「世に健康法はあまたあれど、これにまさるものなし!」真田寿福は物語の効用を説く。金にも名誉にも直結しないけれど、人々を健康にし、今と未来を生きる活力を生み出す物語の効用を説く。物語は人間存在にとって一番重要な営為であり、そこからまた無限に新たな物語が生まれてゆく。物語こそ人間存在にとって最も大切な宝物・・・。
希代のストーリーテラーであり〝物語思想家〟でもある遠藤徹による、かつてない物語る物語小説!
by 遠藤徹
(『物語健康法 入門編』より抜粋(その②)
(序章より)
物語健康法とは
百薬の長
もう薬はいりません。医者にかかる必要もありません。
いままであなたに欠けていたもの、それは「物語」だったのです。
自信をもって申し上げましょう。「物語」こそが百薬の長であると。「物語」こそが百人の医師にまさると。
「物語」やめますか、それとも人間やめますか? いいですか悪いクスリをやめたら人間に戻れるかもしれませんが、「物語」をやめたらもう人間に戻れないのですよ。
必須アミノ酸よりも、冷え取りよりも、活性酸素よりも大切なもの、健康に欠かせないもの、それが「物語」なのです。
神話という「物語」
よく考えてみてください。人間がいかに「物語」を必要としてきたか?
地球上のどんな民族を取り上げても神話を持たないものはひとつとしてありません。たとえば、ギリシャ神話、北欧神話などは有名ですよね。日本には「古事記」の神話があります。アフリカにはアフリカの、インディアンにはインディアンの、パプアニューギニアにはパプアニューギニアの神話があります。
神話といえば、こんな面白い話があります。太平洋と大西洋の境目に位置するマリマラ諸島を二分するマリマ族とリマラ族の神話です。マリマ族の神話では、世界は聖なる父神が思わずもらしたおならから生まれたのでした。そして、人間は聖なる父が海から拾い上げたイワシを踏みつぶして作ったのでした。ところが、リマラ族の神話では、世界は聖なる母神が思わずもらしたげっぷから生まれたのでした。そして、人間は聖なる母が海から拾いあげたタコを叩きのめして作ったのでした。
同じ小さな島で常に勢力争いを繰り返してきたマリマ族と、リマラ族は常にいがみ合ってきました。マリマ族は、リマラ族をみかけるとげっぷをして、タコを叩きのめしました。「ほら、何も起こらない。お前らの神話なんて嘘だ」とからかうためです。すると、リマラ族はそれに応じておならをし、イワシを踏みつぶして応じます。「そういうお前らの神話もどうやら嘘みたいだな」と見せつけるためです。
ところがある時、島に地震が起こり、それまで地に埋もれていた巨大な岩盤が地上にせり出してきました。その岩盤には古代の文字で、ある物語が記されていました。
それによると、かつてマリマという男神と、リマラという女神がこの地で出会って恋に落ちた。マリマはたくさんのイワシを釣り、これを潰してイワシ団子のスープを作った。それを食べたリマラはいたく感激してげっぷをし、マリマに愛のプガルトを許した。プガルトを終えた後、リマラはタコを釣ってこれを叩きつぶし、それを小麦の粉で練った玉に包んで焼いたものをマリマに食べさせた。マリマはいたく感激し、大きなおならを鳴り響かせたあと、リマラにプガルトを与えた。プガルトはあまりに気持ちよかったので、マリマは毎日のようにイワシ団子のスープを、リマラはタコを小麦の粉を練ったもので包んだものを焼いて互いに食べさせた。数知れない回数のプガルトを繰り返した彼等から、マリマラの民がつぎつぎと生まれ出た。
「なんと、これこそが真正の神話であったのか?」
マリマ族とリマラ族は、ともに驚きおならとげっぷを盛んにもらしました。なんとわれらは愛のプガルトによって産み出された同じ一族だったのだ。どうしていままで気付かなかったのだろう? その夜以降、彼等は肩を組んで踊り、何週間も祝宴を繰り広げました。今日マリマラの島を訪れた人は、そこで出る郷土料理に驚きます。イワシのつみれ汁とタコ焼きのセットだからです。それらはいつでもセットで出され、食べた人がげっぷやおならをすると、まわり中から拍手喝采を浴びるそうです。
神話という物語がいかに人を動かすかがおわかりになるのではないでしょうか?
宗教という「物語」
また、どんな宗教を取り上げてみてもそれは物語をベースにしていることがわかります。人間の肉体をもった神の息子という物語、解脱を目指して修行した国王の息子の物語、四〇才にして神の啓示を受け新しい宗教の布教に乗り出した男の物語。このあたりは誰でも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか?
ですから、ここではひとつ、別の宗教の話をしましょう。この宗教では、コーカ?と呼ばれる金属で出来た丸く平らなものと、シ、ヘー!と呼ばれる絵と文字が印刷された紙が崇拝されます。驚いたことに、このコーカ?とシ、ヘー!は、さまざまなモノやサービスと交換することができるのです。シ、ヘー!をたくさん積めば、広大な土地を手に入れることも、昨日まで自分に見向きもしなかった女と結婚することも、さらに恐ろしいことには自分が嫌いな相手の命を奪うことさえできるというのです。そんな魔法のような力をもっているがゆえに、人々はコーカ?、いえとりわけシ、ヘー!に夢中になります。他人と競争し、他人を蹴落とし、他人を騙し、他人を搾取してこのシ、ヘー!を蓄積しようとします。なんという暴力的な、なんという容赦のない、なんという味気ない宗教でしょう。この神は、最後には戦争まで引き起こします。他の国を支配して、その資源を奪い取るためです。資源はシ、ヘー!になるからです。あるいはその戦争のための武器を売るためです。武器を売ればシ、ヘー!が手に入るからです。なにより恐ろしいのは、この宗教はいまや地球を覆っているということです。この宗教に帰依していない土地はないといってもいいくらいです。そして、このコーカ?とシ、ヘー!という神が万物と交換可能というのは、もちろん「物語」にすぎません。これほど、皆に共有されている「物語」は珍しいといっても良いかも知れません。
「物語」漬けの日常
ちょっと話が大きすぎましたか? ついていけないと感じられたでしょうか?
それでは、もっと等身大のお話をしましょう。
たとえば、あなたは毎日テレビを見ますか? どんな番組を見るでしょう? ドラマ?アニメ? 映画? コント? ほら、これらはすべて物語ではないですか。スポーツだってドラマです。「メイク・ドラマ!」っていうじゃないですか? ドラマチックな逆転劇、ライバル同士の相譲らない戦い、病気を克服した運動選手、つらい過去を乗り越えた運動選手、それらはすべて物語です。ニュースだってそうです。不幸な死を迎えた子供の話、恐ろしい犯罪に及んでしまった若者の話、金や権力に取り憑かれた政治家の話、芸能人のスキャンダル、すべてが物語です。コマーシャルが売り込んでくるのも物語ですよね。たいていは「この商品を買ったら、こんなすてきなあなたに生まれ変わります」という魔法物語です。
新聞だって、雑誌だって、ネット上のニュースだって、すべてが物語なのです。友達とのチャットだって物語、「聞いてよ、今日こんなことがあったんだよ」といってあなたはあなたの物語を語る。「あの人があんなことになったんだって」と友達が語る。そこに惹きつけられるのは、それが物語だからなのです。「あの人が好きなんだけど」という物語、「彼に振られちゃった」という物語、「受験に失敗しちゃった」という物語、「宝くじでついに三千円当たった!」という物語。何もかもが物語なのです。
友達との会話も、親との会話も、すべてが物語。あなたがつける日々の日記も物語です。 もうおわかりでしょう?
あなたは、いや誰もが呼吸するのと同じくらい当たり前に物語を消費して生きている。三度の飯を食べるのと同じくらい物語を消費して生きている。そして、眠っているときにさえ、あなたは夢という物語を楽しんでいるのです。
モノガタリとは?
では、そもそも「物語」とはなんなのでしょう?
たとえば、『古事記』には「ことのかたりごと」という記述があります。これは、できごとや事件など、対照がはっきり定まっているものに対して語ることを意味していました。それに対して、「ものがたり」は、「もの」についての語りです。「もの」は「鬼」とか「霊」のことです。たとえば、モノノケという言葉を思い出していただければわかるでしょう。ですから、本来の意味での「ものがたり」とは、「こと」すなわち現実とはかけ離れた空想の世界を語ることを意味したと考えられます。さらにいえば、「かたり」は「語り」であると同時に「騙り」でもあります。つまり、かならずしもほんとうのことである必要はなく、いわば嘘でもよいということを意味したのではないでしょうか? というより、わたしにはむしろ虚実の境の曖昧な語り/騙りこそが「ものがたり」の魅力であったように思われます。そして、「もの」について語るということは、その「ものがたり」そのものが、不思議な霊力をおびているということを意味していたのではないでしょうか?
たとえば、予言。古代の占師や陰陽師や祈祷師、さらにはイタコやユタが語る/騙る物語は、人を動かし、時には世を動かしもした。そうではなかったでしょうか?
古代から、人は物語を頼りに生きてきた。
でも、いまはあまりにも世の中に物語が溢れすぎている。そのせいで、わたしたちは、その物語を消費するのにきゅうきゅうとしてしまっている。いわば物語の洪水に押しつぶされそうになっている。
この物語の迷宮から抜け出るにはどうしたらよいのでしょうか?
語る力=生きる力
答えは簡単です。
受け身をやめればいい。自分が物語の主人になればいいのです。自らが語り手になればよいのです。
なぜなら「語る/騙る」力こそ、生命の力だからです。
自分の物語をもつことで、わたしたちは中心になれます。世界の中心で愛を叫ぶのではなく、物語を紡ぐ人になれるのです。
客観的にみると、スマホのGPSで位置を特定されてしまういまのわたしたちは、大きなネットワークのなかの小さな点に過ぎません。
けれども、たとえばインディアン、正しくはネイティブ・アメリカンのある部族の人はこう考えています。すべての人は宇宙とつながっている。なぜなら、それぞれの人にはそれぞれの人に対応した星があるからだ。つまり、それぞれの人はそれぞれの星と一心同体だということ。だから、自分の行動が宇宙全体の動きに影響を与える。それゆえ、自分は宇宙をかき乱さないために責任を持って行動しなければならない。いかがでしょう? これは物語です、ネイティブ・アメリカンの神話です。でも、その神話をもつがゆえに、彼らは自分たちを宇宙とつながり、宇宙を司る存在と見なすことが出来ている。いまの小さな点に過ぎないわたしたちの人生と、ネイティブ・アメリカンの人生とどちららより充実して、豊かなものだといえるでしょう?
さあ、あなたもまたあなたの物語をもとうではありませんか。それによって、あなたは自分すなわち自身を取り戻し、自信を取り戻し、そして健康になる。それは地震が起こったような衝撃でしょう。あなたの感性の磁針は激しく揺れるでしょう。
これほんと。嘘じゃない。
どうかわたしが提示するこの「物語」にご参加ください。それはわたしのためではありません。皆さんのためなのです。
さあ、参加を決意された方は、どうぞページをおめくりください。次のページでまたお会いしましょう!
(第08回 了)
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