女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
相変わらずおチビちゃんは忙しい。あっという間に時間が過ぎる。自分の稽古はもちろんのこと、最近では浅利先生御指名のダメ取りを、長野県の大町にある稽古場を兼ねた山荘で行なったりもする。
大町には浅利先生の遠縁の親戚がいたり、劇団が大変な時期に地元の八十二銀行から融資を受けたり、といくつかの御縁があるらしい。行く時は大体二泊三日のスケジュール。長野の山荘、なんて聞くと何だかのんびり寛いでいるみたいだけど、実際は逆。スイッチをオフにできる瞬間がまったくないので、かえって東京にいる時よりも疲れてしまう。やっぱり私が一番忙しいわよね、と思わざるを得ない。
ただ、ちょっと前から感じていることがひとつある。参宮橋の研究所の雰囲気が、この頃少しずつ変わってきた。何というか、四六時中ずっと慌ただしい。一階の奥にある「A教室」も、二階全体を使った広い「稽古場」も、まるで取り合いみたいに休みなく稼働している。
周りのみんなだって、前よりも明らかに忙しそうだ。聞けば一日二本の公演、しかも「同じ会場で午前と午後」ではなく、一本目と二本目が別々の場所、別々の演目という場合もあるらしい。
またおチビちゃんの後輩たちは、研究生の頃からもう役について舞台に立つけれど、以前はそんなに早くなかったと先輩たちは言っている。それから近頃「準劇」、準劇団員の数もずいぶん増えたみたいだ。そういえば、ルームメイトのアヤメさんも準劇だったわよね――。
こんな風におチビちゃんも、劇団の年間上演回数が五百回を超えた影響を実感し始めていた。
その日の夜も初台のマンションに帰った時にはヘトヘト。アヤメさんはいるはずだけど、わざわざ自分の部屋から出てきて「お帰りなさい」と言ってくれるわけではない。それはおチビちゃんだって一緒。元々仲が良いのならともかく、この組み合わせは浅利先生が決めただけ。同期で歳も同じだし、一緒に旅公演に出たこともあるけれど、それと気が合うかどうかは別問題だ。
実際に暮らしてみて確認できたことがある。ベッタリした雰囲気そのままに、すぐ触ったりギュっと抱きついてきたり、時にはオネエサンぶって「可愛いわねえ」なんて言ってくるアヤメさんのことがやっぱり苦手だ。それと、お酒。おチビちゃんはまったく飲まないけれど、彼女はよく酔っ払って帰って来て、フカフカのソファでだらしなく寝転がっている。そんな時に顔を合わせると大変だ。いつもよりもしつこくベタベタされてしまう。背格好が似ているせいでたまに研究所で間違われたりもするが、最近はそれさえも嫌で仕方ない。
浅利先生から引き継いだこの部屋自体には満足している。玄関の方から順に、フカフカのソファがあるリビング、アヤメさんの部屋、ピアノが置かれたレッスン室、自分の部屋、そして一番奥はトイレにバスルーム、ととにかく広い。たしか上の階には勝新太郎さんが住んでいるらしいけど、それも納得の立派な造りだ。
それにしても疲れた。本当に眠い。わざとダラダラした足取りで自分の部屋へ戻る途中、おチビちゃんはアヤメさんの部屋から漏れるくぐもった笑い声を確かに聞いた。
「また連れ込んでるのねえ」
声にせず呟いてみる。ここのところ、本当に多い。先週なんて三日連続だった。まあ、私だって彼を部屋に呼んでるんだし、細かいことをネチネチクドクド言いたいわけじゃない。でも、それにしても、大胆というか遠慮がないというか……。しかも相手は女の子だからタチが悪い。まだ男を連れ込んでくれた方が、とは言わないけれど、嗚呼、ただでさえ疲れてるのにモヤモヤする。
と、向こうのドアが開く音がした。おチビちゃんは小さく咳払いをして背筋を伸ばす。コンコンとドアがノックされる……と思いきや何もない。どうやらトイレに行ったみたいだ。何なのよ、とベッドの上に倒れ込む。ついこの間までは「先輩、お邪魔してます」なんて挨拶しに来てたくせに。
そう、アヤメさんが最近連れて来る女の子、ユウキちゃんは四季の二期後輩。スラッと背が高くて中性的な顔立ち。そういえばユウキという名前も中性的だ。実はおチビちゃん、彼女の顔には見覚えがあった。学生時代に神奈川の実家で見ていた、NHKのドラマに出演していたからだ。だから初めて研究所で見かけた時に、思わず「あっ」と声が出てしまった。
そういうキャリアがあるなら、四季に入ってきた経緯も普通とは違うような気もするし、二期後輩だけれど歳だって私より上かもしれないわね。この調子だと、きっと今日も泊まっていくんだろうし、そのうちここに居着いちゃうんじゃないかしら。というか、アヤメさんはいったいどういうつもりであの子、ユウキちゃんを連れて来ているんだろう?
原則、劇団内での色恋沙汰は御法度だけれど、なかなかヒトの気持ちは取り締まれない。今までおチビちゃんも何度か違反事例を見聞きしたことがある。役者同士よりも、女優と男性スタッフ、それも人手が足りない時に頼む外部スタッフとの組合せが多い印象だ。近頃は上演回数の増加により外部スタッフの数も増えている。
もちろん、見聞きした事柄をいちいち浅利先生に報告したりはしない。そんな告げ口みたいなことは性に合わないし、何より余計な波風を立てたくはなかった。昔から「事なかれ主義」だという自覚がおチビちゃんにはある。
そもそも今レッスン室の向こうの部屋にいる二人については、関係性がよく分からない。世の中には男性同士、女性同士のそういう関係があるとは聞くけれど、現実味がないというか、いまいちピンとこないのよね――。と、突然ドアがノックされた。驚いたせいで「はい」と応えた声が微かに裏返る。
「先輩、すいません」
ちょっと待って、と言ってもダメだ。この部屋には鍵がない。ガチャ、とドアが開いた瞬間、おチビちゃんは反射的にベッドから立ち上がった。
「ユウキです。こんばんは」
この子は目に不思議な魅力がある。視線は合っているけれど、私を飛び越えて後ろにある壁を見ているような感じ。
「ああ、こんばんは」
「今日もお邪魔してます」
「あ、はい、あ、うん」
「じゃあ、失礼します」
ペコリと頭を下げてから、彼女はドアを閉めた。じゃあねえ、と見送ったおチビちゃんは、しばらくそのまま立ち尽くしていた。何だか帰って来た時よりも更に疲れた気がする。そして無性にダビデさんに会いたくなった。ここ最近、忙しさにかまけてデートも御無沙汰だ。本当は今すぐこの家を出て会いに行きたい。目の前の山手通りならタクシーだってすぐ捕まるだろう。でも、それは叶わなかった。
おチビちゃんはこれから宿題をやらなければならない。今度『ジーザス・クライスト・スーパースター』へ出演するにあたって、浅利先生から出された宿題だ。これをサボるわけにはいかない。一度大きく息を吐いてから、ゆっくりとベッドに座った。
ジーザス・クライストを囲む「群衆」役の俳優陣に課せられたのは、キリスト教に関する本を読んで「自分がどのような人生を歩んできた者なのか」という設定を決めておくこと。おチビちゃんは遠藤周作の「沈黙」の他、何冊かを選んでいた。
こうして下準備をきっちりしてから稽古に臨むことは珍しくないが、俳優が脚本を読み合う「本読み」の前から取り掛かるのは異例だ。というのも、この『ジーザス・クライスト・スーパースター』は浅利先生にとって、とても大事な芝居だという。先生の部屋、通称「社長室」には劇中のシーン――群衆がジーザス・クライストを囲んでいる場面の写真が飾られているらしい。
「さあて、頑張ろうっと」
歌うような調子で自分に言い聞かせ、おチビちゃんは本を読み始めた。でも余程疲れていたらしく、数分後、明かりをつけたままの部屋には静かな寝息が流れていた。アヤメさんの部屋からは、まだくぐもった笑い声が漏れている。
数日後、『ジーザス・クライスト・スーパースター』の稽古が始まった。集められた役者の数は二十人弱。一番最初の稽古は、おチビちゃんが今まで経験したことのない形式だった。
稽古場を真っ暗にしてから、大きな音で群衆が登場するシーンの音楽を何度も流し、役者たちは思い思いの姿勢で点在しながらそれを聴く。おチビちゃんは体育座りの姿勢で音楽に耳を傾け、身を任せた。自分が演じる「群衆」の人生は決めている。私は「子どもを産んだ後に出血が止まらなくなり、具合がどんどん悪くなった女」だ。
暗闇の中、音楽と向かい合っていると、余計なことが気にならなくなるせいで、自然と役が身体の中に浸透していく気がする。この感じは好きだ。どんなに大きな舞台でも、数えきれないような沢山の観客の前でも、またその正反対の状況でもきっと大丈夫だと思える。
実は劇中、おチビちゃんに与えられた役はもうひとつあった。ジーザス・クライストの側近、マグダラのマリアの後ろについている女性も演じなければならない。つまりジーザス・クライストに反感を抱く群衆とは正反対の立場だ。役作り、そして精神面で負担がかかることは、今から予想できる。同じ物語の中で二人分の人生を演じ、しかも衣装は変わらない。その分しっかりと気持ちを切り替えないと――。
その日も帰り道の途中から、おチビちゃんはヘトヘト。そしてどことなく憂鬱だった。一昨日も昨日も、アヤメさんはユウキちゃんを自分の部屋に泊めている。三日連続、というパターンはこれまでもあったから、今日も泊まる可能性は十分あるだろう。
アヤメさんだってイギリスの昔話をベースにした芝居の稽古中。そろそろ旅公演も始まるというのに……。同期で同じ歳のルームメイトとしては、余計なお世話だろうけど気になってしまうのだ。
ただいま、とドアを開けると家の中は静かだった。どうやらアヤメさんは留守らしい。思わず安堵しながらお風呂に入り、夕食を食べたおチビちゃんは、自分の部屋に戻ってキリスト教関連の本を読み始めた。稽古が始まったこともあり、少し気持ちがピリピリしている。こういう時は出来るだけ穏やかに暮らし、睡眠をよく取った方がいい。一度目の睡魔が来た段階で、今日はもう寝ることにした。
明かりを消してベッドの中で目を閉じた数分後、玄関のドアが開く音がした。「アヤメさん、大丈夫ですかー?」というユウキちゃんの声で、大体の状況は把握できる。きっと外でお酒を飲み過ぎたのだろう。そして、送ってきたユウキちゃんは今日もまた泊まっていくはずだ。やれやれ、と溜息をついてから布団を鼻の辺りまで引き上げた。こういう時は関わらないのが一番。しばらくは「ちょっと、しっかりして下さいよー」とか「まだ部屋じゃないんでダメです」というユウキちゃんの声が聞こえていたが、そのうちそれも収まった。
コンコン、というノックの音で目が覚めた。時計を見ると一時間は経っている。「誰かしら?」ではなく「何かしら?」と思ったのは、ユウキちゃんだと分かっていたから。だからすぐに返事はしなかった。関わらないのが一番、だ。そして再びコンコン。軽く息を吐いてから、裏返らないように気をつけて声を出す。
「はい」
「先輩、寝てました?」やっぱりユウキちゃんだ。「よね? すいません」
「どうしたの?」
「ちょっといいですか?」
「ごめんね。もう眠いから明日にして」
しばらく間があった。アヤメさんの部屋に戻ったかな、と気になったおチビちゃんは、そっと起き上がり外の様子を窺おうとする。その瞬間、ドアが静かに開いた。思わず「きゃっ」と後ずさりして、ベッドの上にお尻から座る。顔を覗かせたユウキちゃんは微笑んでいた。
「びっくりしました?」
「……何の用?」
「そんなに怒らないで下さいよお。可愛い顔が台無しになっちゃう」
酔ってるのかな、と思う。それならまともに相手をしても仕方ない。静かな声で「話なら明日にしてくれる?」と告げた。ついでにやや後ろに下がって正座にする。逆光でユウキちゃんの顔はあまり見えないが、私の顔はしっかり見られているのだろう。
「今じゃなきゃダメなんです」
「……どういうこと?」
「アヤメさん、寝ちゃったし」
大股でユウキちゃんが近付いてくる。来ないで、とはさすがに言えない。薄闇の中、彼女の中世的な顔立ちが浮かんできた。NHKのドラマで見ていたあの顔だ。
「先輩、教えてあげます」
「……何を?」
「女同士の世界。いい世界があるの、知らないでしょ?」ぐっ、とユウキちゃんの顔が近付いてきた。「一緒に行きましょうよ」
彼氏がいるのでお構いなく、と言いながら正座じゃ格好がつかないな、とおチビちゃんは思った。それでもユウキちゃんは怯むことなく、微笑みながら頭を撫でてくる。
「そんな怖い顔しないで。ね、可愛い可愛い」
「やめて」
静かにその手を払いのけ、思わず口から出た言葉は「あなた、役者なんでしょう?」だった。
「こんなことをする為に、劇団に入ったの? 違うでしょう?」
「……」
「ちゃんとした役者になりたいなら、もっと他にやることがあると思うけど」
「……しらけるんだよ」
思わず顔を上げると、ユウキちゃんが怖い顔をしていた。でも、負けるわけにはいかないから、無言のまま見つめ返す。十秒、二十秒、三十秒――。先に動いたのは向こうだった。
「あーあ、本当にいい世界なんだけどなあ」
そう言い残してユウキちゃんは、ドアも閉めずに部屋を出て行った。
(第07回 了)
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