女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
おチビちゃんは怒っていた。怒りで眠れなかったのは初めてかもしれない。
昨晩、ユウキちゃんが開けっ放しにしたドアを閉めている時はそうでもなかった。自分と同じ女性からあんな風に誘われて動転していたのかもしれない。
今のは何だったんだろう、と思いながらベッドに入り、とにかく寝ようと目を閉じた。でも、寝れない。まさかあんな誘いになびく人だと思われていたのかしら……。そんな想いが浮かんできてしまい、さっきから何度寝返りをうっても眠くならない。なめられたもんだわ、と呟いてみる。あの子が何歳だか、アヤメさんとどんな関係だか、どれほど経験豊富だかは知らないし知りたくもない。でも絶対におかしい。そう思った。
自分のことだけではなく、四季や、四季の中で日々精進しているたくさんの人たち、もちろん浅利先生、そして大きすぎて取り留めもつかないけれど「演劇」というもの。それらを鼻で笑われたような、泥をかけられたような感じだ。いつの間にか、お腹の裏側が熱くなっている。
それでもどうにか寝よう寝ようと頑張っていたけれど、気付けば朝になっていた。そういえばさっき、微かに玄関のドアが開く音がしたような気がする。アヤメさんとユウキちゃん、二人揃って出かけたのかもしれない。ようやく眠れるかも、と思ったがそうはいかない。今日もこれから『ジーザス・クライスト・スーパースター』の稽古だ。やはり二役を演じ分けるのは大変で、体力、精神力の両方とも普段より消耗している気がする。やっと今になって感じるようになった眠気を振り払いながら、おチビちゃんはベッドから出て一度大きな伸びをした。
喉が渇いている。まずは何か飲もうとリビングへ向かう途中、アヤメさんの部屋のドアが開いていることに気付いた。何気なく覗くと、ベッドから彼女の足が一本突き出している。でも確かにさっき玄関の方で……、と確認するとユウキちゃんの靴だけなく、ドアの鍵もかかっていない。どうやら一人でプイッと帰ってしまったようだ。
私に断られたのがそんなにシャクだったのかしら、と考えながら冷たい水で喉を潤していると、背後から「おはよう」とアヤメさんの声がした。振り返る。声はガラガラ、髪はボサボサ、何より服が昨日のまんま。一目瞭然の二日酔いだ。この人と研究所で間違われるなんて本当に信じられない。言いたいことは色々あるけれど、ここはひとまず「おはようございまーす」と返す。いつだって挨拶は大事だ。
「昨日、あの子、ちゃんと挨拶した?」
そう尋ねた後、アヤメさんは立て続けに三杯、コップで水を飲んで数回咳き込んだ。部屋の空気がうっすらとお酒臭いような気がする。
「ええ、とんだご挨拶だったけど」
そう言おうとしたがやめた。こんな時に芝居がかっても仕方がない。そのまま部屋へ帰ろうとする彼女を「ちょっといいかな」と呼び止め、テーブルを間に向かい合う。どうしたのよ、とアヤメさんはあからさまに嫌な顔をした。
「あのね、昨日、ユウキちゃん、私の部屋に来た」
「ああ、そうだったんだ。で?」
「誘ってきたよ」
「え?」
「私のこと、誘ってきた」きつい声になってしまったが、もうここから直すことは出来ない。「今ならあなたが寝てるから、って言ってた」
え、と言ったままアヤメさんは黙っている。「嘘でしょ?」と言われたら、すぐに「本当よ」と言い返すつもりだったけど、そんな気配すらない。一分待ってみたが何も喋らないので、仕方なくおチビちゃんは言葉を続けた。
「女同士のいい世界を教えてくれる、って言ってたけどもちろん断ったわ」
肩の辺りが一瞬ビクッと動いたが、彼女は相変わらず黙ったまま。別に追い込もうとしている訳ではない。おチビちゃんだって、何度かここへダビデさんを連れて来たことがある。そういう意味では、お互い様。どちらも優等生ではない。でも共同生活にはルールというものがあるはず。それさえ分かってくれれば良かった。
「あなた達がどんな関係なのか、なんてどうでもいいの。でも昨日、私はとても嫌な気分になった」
「……」
「悪いけど、あの子、もうここに連れて来ないでくれる?」
ほんの少しだけ顔を歪めた後、アヤメさんは小さく「うん」と頷いた。
「色々迷惑かけて、本当ごめんなさいね。もう連れて来ない。約束するわ」
そう言って椅子から立ち上がり、自分の部屋へ戻る足取りは重そうだった。あれは二日酔いのせいだけじゃないんだろうな、とおチビちゃんは密かに思っていた。
あれからユウキちゃんが家に来ることはなかった。そして約束を守ったアヤメさんは旅公演でしばらく家を空けることになった。その間に二人の間でどんなやり取りがあったかは分からない。ただ一度だけ、アヤメさんの方から「ちょっと私も困ってるんだよね」と言われた。ユウキちゃんは研究所にも来ておらず、居場所が分からないという。首を突っ込みたくないから、深く詮索はしなかったけれど、アヤメさんの気持ちが少しずつ変わり始めていることは分かった。
とにかくこれでようやく穏やかな日々に戻る……はずだった。でも、そうはいかない。電話のせいだ。家に来ることが出来なくなったユウキちゃんが、ひっきりなしにかけてくるようになった。
「はい、もしもし」
「あ、私です」決まって彼女は名乗らない。
「……」
「先輩、今日はアヤメさん、大阪にいるんですよね?」
確かに公演スケジュールではそうなっている。それだけではない。時には公演スケジュール以外の予定まで把握していたりする。電話の目的は理解し難かったが、「私には全部御見通しよ」と自慢するような気持ちは何となく伝わってきた。そうかと思えば正反対のパターンもある。彼女の居場所が分からない、と絶望的なトーンで迫ってくるのだ。
「ねえ、今日は家に帰ってるんじゃないですか?」
「いないわよ」
「本当ですか? 嘘ついてませんか?」
「……本当。いないってば」
「先輩! どうしてアヤメさんのこと、隠すんですか? ねえ、隠してるんでしょ?」
声を聞いていると、あの中性的な顔立ちや魅力のある眼差しを思い出す。そして「怖いなあ」と思う。外見からは予想もつかない、こうした想いの強さが怖い。
そのうち電話をかけてくる目的は、何となく分かってきた。一言で言えば「私、また家に行ってもいいですよね?」ということだ。冗談じゃないわ、と思う。だから段々と電話には出ないようになり、研究所の所長にもそれとなく話すようになった。やはり浅利先生には言いづらい。自分もダビデさんを呼んでいるという負い目もあるし、何より一気に話が大きくなってしまいそうだ。「事なかれ主義」のおチビちゃんとしては、何とかその展開だけは避けたい。
ただ、所長の勘が予想以上に鈍かった。わざとなのか、それとも意地悪しているのか、と疑いたくなるくらい反応がない。
前からアクの強い人だとは思っていた。一番最初は研究所の入所試験の時。ずっと鼻をかんでいたから、嫌でも印象に残る。年齢は浅利先生よりも若いくらいなのに、何となく先生よりも老けていて「昔の人」という感じ。そして浅利先生のことを信奉している、熱烈な浅利信者だ。
入所したばかりの頃、おチビちゃんは所長から結構きついことを言われてきた。なにしろ扁桃炎で一週間休んだ時に「虚弱体質」と呼んだ人物だ。それ以外にも「ガラスのような性格」とか「分散と集中のバランスが悪い」とか、バッサリ斬られるような言葉を頂戴してきた。
でもここ最近はずいぶんと違う。ダメ取りをきっかけに、浅利先生から頼りにされるようになると、面白いくらいに優しくなったし、色々と気を遣ってくれるようになった。さすが浅利信者。あからさまな手の平返しではあるけれど、それも自分の成長の証しだと思えば悪い気はしないし励みにもなる。
「でも、あんなに鈍いなんてねえ……」
鳴り続ける電話を前に、ひとり家の中でおチビちゃんはため息をついた。それでも電話は鳴り止まない。しばらくしてようやく切れたので、自分の部屋へ戻ろうと思ったら数秒後にまたかかってきた。最近はこんな感じが多く、さすがに疲れてきた。
やっぱり先生に相談してみよう……。そう決めた翌日、おチビちゃんは「社長室」のドアをノックしていた。
『ジーザス・クライスト・スーパースター』の劇中の写真が飾られた室内で、今回の一件を口にするのは変な感じがした。余分な話は一切せず、なるべく簡便に。先生は椅子に腰掛け、おチビちゃんの話に耳を傾けている。
同居人のアヤメさんが可愛がっていた、後輩のユウキちゃんが気持ちを抑えられなくなっている――。
言葉をずいぶんと選びすぎてしまった。やはりこれだけでは要領を得ない。先生は「うん、うん」と聞いている。実はたまに泊まっていくこともあるみたいで、と付け足してみる。それでも「なるほど」と呟くだけ。まだ伝わっていない。では、と奥の手を出してみる。
「最近は電話がすごいんです。アヤメさんがいないのを分かっているのに、何回も何回もかけてきて。切れたと思ったら三、四秒でまたかかってくるんですよ!」
結構自信はあったけれど、先生は「ほお」と言ったきりだ。嗚呼、もうこうなったら、とユウキちゃんに誘われたあの一部始終を告げてみた。まさかこんなことまで言うなんて……。恥ずかしいから俯いたままだったけれど、空気が動くのは分かった。
「おい、それは大変じゃないか!」
顔を上げると先生は立ち上がっていた。その場で電話をかけ、所長と第一秘書を呼び出した。急な展開におチビちゃんはパニックだ。余計なことを言ったんじゃないか、アヤメさんはクビになるんじゃないか、いや他人の心配よりまずは我が身、私は大丈夫なんだろうか――!
けれど時間が経つにつれ、何となく状況が把握できてきた。この立ち上がり、歩き回り、前髪を揺らす先生の姿は見たことがある。そう、ダメ取りの時だ。舞台の演出をしていて気持ちが乗って来た時の感じに似ている。椅子から離れ、舞台に上がり、自らが肉体を使って手本を示す時のあの感じ。そう思えば、目の前で落ち着きなく歩いている先生の横顔は、どことなく楽しそうにも見える。「女性が女性を誘う? 興味深いねえ」。そんな弾んだ声が聞こえてきそうだ。
所長と第一秘書が揃うと、その場で会議が始まった。おチビちゃんがもう一度説明を繰り返す。あの誘われた夜の話を再び披露するのは恥ずかしかったが仕方ない。今度は俯くことなく、堂々と話して見せた。
先生の考えでは、現在旅公演中のアヤメさんが都内に戻って来たタイミングが一番危険だという。ユウキちゃんがスケジュールを把握しているなら、きっと帰京する日に動くはずだ、と。ただ現段階で居場所が分からないのが痛い。それでも何とかして守ってやろう、と言った先生の表情はやはり生き生きとしている。無論、他の三人が異論を唱えることはない。
「これは極秘のプロジェクトだからな。他言無用だからそのつもりで。で、プロジェクトの名前だけど、『アヤメちゃんを守る会』。これでいいな?」
極秘プロジェクト『アヤメちゃんを守る会』は着々と進められた。一番大事なことはアヤメさんが帰京した日に、初台のマンションへ帰らせないこと。翌日から彼女はまた旅公演へ戻るので、一泊だけどこかで身を隠さなければならない。では、うってつけの場所はどこだろう? 先生が導き出した答えは、西新宿にある高級ホテルだった。
当のアヤメさんには、おチビちゃんからプロジェクトの存在、そして帰京する日の計画を告げた。当日、新幹線で戻ってきたら、迎えに来た車に乗り換えてホテルに直行、そして一泊――。
電話で伝えながら、正直なところ胸の中にはモヤモヤしたものが残っていた。今回、嫌な気分になったのは私の方なんだけどなあ……。
結果から云えば、当日は何も起こらなかった。アヤメさんの無事は守られたのだ。プロジェクトは一応成功。ただその陰でモヤモヤを抱えたおチビちゃんは、とんだとばっちりを食っていた。この数日間は初台のマンションにも動きがあるかもしれないから、と先生が所長に泊まりがけでおチビちゃんの護衛を命じたのだ。
「もし電話がかかってきた時は、刺激しないように上手く話をするんだぞ」
最悪!
嫁入り前の女の子を、男性とひとつ屋根の下にするなんて、いったい何を考えているんだろう。
「所長が来るくらいなら、ひとりの方が絶対マシです!」
なんて先生に言えるわけもなく、その日から二、三日、所長は初台のマンションに泊まりに来たのだった。
しかも悪いことは続く。居場所不明のユウキちゃんが動いたのは、それから半月後だった。
(第08回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
* 『もうすぐ幕が開く』は毎月20日に更新されます。
■ 金魚屋の本 ■