商業句誌は本当に俳句作り方ノウハウ特集が好きだ。読者の大半が俳句とは何かを深く考えたことのない、とにかく一刻も早く自分で俳句を詠みたい人たちなのだから仕方がない。そういう人たちには季語の使い方はこう、切れ字はこんな種類があってこう使うと効果的なので、具体例をあげて説明しましょうというテニオハ指導はもちろん有用である。しかし読み物としてこれほどつまらないものはない。それにテニオハ指導は俳人と言っても初心者以外には不要でもある。プロの俳人たちが俳句創作方法を忌憚なく披露し合えば相違点も多いはずだ。また一昔前のホットドックプレス「初めてのデート」のようなノウハウ指導がこの先も続くのかは保証の限りではない。
小説の世界で作家が書いた文章読本が読まれていたのはいつくらいまでだろう。せいぜい一九八〇年代までではあるまいか。九〇年代になるとネット時代になり、社会動向の影響を受けやすい小説界では文章読本が書かれなくなった。文章読本とは小説の読み方書き方をやんわり説明した読み物だが、ネット上に小説創作ノウハウが大量流出して、文壇の裏情報も簡単に入手できる時代になってその役割を終えた。
今はまだネットに不慣れな高齢者がたくさんいて、そういう人たちが結社に新たに参加したり商業句誌の俳句創作ノウハウ特集を読んだりするわけだが、この先は生まれながらのネット世代が中心になる。現在のようにどこかで読んだことがあるようなノウハウ特集がずっと続く可能性は低いでしょうな。俳壇は政治の世界に似ていて大結社中心に賞などが動くので、これからも利権集団として一定数の大結社は存続するだろうけど、小手先の創作ノウハウはかなり先行き怪しい。
佳い句を得るにはどうすればよいか。俳句から逸れるが、次の話から筆を起こそう。
私はカメラが好きで、四季の景色や街のスナップを撮るのだが、上手く撮れなかった。(中略)
そんなある日、写真家の方とお話する機会があった。うまく撮るコツや秘訣をお聞きしたところ、意外な答えばかりで驚いたのを覚えている。例えば、自分が何を撮りたいかをまず認識するというもので、人間や花、動物、建築それぞれの撮り方があり、人を撮るにも表情なのか、動きを強調したいのか、その人を活かす風景を撮る等で練習も考え方も異なるという。(中略)
練習法も驚きで、例えば陽光に詳しくなりたければ同じ場所を早朝から夜までひたすら撮るとよい、と仰った。(中略)
写真史を知っておくと有利、という一言も印象的だった。何をもって写真とするか、その解釈が複数あることを知ると視野が広がり、過去の作品を学ぶことで撮り方の引き出しが増えるだけでなく、昔の多様な作風と対話することで自分がどのタイプなのかを再認識させられる、というのだ。(中略)
俳句に戻ると、いかに佳句を得るかということと、写真の話は似ていないだろうか。
(青木亮人「論考~作句にあたり大切にすべきこと 句作の練習と、すがた」)
角川俳句なら頭っからテニオハ指導が続くところ、一本だけだが読み物としてのエッセイが掲載されているのが俳句界らしい。青木亮人さんは写真と俳句の上達には似た点があると書いておられるが単なる思いつきではあるまい。実際俳句界には「文字のないエッセイ」など、ほぼ毎号カラー写真ページが掲載されている。瞬時に外界を切り取る俳句と写真には共通点がある。
だいぶ前だが文学金魚が写真家の荒木経惟さんにインタビューして、同時に荒木経惟論の特集を組んだ。荒木さんは使い捨てインスタントカメラ「写るんです」が発売された時に(昭和六十一年[一九八六年])、「写真はおしゃーしんよ、シャッター押せば写るのよ。これからはみんな写真家なのよ」と言ったらしい。
この荒木さんの予言めいた言葉は現在では普通になった。新聞記者などが決定的な現場に出くわしそれが特権的才能だともて囃されたのは昔の話で、今は何か事件があればテレビ局も新聞も、まず居合わせた素人の写真や動画を集めるのが常である。誰もが報道写真家になれるわけだ。
また奇跡の一枚だろうと、プロに遜色のない風景や人物写真を撮る素人カメラマンはいくらでもいる。複雑なマニュアルカメラの時代が終わり誰もが高解像度で自動補正付きのデジカメを使う現在では、プロもアマチュアも同じラインに立っている。では何がプロとアマチュアを分けるのだろうか。
クライアントやモデルと上手に付き合え、写真スタジオの機材やスタッフを使いこなせるのがプロカメラマンの条件になるのは当然である。しかし写真を芸術として考えればそれは低い敷居に過ぎない。すぐに忘れ去られるスナップや商業写真とは違って人の心に強い印象を残す写真――芸術写真――を撮る写真家は、素人と何が違うのか、ということだ。
全自動カメラになればプロとアマチュアの差はなくなると喝破した荒木経惟は、マニュアルカメラの時代から写真を撮りまくっていた。よほどのことがないと写真家の名前がついた写真集を出すのは難しい。写真集とはアイドルやかわいい動物やキレイな風景を撮ったものがほとんどであり、写真家の名前は添え物のように印刷されるのが常である。しかし荒木さんは中年になる頃まで自費で版元を作り、自分の名前が印刷された写真集を自費出版していた。多作と写真集を出し続ける姿勢が荒木さんを稀有の写真家にしたと言える。
荒木さんの写真を撮って撮って撮りまくる姿勢は、俳句の、特に有季定型を主な表現方法とする俳人の姿勢に似ている。写生俳句は現実のある瞬間を切り取るわけだから、狙い澄ました決定的瞬間は捉えにくい。広い的にダーツの矢を投げまくるように、たくさんの矢が突き刺さった場所の偏差によってそれぞれの作家性が浮き彫りになる。
写生俳句では多作が必要とされることになるわけだが、写生を基本とする俳人でも多作とは言い難いのが実態である。呆れるほど句集を出しまくっている俳人は少ない。句集を出しても収録作品はせいぜい三〇〇句くらいで、それも五年、六年に一度だ。俳句の特性を考えれば多作は一つの強い作家性になり得る。また俳句は結局は十七字前後をウロウロするわけだから、狙い澄ました前衛系俳句でも多作は必須である。俳句である限り、一本の矢で狙った的の箇所を射貫くのはほぼ不可能である
境涯や自然美、物語的な人間関係、俳諧味あふれる趣向・・・・・・あなたは何をモノにしたいのだろ。師系や結社、選者の傾向と重なりつつも微妙に異なる問いだ。一朝一夕に回答は出ないにせよ、それはあなたが自分を見つめ直し、俳句に何を求めるかを再確認する営為であり、自分の好みはどこから来るのかといったことを自問自答しつつ、多様なクセや特徴を持つ「私」を意識することが「俳句に何を求め、何を詠みたいか」につながるはずだ。
同時に、俳句は短い詩型であり、「私」を詠むには特殊な技術がいる。
(同)
青木さんの論は正鵠を得ていると思うが、軽いエッセイでまとめられるのはこのあたりが限界だろう。私=作家性と俳句の関係は最も厄介である。これも写真の比喩で言えば、デジカメ全盛となった今でも写真展を開き写真集を出す時は印画紙や紙に写真を印刷する。そして一枚の写真を裏返すとそこには何もない。真っ白だ。俳句も似ている。俳句の作家性は白、つまり非作家性、非自我意識に支えられているところがある。評釈では作家性を深読みすることが多いが、作品そのものは単純そのもので、作家性は多様な読解の一つであるのが理想である。
岡野隆
■ 青木亮人さんの本 ■
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