女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
ニューヨークの演出家、マイケル・ベネットが原案・振付・演出を担当したミュージカル『コーラスライン』。その初演を行なったこの年、創立二十六周年を迎えた劇団四季は転機を迎えようとしていた。十五年前に百回を超えて以降、順調に伸び続けた年間上映回数がとうとう五百回を超え、専用劇場の確保という目標に向けて動き始めたのだ。
そんな中、いよいよおチビちゃんの劇団員としての毎日も始まった。本当にもう三年も経っちゃったの? というのが正直な感想だ。研究生としての三年間、本当に色々あった。中でも一番思い出深かったのは……と振り返る余裕なんてない。理由は聞くだけ野暮。劇団四季所属女優としての日々は研究生時代と同じく、いや、それ以上に忙しい。
ざっと見渡すまでもなく、同期で自分より忙しい人はいないと思う。計らずもダメ取りの才能を開花させたおチビちゃんは、今や浅利先生から頼りにされる存在へと成長していた。
もちろん自分がダメ取りを任される演目に、俳優として出演することは通常ない。ただダメ取りをするうえで、自分が出演しない演目でも話の流れを把握しておく必要はある。
傍らに台本を置いておけば心強いだろうけど、きっと目の前の芝居をあちこち見逃してしまう。当然先生は「今の誰々の演技がくどいから、もう少し自然にやった方がいいね」なんて、悠長なことは言わない。大抵「ほら、そこ。そこがダメなんだよ」と呟くだけ。ちゃんと芝居を見ていないと、何のことだか分からなくなってしまう。
しかもダメ取りが行われるのは稽古場だけではない。劇場でもやる。しかも本番中にやったりもする。例えば日生劇場なら、座るのは一階の一番後ろの席の端っこ。もちろん周りには本物のお客様がいて、熱心に舞台を鑑賞して頂いている。その為、先生の声は普段より小さくなるし、おチビちゃんだってあれこれ聞き返せない。当然暗いから顔もよく見えない。手元用の灯りがあるにはあるが、「これ、邪魔」といつも先生は消してしまう。結果、何も見えない。真っ暗。少しでも気を抜けば、おチビちゃんの頭の中は真っ白だ。そこに聞こえるのは先生の声。
「ちょっと今の音、出すのが早いなあ」
そうだ、劇場でやる時は俳優だけでなく、稽古場だと確認しづらい音響や照明へのNGも一緒に出してくるんだった――。
さすがにこれは大変だ。ちょっと何とかしなければ、とおチビちゃんは懸命に考えた。でも、というか、やっぱり、というか、楽な方法なんてありはしない。結局、打開策はひとつだけ。脚本をちゃんと読み込んで、頭の中で台本をめくっていくしかない。実際にやり始めると、予想より大変な作業だったけれど、その代わり効果はテキメン。
「いやあ、君のは本当に分かりやすいなあ」
そう浅利先生から言ってもらえると、色々な苦労も吹っ飛んでしまう。ただ、だからこそ頼りにされ、どんどん忙しくなってくるのだけど……。
そんな慌ただしい日々の中、おチビちゃんは女優としても大役を任されることになった。演目はベルギーの劇作家でノーベル文学賞受賞者、モーリス・メーテルリンク原作の『青い鳥』。劇団としての初演は十年前。兄妹のチルチルとミチルが幸せの象徴・青い鳥を探し求める物語で、おチビちゃんが演じるのは妹のミチル。そう、主役だ。
ちなみに兄のチルチル役は、一緒に劇団員試験に受かった同期の女の子。二人だけで先生の家――つまり現在おチビちゃんが暮らす家から引っ越した新居――に呼ばれて指導を受けたりもした。
そこはマンションの八階で、冒頭の「クリスマス・イブの夜、兄妹揃ってお金持ちの家のパーティーを羨ましそうに眺める」シーンを、綺麗な夜景が見える窓を使って演じてみたのだった。先生の自宅で稽古をするのが変な感じだったので、事あるごとに思い出して可笑しくなる。
おチビちゃんにとってプロとしての初舞台となる『青い鳥』は、この年から始まった飲料メーカー・キリンの芸術文化支援「キリンオレンジ劇場」として、東京を皮切りに全国三十会場を巡る旅公演。旅には大都市だけを巡る「大旅」と、小さな都市をじっくり巡る「小旅」の二種類があるが、今回の『青い鳥』は「小旅」。おチビちゃんの感覚ではこっちの方が大変だ。正直なところ、とてもストレスが溜まりやすい。なにしろ一ヶ月ちょっとで中国、四国、北陸、東海、関西、九州、北海道、東北の順で国内を目まぐるしく移動しなければいけない。
そしてこの公演には、劇団四季にとっての新しい試みが託されていた。主役の二人、兄チルチル役の彼女も、妹ミチルを演じるおチビちゃんもまだ二十歳。
「こんな若い俳優でも、四季は主役に抜擢します」
「四季は誰にでもチャンスがある劇団です」
こんなポジティヴなメッセージが込められていたのだ。そしてより多くの人に伝える為、それまでやらなかったような手法で宣伝を繰り広げることとなった。
まず公演初日には銀座でマスコミを呼んで記者会見を開催。それも「テアトロ」や「悲劇喜劇」といった御馴染みの演劇雑誌だけでなく、「女性自身」のようないわゆる一般女性誌のインタビューまで受けた。
もちろんおチビちゃんの名前を出して受け答えするのだが、これこそ当時の四季にとっては異例中の異例。そもそもスターを養成する為の劇団ではないので、俳優の名前で観客を呼ぶのではなく、誰が演じても質の高い芝居になるよう日々厳しい稽古を積み重ねている。なので、俳優が名前を出してインタビューを受けるのは大英断だった。
まあ当のおチビちゃんからすれば、専門誌でないとはいえ、とにかく舞台とは関係のない質問が多かったので少し嫌な予感はしていた。そして後日、掲載されたインタビューを読んでみると、喋った内容が変な形で切り貼りされていたので、ずいぶんガッカリしてしまった。
実はこの公演中におチビちゃんは、大先輩の女優、影万里江さんと親しくなっている。彼女は華があるだけでなく小悪魔的な雰囲気で、例えばワガママな女性の役なんかが似合う方。似たタイプは加賀まりこさん。実際に二人ともフランスの劇作家、ジャン・ジロドゥが書いた戯曲『オンディーヌ』で、主役の水の精・オンディーヌ役を演じている。
彼女は前年、有吉佐和子原作の連続テレビドラマ『悪女について』の主演を務めていた。その役柄は「虚飾の女王」「魔性の女」と呼ばれる悪評高き女性実業家。そのチャーミングなルックスで、「正にはまり役」と評判だった。(ちなみに三十数年後にリメイクされたドラマで主役を務めたのは、現在何かと話題の沢尻エリカ)
普段の影さんはちょっぴり毒舌でお茶目な性格。よく二人きりで喫茶店に出かけた。彼女のコーヒーはブラック。煙草を吸う姿もどことなく可愛らしく見える。
実は彼女、浅利先生の二番目の奥さんだった。だった、と過去形なのはもう別れてしまったから。先生と結婚する人ってどんな人なんだろう、という淡い好奇心があったことは、おチビちゃん本人でさえ気付いていなかったかもしれない。
公演の主役を務める身にとって、宣伝の場は雑誌だけとは限らない。なんとおチビちゃんもテレビに出演することになった。この年から放送が始まった、東京12チャンネル(現テレビ東京)の朝の子ども向け情報番組「おはようスタジオ」の生コマーシャルのコーナーだ。そして地方に行けば地元向けのラジオ番組に出演して、当日の公演の宣伝をする。
どちらもやり直しの出来ない生放送だったけれど、周囲の心配をよそにおチビちゃんはなぜか全く緊張しなかった。とにかくやっちゃえばそれまでじゃない、という妙な度胸があるようだ。逆に録画や録音といった、失敗してもやり直せる形の方が緊張する性格らしい。
いつも「小旅」で地方へ行くと大抵慌ただしいけれど、今回は主役なので忙しさも人一倍だ。主催であるキリンの工場へ御挨拶に伺ったりもする。どうぞお飲み下さい、と出して頂けるのはもちろんキリンオレンジ。実はおチビちゃん、昔から炭酸が苦手なものだから少々憂鬱だった。
あとは各地の商工会議所にも御挨拶へ伺う。円滑に物事を進めるにはとても大事なことらしい。やはり演劇でも音楽でもスポーツでも、興行を打つというのはとても大変だ。色々な人の手助けや支えがなくては成り立たない。
営業部門のスタッフにもやることは沢山ある。用意するのは選挙の候補者が乗るようなスピーカーを搭載した車。それに乗って街中で公演の宣伝をしたり、用意してきたチラシやポスターを色々な店に置かせてもらう為、方々を駆け回る。ただ、訳の分からない居酒屋などにお願いすることは決してない。
ちゃんとした店に置いてもらおう。
決して下品な売り方をするな。
そういう劇団四季としてのプライドがあったからだ。おチビちゃん流に言い換えるなら、「観てもらえれば、きっとその人の為になる」という感じ。平たく言えば「絶対、損はさせません」。そういう気持ちを強く持ちながら、主役としてチケットを売っていた。
毎回「キップ売りの少女」の時の様にはいかないが、その分両親が色々な人に声をかけてくれていた。本当に「ありがたいなあ」と思う。そうそう、ダビデさんもちゃんとチケットを買って観に来てくれた。
そもそも大学の建築学部で教授の助手をしている彼の専門は、劇場の建築設計や、演出効果用の機器類(緞帳や回り舞台や移動床)の総称である舞台機構などを含んだ劇場工学なので、何ならおチビちゃん以上に様々な舞台を観てきている。
聞いた限りではオペラが多いみたいだったけれど、無論それだけではない。例えばアングラ演劇の旗手だった唐十郎の「状況劇場」や寺山修司の「天井桟敷」、太田省吾の「転形劇場」といった新しい世界をおチビちゃんに教えてくれたのもダビデさん。「色々な芝居を観なきゃダメだぞ」といつも言われている。二人で演劇について語り合うこともあるが、もちろん意見が一致するばかりではなく、まるで論争のようになってしまう時もある。
「理解できないと感動できない」おチビちゃんと、「理解することよりもダイレクトに感動したい」ダビデさんでは、なかなか意見が噛み合わなかったが、そういう時間もプロとしての力を育む為には大切だと実感している。
プロとしての力、といえば色紙にサインを書く機会もぐんと増えてきた。たとえば劇場の楽屋で、たとえば旅先のホテルの部屋で、それこそ何十枚も手が痛くなるほど書いた。
劇団四季では役がついた時から、役者自身が自分のサインを考えて練習をする。おチビちゃんもそうしてきた。サインが決まり、それを頼まれるようになると、何というかプロとしての責任のようなものを感じる。
プロとしての責任、といえばお金のことも忘れてはならない。とっても大事なこと。やはり研究生だった頃とは入ってくるお金の額が違う。まあ、なんて言うか……、うん、倍くらいにはなった……かな? えへへ。
でもそれを喜んだり、実感する時間がまったくない。まず一日完全に休みという日がない。映画も見れないし、服も買えないし、友達にも会えない。ないないづくしだ。そんな中、『青い鳥』の公演が遂に千秋楽を迎えた。五月三十一日、場所は仙台だった。
まだ夏どころか梅雨にもなっていないんだ、とおチビちゃんが驚くほど内容の濃い一ヶ月ちょっと。少々ハードだった体験を振り返る余裕は……やっぱりない。理由は聞くだけ野暮。七月には次の公演が始まる。もう二ヶ月を切っていた。
次回の演目は、聖書を題材にしてイエス・キリストが十字架にかけられるまでの最後の一週間を描いた、ロック・ミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』。アメリカのブロードウェイで初演された二年後に、劇団四季が浅利先生の演出で公演を行った人気作品だ。主演は五回目となる先輩の鹿賀丈史さん。六年前、彼はこの作品で世間の注目を集めてトップスターへの切符を掴んだ、云わば大当たり役。
また人気作品なので、チケットを売れ売れとうるさく言われることもない。そういう意味では楽なはずだが、おチビちゃんに限ってはそうも言っていられなかった。なぜなら『青い鳥』で主役を務めながら、同時進行で『ジーザス・クライスト・スーパースター』のダメ取りも任されていたのだ。もちろん異例の事態。
しかもそれだけではない。ダメ取りをしている『ジーザス・クライスト・スーパースター』に、おチビちゃん自身も出演することになった。もうこうなると、異例中の異例。
劇中、主役であるジーザス・クライストに過剰な期待をかけ、その期待の大きさ故に不満を募らせ始める群衆はとても重要な役割となる。おチビちゃんはその群衆の一人に選ばれた。出たかった芝居に、出たかった役で出られることは嬉しかったけれど、だからといって疲れが軽減される訳ではない。役者は体力勝負。そして体力が気力を持たせるという事実を、改めておチビちゃんは噛み締めていた。
さあ、次も頑張らなくちゃ。
そう自分に言い聞かせて、ダメ取りや稽古に励む毎日だけれど、実は近いところでトラブルが着々と育っていた。
(第06回 了)
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