」
そろそろナオに鍵を渡しておいてもいい頃だ。何となく引っ掛かるのは、冴子にも鍵を渡しているから。別にわざわざ言う必要もない。隠しておいた方がいいことだってある。世田谷線の踏切がカンカンと鳴り響いたのをきっかけに、俺は上半身だけ起こした。布団の上にいるユリシーズの青が眩しい。
「鍵、持ってっていいよ。今日、帰りに『マスカレード』に寄るからさ」
「え、でも……」
「で、時間あったら合鍵作っておいて」
そこから何度か「いいの?」「もちろん」というやり取りを繰り返し、ようやくナオは喜んでくれた。もしかしたら、とシャワーを浴びながら確認したが、ヘソの下の赤黒い痣は消えることなく残っていた。
いつもより一時間ほど早く店を開け、マクドナルドのモーニング・セットを食べながら、昨日やるべきだった作業を黙々とこなした。思えばここ数日、妙に目まぐるしい。次々に波紋が起き、一向に鎮まらない。
昼を過ぎた頃に店長から「すみませんが少し遅れます」と連絡が入った。元気がないのを隠そうともしない声だ。いっそのこと休んでくれないだろうか。せめて今日一日くらい穏やかに過ぎてほしい。仕事が終わったらナオから鍵を受け取り、おとなしく家に帰って一日を終えたい。でも、それはなかなか難しそうだった。予定より早く来た安藤さんははにかんだ表情で頭を下げ、俺は無邪気に「綺麗だな」と思ってしまった。
「あの、昨日は何度もすいませんでした」
「ううん、大丈夫だよ」
「よかった。鬱陶しいヤツだと思わないで下さいね」
今日を穏やかに過ごしたい気持ちに嘘はないが、こんな彼女とのやり取りが楽しいのも事実だ。放っておいても一昨日の夜の記憶が頭をよぎり、また新しい波紋が生まれそうになる。
「そういえば店長、少し遅れるって」
「あ、はい。……知ってます」
思わず「え?」と声に出してしまった。安藤さんはもう一度「ええ、知ってます」と呟き、俺の顔を見る。また波紋がひとつ。
「さっきの電話の時、私、一緒にいたんです」
当たり前だが、まったく気付かなかった。店長め、うまく隠し通したもんだ。さすがに「俺とのこと、喋った?」とは訊けないので、難しい顔で「そっか」とだけ言ってみる。また穏やかな一日が遠ざかってしまいそうだ。
ドアが開いて客が入ってきた。何度か来たことのある学生風の女の子が三人、きゃっきゃとした笑い声を店内に響かせる。いらっしゃいませえ、と安藤さんは声を張ってから小さく肩をすくめた。「もうタイムカード押しちゃったら?」と促すと、大袈裟に深々と頭を下げてみせる。ついさっき、この子と店長との間に何があったんだろう。
そこから一時間ほどは客の出入りが絶えなかった。もちろん安藤さんとは話せない。段々と店内の客が減り、最後のひとりがスカートを買って出て行った直後、「ありがとうございましたあ」と見送った彼女が「実はさっき……」と口を開いた。うん、と相槌を打ったタイミングで店のドアが開く。いらっしゃいませ、という必要はなかった。店長だからだ。どことなく顔色が悪い。
安藤さんは素っ気なく「お疲れ様です」と声をかけ、俺もそれに続く。ちらっと盗み見た彼女の横顔は無表情。俄かに緊張が走る。遅れてすいません、と小さな声で謝った店長は、やはり疲れを隠そうともしない。レジの前で立ち止まり、一点を凝視している。彼の視線の先にあるのは俺の首筋。多分そこには昨日ナオが残した痕跡があるはずだ。
(第26回 了)
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