女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
もちろん三年目も劇団四季の研究生でいるためには、試験に受からなければならない。去年のあの緊張感は今も強烈に覚えている。言うまでもなく、今回も落ちたらそこで終わり。研究生ではなくなってしまう。今回もまた厳しいヤマだ。
しかし、おチビちゃんにはもう一つの大問題が迫っていた。昨日、とうとう下目黒の下宿先の取り壊しが決まってしまったのだ。
――このままだと実家に戻って、朝はまたラッシュでもみくちゃにされて、夜は夜で痴漢に狙われるんだわ!
何とかしなくては、といっても相談できる人は限られている。ダビデさんがいればいいけれど昨日はまだ水曜。隣の部屋には帰ってこなかった。
今日明日ですぐ取り壊すというわけではないけれど、対策をたてないことには落ち着かない。午前中のダメ取りがあまり良くなかったのは、きっとそのせいだ。この昼休みが終わったらまたダメ取り。次はしっかり頑張らなくちゃ。でも取り壊しの件も気にかかる。どうしようかな、と長机に突っ伏した瞬間、「どうした?」と後ろから声がかかった。浅利先生だ。
「いえ、大丈夫です。すみません」
うーん、と言いながら隣に座った先生はおチビちゃんの顔をじろっと見た。
「具合は悪くはさそうだな。なのに調子が出ないってことは……悩みごとか?」
その見事な推理に思わず「はい」と答えてしまった。そうなったら全て話さざるを得ない。結局、下宿の取り壊しの件を最初に相談したのは浅利先生だった。首相のブレーンだった人に何をしているんだろう、と思うけれど成り行き上仕方ない。
黙って聞いていた先生は、一言「うん、ちょっと考えとくよ」と言った。何がどうなるのかは分からなかったが、その次のダメ取りはいつも通りにうまくいった。どうやらおチビちゃん、相談できたことで一安心できたらしい。
浅利先生からの返事は意外と早かった。ちゃんと考えてもらえたことにも驚いたが、その内容には更に驚かされた。なんと今先生が暮らしている家をレッスン場として使いたいから、管理人としてそこに住まないかというのだ。レッスン場? 管理人? あまりの急展開に頭が追いつかない。
「えっと、ちょっと待って下さい」
「大丈夫、一人じゃ大変だろうからもう一人……」
「ちょっと待って下さい!」
「……どうした?」
おチビちゃんは一つ一つゆっくり確認した。まず肝心な場所は初台。新宿の隣の駅だ。稽古場がある参宮橋からとても近いので、これは有難い。そして現在住んでいる浅利先生も、そう遠くないところに引っ越すという。聞き捨てならなかったのは、「レッスン場として使う」というところと「管理人として」というところ。改めて聞くと、ずいぶん広い場所なので研究生たちに開放し、その食事などの世話を頼みたいとのことだった。
「あと、最後に何か言ってましたよね?」
「ああ、一人じゃ大変だろうから、一緒に住むヤツも決めておいた」
実家通いではなく、下宿暮らしの研究生から選んだという。予想外の「同居」という展開に驚いたが、気持ちをぐっと抑えて相手の名前を訊いてみる。「ちなみにそれ、どなたなんでしょうか?」
先生の口から苗字を聞いてもピンとこなかった。一、二秒遅れて「ああ」と声が出る。アヤメさんだ。たしか他の劇団の主宰者の娘だったような……。今まであまり接点はない。
とにかく「ありがとうございます」と頭を下げた。ここまで具体的に決まっているなら、もう何も考えずに乗るしかない。そんなこんなで次の家は決まった。どうやら実家へは戻らずに済みそうだ。
「なるほどな。ま、良かったんじゃない?」
おチビちゃんの報告を受けたダビデさんは、アイスコーヒーを一口飲んで大きな欠伸をした。彫りの深い顔がクシャッと歪む。
「うん。家賃も安くしてくれるって言うし、ラッキーだったかも。で、次の家、決まった?」
その質問には答えず、伝票を持って席を立った彼。おチビちゃんは急いでコーヒーを飲み干した。財布を出して、バッグを持って、マフラーを巻いてと慌てている間に、ダビデさんは勘定を済まして店を出てしまった。
今日は久々の休日。少し寒かったけれど、彼も休みだったので下目黒から新宿へと繰り出した。そろそろ年の瀬だからか、街はどことなく忙しないような気がする。
映画なら「幸福の黄色いハンカチ」と「八つ墓村」が人気で、映画館の前では人々が長い行列を作っている。街に流れている音楽はピンク・レディーに山口百恵、ジュリー。キャンディーズはついこの間「普通の女の子に戻りたい」と解散を宣言して、巨人の王選手はホームラン世界新記録を達成した。
「ねえ、ちょっとあそこ見て」
おチビちゃんが指差したのは、新宿コマ劇場の上。ダビデさんが眩しそうな顔をして見上げる。
「前に話したでしょ、ダンスを習いに行ってるって。あそこが教室なの」相変わらず身体が硬いおチビちゃんは、ちょっと前から振付師の松原貞夫先生の教室に通っていた。「不思議だと思わない?」
「何が?」
「四季に入るまでダンスが苦手なんて思ったことなかったのよ。で、松原先生のところでも、別に下手じゃないんだもん。四季のみんなが上手すぎるんじゃないかしら」
「そうそう。そうやって前向きにとらえるのが一番幸せ」
どういう意味よ、という言葉を呑み込んでダビデさんと手をつなぐ。身長差のせいか少し歩きづらい。彼も別に驚いたりせず、そっと掌を包んでくれる。そう、実は数日前、おチビちゃんは積極的なアタックを繰り返した結果、今日のデートの約束を取り付けたのだ。七歳年下の恩師の娘ということで、ずいぶん彼も戸惑っていたと思う。でも最後はおチビちゃんの熱烈な押しの一手が気持ちを動かした。そっと見上げた視線の先には、彼の綺麗なあごのライン。「ねえ、映画なんかどう?」と問いかけてみる。
「あんなに並んでるのに?」
興味なさそうに呟いたけれど、つないだ手はほんのり温かい。やっぱり気持ちを伝えてよかったと、おチビちゃんはマフラーに顔を埋めた。
あまり荷物が多くなかったこともあり、初台への引っ越し自体に手間はかからなかった。タイミングも良かったので、神奈川の実家に戻る必要もない。そこまではトントン拍子。大変なのは、本格的に新しい暮らしが始まってからだった。
下目黒の下宿の時は、よくスミエちゃんや高校時代の友達が来てくれたけど、やはり「同居」となると話は別。とにかく毎日、家の中に他人がいる。もちろんそれぞれの部屋は用意されていて、その間にはピアノが置かれたレッスン用の大部屋。つまり最低限のプライバシーは確保されていた。でもやはり共同生活となると今までとは勝手が違う。
ルームパートナーのアヤメさんは、他の劇団主宰者のお嬢さんで、もうテレビの仕事もしていた。そういう面では色々と勉強になるのかもしれないが、おチビちゃんは少々彼女が苦手だった。スミエちゃんみたくサバサバしているタイプなら付き合いやすいけど、どうやら彼女はちょっと違う。一言で言えば、ベッタリしてくる感じ。好かれているとは思うけど、ちょっと波長が合わない。
とは言っても、授業に稽古にダメ取りにと毎日忙しくしているので、彼女と全く顔を合わせない日もある。家が稽古場に近くなった分、前よりも帰りが遅くなった気がしないでもない。
アヤメさんに微かな親近感を覚えるのは、彼女がボーイフレンドを家に連れて来る時。もちろん挨拶をするなんて野暮なことはしない。自分の部屋に届く物音や話し声で察するだけ。週末、ダビデさんが遊びに来る時はその反対。彼女がしゃしゃり出てくることはない。これが「暗黙の了解」ってことなのかしら……。そんな風に思っていた。
実はこんな彼女との共同生活が後々大きなトラブルになってしまうのだが、まだおチビちゃんは知る由もない。ただただ毎日忙しい。文字通り寝る為だけに家へ帰る日々が続くこともある。数日ゆっくりできるのは、それこそ体調を崩した時くらいだ。
そんな慌ただしい毎日の中、ふと気がつけば研究生三年目に突入していた。もちろん恒例の試験に受かった結果ではあるけれど、当のおチビちゃん自身はバタバタと忙しく、試験のことをあまり覚えていない。そしてその忙しさは、年が明けてもなかなか途切れなかった。
研究生として最後の年、おチビちゃんにとって一番の大仕事は二度目の「ニッセイ名作劇場」。日々の鍛錬の結果、昨年に続いて出演が決まった。演目は『モモと時間泥棒』。やはりドイツの児童文学で、おチビちゃんは主人公モモの友達の役。一緒にいる場面が多いので出番も自然と増える。
去年経験したとはいえ、やはり旅公演は肉体的にも精神的にも大変だ。しかも公演数は昨年より増えて九十回以上。かといって、それにばかり専念するわけにもいかない。普段浅利先生から指名されるダメ取りも、一気に量が増えた。ざっと数えただけでも五本以上。チェーホフの『桜の園』にシェイクスピアの『ヴェニスの商人』、小説家・三浦哲郎の『ユタと不思議な仲間たち』等々。感慨深かったのは、研究所へ入る前に授業をさぼって観に行った『エクウス』。あれからもう三年も経ったことが信じられない。あの時舞台の上にいた市村正親さんは憧れの先輩だ。普段、何気なく挨拶や言葉を交わしているけれど、三年前にはそんなこと思ってもみなかった。
それにしても忙しい。いくら引っ越して稽古場が近くになったとはいえ、一日は二十四時間しかない。四六時中、気が張った状態のまま、あっという間にまたヤマ場――試験の時期になってしまった。
しかも今回の試験は今までと意味合いが違う。合格すれば研究生から劇団員になれる、いわゆる劇団員試験。もちろん落ちてしまえばそれまで。劇団員にはなれないし、研究生でもなくなってしまう。実は補欠的扱いの「準劇」という立場もあるのだが、あくまでも目指しているのは正規の劇団員。
言うまでもなく、総勢二十名ほどの同期生たちも必死だ。誰もがライバル。世の中はクリスマスシーズンだが一切関係ない。みんな朝の早い時間や夜の遅い時間を使い、稽古場で個人練習に励んでいた。
おチビちゃんはといえば、やはりダメ取りに追われてなかなか個人練習もできない毎日。試験に向けて切磋琢磨する同期生の姿に、不安が膨れ上がってもおかしくなかったが、実は少しだけ考え方を切り替えていた。
――もし良くない結果が出たら、「ダメ取りが忙しくて練習できなかったんです」って抗議しなくっちゃ。
二年連続で大舞台を踏んだ成果なのか、おチビちゃん、いつの間にか肝がずいぶん座っていた。
そして遂に試験当日。科目は三つ。
一、ダンス(ジャズとクラシックの二曲)
二、歌
三、セリフ
今までの試験の科目と同じだったが、受かれば夢にまで見た劇団員。緊張しつつも新鮮な気持ちで受けることができた。そんなおチビちゃんの感覚は正しかったらしく、セリフのテストを終えて控え室で休んでいると、浅利先生が歩み寄ってきて言葉をかけてくれた。
「さすが、門前の小僧だな」
門前の小僧、習わぬ経を読む……普段見聞きしているうち、いつの間にか学び知ってしまう。そんな意味の言葉を先生からかけられたものだから、まだ結果も出ていないのに嬉しくなってしまった。おチビちゃんにとって大切なのは、ダンスでも歌でもなくセリフだったからだ。だからこそ先生の言葉に全身が痺れた。
それだけではない。セリフの試験の際に同席していた大先輩の女優、三田和代さんも「いったいどこで勉強したのかしら?」と驚いていたという。もちろん、先生が言うようにダメ取りの成果だ。そうよ、私は門前の小僧なのよ!
翌日、貼り出された結果は正にその通りだった。合格者、即ち劇団員になれるのは僅か三人。おチビちゃんはセリフでトップの成績を収めて無事合格。他の二人もそれぞれダンスと歌でトップを取っていた。
これで正真正銘、劇団四季の一員になれたんだ――。
本来ならじっくりと喜びを噛み締めながら、長いようで短かった今までの三年間を振り返り、ダビデさんと一緒に喜びを分かち合うべきかもしれない。あるいは神奈川の実家に帰って、美味しい料理を食べながら、のんびり羽根を休めるべきかもしれない。
でも、おチビちゃんのやるべきことは目の前にたくさんあった。山積みだ。ここはゴールじゃないんだわ、と背筋が伸びる。ここは単なる通過点。いや、やっとスタートラインに立ったところかもしれない。静かに前を見据えたおチビちゃんの顔に、三年前の面影はあまり残っていなかった。もう二十一歳、大人だ。
そして大人の世界は色々なものがひしめき、うごめき、複雑に絡み合っている。実はこの時、同期生や先輩からおチビちゃんは疑いを掛けられていた。
日頃からみんなの動向を監視して、浅利先生やその周囲のスタッフに逐一密告しているのではないか、という疑い。大袈裟にいえば「スパイ疑惑」。
ダメ取りの実力を認められていたおチビちゃんは、制作部との食事をはじめとして、劇団を運営するオトナの方々との付き合いが結構増えていた。そのことが周囲の誤解を招いていたのだ。
言うまでもなくおチビちゃんはスパイなどしていない。でも一度疑われてしまうと、なかなか元の状態には戻しづらいのも事実。お芝居が好き、演技が好き、という情熱だけで前進できた時期はもう終わってしまったのかもしれない。
(第05回 了)
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